第13話 その人、俺を知ってる
玄関のほうで、知らない声がした。
すみは本棚のいちばん上で体を低くした。高くて明るい声だった。あおいの声に少し似ているけれど、もっと早口だ。
「なつ、いらっしゃい。寒かったでしょ」
「ぜんぜん。むぎは? むぎ、どこー?」
その声が名前を呼んだとたん、寝床にいたむぎが弾かれたように飛び出していった。廊下の向こうですみが聞いたこともないような高い声で鳴いている。
「むぎー! 久しぶり! 覚えてる? 覚えてるよねえ」
リビングに入ってきたのはあおいより少し背の低い人間だった。その足元にむぎがまとわりつくようにして歩いている。尻尾はすみが見たこともないくらい大きく振れていた。
なつと呼ばれた人は床に座るなり、むぎの耳の後ろを両手でくしゃくしゃと撫でた。むぎがいちばん好きなところだ。むぎは目を細めて、なつの膝に体ごと寄りかかった。
「ここでしょ、ここ。むぎはここが好きなんだよねえ」
すみは本棚の上から、それを見ていた。
あおいがなつの隣に座った。
「すみもいるよ。あそこ、本棚の上」
「え、どこ? あ、いた! 黒い! ちっちゃい! すみちゃーん」
なつが手を振った。すみは耳を少し伏せた。下りていきたい気もした。あの手がむぎの耳の後ろをどんなふうに撫でているのか、近くで見てみたかった。けれど本棚から床までは遠く、床からなつの膝までも遠い。どの順番で近づけばいいのか、すみには分からなかった。
なつは何度かすみを呼んだあと、またむぎの背中を撫で始めた。
「人見知りなんだね。いいよいいよ、無理しないで」
すみは前足に顎を乗せた。下からは、むぎの尻尾が床を叩く音と、二人の笑い声が聞こえてくる。
ふと、むぎがなつの膝から体を起こした。むぎは本棚を見上げてから寝床のほうへ歩いていき、布ボールをくわえて戻ってきた。ボールを置いたのはなつの前ではなかった。本棚の下、すみが下りてきたときにちょうど前足が届くあたりだった。
「すみ、ボール」
むぎはそれだけ言って、ボールの横に伏せた。
すみは本棚の上からボールを見下ろした。いつものボールだった。いつもの、むぎの伏せ方だった。
すみは本棚の中段に下り、そこから床に下りて、前足でボールをちょんと押した。むぎがボールを追いかけ、戻ってきて、またすみの前に置いた。
「え、遊んでる!」
なつの声が弾んだ。すみの耳がそちらへ動いたが、すみはそのままボールを押した。勢いをつけて押すと、ボールはなつの膝のほうへ転がっていった。
なつがボールを拾った。
「すみちゃん、いくよー」
なつの手からボールがころころと転がってきた。すみはそれを前足で受け止めた。
*
夕方、なつが帰ると、家の中は急に静かになった。玄関から戻ってきたむぎは、まだ少し尻尾を振っていた。
「ねえ、むぎ」
「なんだ」
「あの人、何が好きな人なの?」
むぎは顔を上げた。考えるそぶりも見せなかった。
「俺」
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