第6話 眠り姫は、舞踏会を一時間で帰ります
第6話 眠り姫は、舞踏会を一時間で帰ります
白百合慈善院の創立記念舞踏会が開かれる日の午後、ベルナール伯爵邸の衣装室には三着のドレスが並んでいた。銀色の絹、薄桃色の薄布、灰青色の柔らかな綿絹である。セレスティーヌは銀色のドレスを手に取ったが、背中へ入った鯨骨を指で押すと、何も言わず元の場所へ戻した。
「こちらにしましょう。横になっても背中に飾りが当たりません」母が選んだのは、灰青色のドレスだった。胸元には小さな真珠が縫いつけられているが、腰を締める帯も、重い裾飾りもない。
「王宮へ行くのに、これでは普段着に見えないかしら」ミレイユは鏡の前で腕を上げ、袖が引きつらないことを確かめた。寝台の上では、ティナが小さな毛布と枕を外出鞄へ押し込み、その横で老犬のポムが灰色のリボンを前足で踏んでいた。
「眠るために行くのではないのでしょう」
「眠くなったら帰るために行きます」
「ならば、脱ぎやすく、横になりやすい服でなければなりません」
セレスティーヌはそう言いながら、ドレスの脇に小さなポケットがあることを確かめた。以前なら、王宮へ出る娘には肩が凝るほど宝石をつけ、少しでも健康そうに見えるよう頬へ紅を重ねただろう。今日は淡い色の口紅だけを塗り、髪にも白い梔子の花を一輪挿した。
「熊は、本当に持っていくの?」
「腹の中にあるものが、リゼットの近くで反応するか確かめます」
「また眠りが深くなったら?」
「一時間で帰ります。ティナとイザーク様も一緒です」
母の指が、熊の焦げた腕へ伸びた。前回、自分が火へ近づけた跡を見つめたあと、毛並みに触れず手を下ろした。熊は柔らかな布で包まれ、ティナの鞄の底へ入れられた。
「必ず一時間で帰りなさい」
「はい」
「一時間と一分でも過ぎたら、私が王宮へ迎えに行きます」
「その場合も、舞踏会用の靴へ履き替えてから来るのでしょう?」
セレスティーヌは、絨毯の上に置かれた室内履きを見た。昨夜ポムに房飾りを引き抜かれたため、片方だけ先端が丸坊主になっている。母は口元を手で隠し、娘の帽子がずれていないか確かめた。
王宮へ提出した参加条件書には、滞在は一時間、舞踏には加わらない、眠気が来た場合は直ちに休憩または退出すると記されていた。王宮側の承認印も受けているため、今夜は誰にも予定を延ばす権利がない。ティナはその写しを三部作り、自分の鞄、イザークの書類挟み、ミレイユのドレスのポケットへ一部ずつ入れた。
馬車へ乗ると、イザークはすぐに懐中時計を取り出した。焦茶色の礼装は胸元だけ金糸で飾られていたが、右袖には診療所でつけた青いインクの染みが残っている。磨いたつもりらしい靴も、踵にだけ蜜蝋が固まって白くなっていた。
「王宮の門を通過した時点から一時間です。四十五分で退出を始めます」
「まだ着いてもいないのに、もう帰る話をするのですか?」
「帰る時間を決めずに出かけると、帰れなくなります」
「子どもの遠足のようですわね」
「熊を連れているので、似たようなものです」
ティナが鞄を膝へ抱え直した。中から熊の耳が一つだけ覗いていたため、押し込みながら布を掛ける。馬車の座席には料理長が持たせた卵と胡瓜のサンドイッチが残り、胡椒とバターの匂いがしていた。
慈善院の舞踏会は、王宮西棟の冬庭園で開かれていた。硝子張りの天井から夕方の光が入り、白百合、梔子、初夏の薔薇が通路を埋めている。中央の噴水には輪切りの檸檬が浮かべられ、給仕たちは白百合の形に焼いた菓子を銀盆で運んでいた。
ミレイユが会場へ入ると、いくつもの扇が同時に開いた。前回の婚約破棄を見ていた者たちが、灰青色のドレスと平らな靴を順番に眺めている。壁際には長椅子が用意され、その上へミレイユの名前を書いた札と、小さな枕が置かれていた。
「本当に寝台を持ち込ませたのか?」ベルトラン王太子が、葡萄酒の杯を持って近づいてきた。金色の礼装には勲章が三つ並び、その一つが裏返っていることに本人は気づいていなかった。
「長椅子です。寝台は寝室にあります」
「王宮へ来てまで横になるとは、どこまでわがままな怠け者なのだ」
「参加条件は、王宮から承認されています」
「私が認めた覚えはない」
「国王陛下の印です」
ティナが条件書の写しを広げると、ベルトランは杯の葡萄酒を飲み干した。王子は紙を奪おうとしたが、イザークが先に折り畳み、礼装の内側へ戻した。懐中時計の蓋を開き、時刻を確かめる。
「残り五十二分です。殿下のお話が長引くほど、ミレイユ様の滞在時間は短くなります」
「私より時計を優先するのか?」
「いいえ。ミレイユ様の体調を優先しています」
ベルトランの指が空の杯を強く握った。近くにいた給仕が新しい葡萄酒を注ごうとしたが、王子は杯を渡さず、銀盆の端へ雫をこぼした。白い卓布へ赤い染みが広がり、給仕は誰にも見られないよう花瓶を少し動かして隠した。
楽団が演奏を始めると、階段の上へリゼットが現れた。純白のドレスには銀糸で白百合が刺繍され、長い裾が階段を覆っている。胸元には大粒の真珠が連なり、腰には王家の色である青い帯が結ばれていた。
「皆様、本日は白百合慈善院のためにお集まりくださり、ありがとうございます」リゼットは階段の途中で足を止め、会場を見回した。新聞記者の写真機が向けられると、子どもを抱くように両腕を胸元へ重ねた。
「孤児たちには、温かい食事と清潔な衣服、そして母親のような愛情が必要です。今夜の寄付はすべて、子どもたちの未来のために使わせていただきます」
拍手が冬庭園を満たした。ミレイユは、慈善院でパンを取り上げられたノエの靴を思い出した。剥がれた靴底の中に焼き菓子を隠し、明日の朝に食べると言った声が、拍手よりも近くに残っていた。
リゼットが階段を下り、招待客へ挨拶を始めた。純白のドレスがミレイユの前を通った瞬間、胸の奥で何かが引かれた。眠気が来るにはまだ早かったが、視界の端が白く霞み、耳の奥で小さな音がした。
「イザーク様。あのドレスを、近くで見たいです」
「残り三十八分です」
「五分だけ」
「触れないでください。声を聞こうとしないこと」
ミレイユはうなずき、リゼットのいる寄付受付へ向かった。卓上には金貨を入れる硝子箱と寄付者名簿が置かれ、隅には冷めた紅茶が一杯残っている。紅茶の表面には牛乳の膜が張り、飲みかけの口紅が白い陶器へついていた。
「ミレイユ様も寄付をしてくださるの?」リゼットは白い扇を開き、純白の裾を広げた。近くで見ると、銀糸の白百合の下に、異なる刺繍をほどいた針跡がいくつも残っていた。
「そのドレスは、どちらでお仕立てになったのですか?」
「王都で一番の仕立屋ですわ。殿下が私のために用意してくださいました」
「新しい布には見えません」
リゼットの扇が止まった。ミレイユはドレスの裾へ視線を落とした。白い絹の内側には、何着もの布をつなぎ合わせた縫い目がある。
「失礼なことを仰らないで。慈善院の代表として、質素に見える工夫をしただけです」
「触れてもよろしいかしら?」
「お断りします」
リゼットが後ろへ下がったため、長い裾がミレイユの靴へ触れた。ほんの一瞬だったが、布から温かな手の感触が伝わった。続いて、何人もの女の声が、重なるように耳へ流れ込んできた。
「娘の花嫁衣装です」
「売って、子どもたちの冬服にしてください」
「この真珠も差し上げます」
「うちの子が着られなかった分まで、温かくしてあげて」
ミレイユは卓上へ手をついた。母親たちは、自分や娘が結婚式で着た衣装を慈善院へ寄付していた。ドレスをそのまま子どもへ渡すのではなく、売った代金で冬服や食事を用意してほしいと願っていた。
しかし、リゼットは寄付された花嫁衣装をほどき、自分のドレスへ仕立て直している。胸元の真珠も、母親たちが子どものために手放したものだった。ミレイユの膝から力が抜け、卓布をつかんだ指が滑った。
「ミレイユ様、休憩です」イザークがすぐに肘を支えた。懐中時計を見ると、予定より十五分早かった。ミレイユは歩こうとしたが、足を前へ出せなかった。
「ドレスから、声が……」
「今は話さなくて構いません」
「寄付された、花嫁衣装です。母親たちが、子どもの服にしてほしいと……」
周囲の者たちが振り返った。リゼットは扇を閉じ、ミレイユへ一歩詰め寄った。薔薇の香油の下から、汗と焦げた閃光粉の臭いがした。
「何を根拠に、そのような言いがかりをつけるのです?」
「裏地に、つなぎ目があります。刺繍をほどいた跡も」
「長眠症で夢と現実の区別がつかなくなったのではなくて?」
リゼットの声に、招待客の間から笑いが漏れた。ベルトランは止めるどころか、満足そうに口元を上げている。イザークは反論せず、ミレイユを壁際の長椅子まで連れていった。
「横になります」
ミレイユは自分から告げ、灰青色のドレスの裾を整えて長椅子へ横になった。人前で眠る姿を見せれば、また笑われるだろう。それでも倒れて誰かに運ばれるより、自分で眠る場所を選びたかった。
ティナが枕を頭の下へ入れ、平らな靴を脱がせた。料理長が持たせた毛布には、今朝のパンを焼いた煙の匂いが残っている。ミレイユは目を閉じかけたが、ティナの鞄が開いていることに気づいた。
熊の片耳が、鞄から覗いていた。
「まあ、その熊は!」リゼットが声を上げ、長椅子へ近づいた。先ほどまでの笑みは消え、純白の裾を踏みながら鞄へ手を伸ばした。
「これは慈善院から盗まれた品です。返していただきますわ!」
「持ち主のノエから、修繕を頼まれています」ティナは鞄を抱えたが、リゼットは熊の腕をつかんだ。二人が引き合い、首の診察券が床へ落ちた。
「その子に所有権などありません。慈善院へ寄贈された物です!」
「ノエのお母様が、ノエのために作った熊です」ミレイユは長椅子から起き上がろうとした。しかし腕に力が入らず、毛布の端を握ることしかできなかった。
「返してください」
「夢の話で私を侮辱した罰です。こんな薄汚い熊、今ここで処分します!」
リゼットは熊を奪い、暖炉へ駆けた。冬庭園には夜の冷え込みに備えて火が入れられ、赤くなった薪が音を立てて崩れている。彼女は熊を両手で持ち上げ、そのまま炎へ投げ込んだ。
「やめて!」
ミレイユの声と同時に、イザークが走った。暖炉の前へ膝をつき、火ばさみも使わず熊の足をつかんで引き出した。焦げた毛が煙を上げ、黒くなった片耳から小さな炎が立っていた。
イザークは自分の礼装で熊を包み、床へ押しつけて火を消した。金糸の刺繍が煤で黒くなり、青いインクの染みまで見えなくなった。素手で炎へ触れたため、右手の甲には赤い筋ができていた。
「熊をこちらへ」ミレイユが両手を伸ばすと、イザークは焦げた部分が肌へ触れないよう向きを変えて渡した。熊の片耳は半分なくなり、黒い綿が覗いていた。
「耳が……」
「直せます」
「本当に?」
「私は、ぬいぐるみのお医者様ですから」
イザークは右手の火傷を背中へ隠し、左手で診察券を拾った。リゼットは暖炉の前で立ち尽くし、純白のドレスの裾へ煤をつけていた。ベルトランが彼女をかばおうと近づいたが、イザークは二人の前へ王立記録院の徽章を示した。
「王立記録院が保全した調査品を、故意に焼却しようとしましたね。ここにいる全員が証人です」
「その熊は慈善院の所有物です!」
「ならば、なぜ処分する必要があったのですか?」
リゼットは口を開いたが、答えなかった。写真機を持った新聞記者が、暖炉の前の彼女へ向けて閃光粉を焚いた。白い光の中で、寄付された花嫁衣装は煤に汚れ、熊の黒く焼けた耳がミレイユの腕から垂れていた。
懐中時計の針は、退出予定まであと二分を示していた。ティナは条件書を取り出し、王宮の承認印を周囲へ見せた。イザークは熊を抱くミレイユの背中と膝へ腕を入れた。
「お時間です。帰りましょう」
「でも、ドレスのことを――」
「続きは、起きてからです」
ミレイユは一度だけうなずいた。イザークに抱き上げられた胸元で、熊の焦げた毛が鼻をくすぐった。遠ざかる意識の中で、花嫁衣装に残された母親たちの声が、まだ聞こえていた。
「子どもたちを、温かくしてあげて」
冬庭園を出る直前、ミレイユはリゼットの純白のドレスを見た。寄付した母親たちの願いをまとった女は、煤のついた裾を両手で隠していた。ミレイユは熊を離さず、馬車へ運ばれる途中で眠りに落ちた。




