第5話 眠っている時間は、存在しない時間ではありません
第5話 眠っている時間は、存在しない時間ではありません
翌朝、ミレイユが目を覚ますと、寝室の扉の下から細い光が差し込んでいた。廊下で椅子を引く音がして、そのあとに小さなくしゃみが二度続いた。セレスティーヌは一晩中、扉の前にいたらしい。
ミレイユは枕元の呼び鈴へ手を伸ばさず、自分で上半身を起こした。頭の中には水を含んだ綿が詰まっているようで、窓辺のデルフィニウムも青い塊にしか見えなかった。それでも寝台の端へ座り、床へ落ちていた室内履きを足先で探した。
扉を開けると、セレスティーヌが背もたれの硬い椅子で眠っていた。濃紫色のドレスは皺だらけで、膝には燻製肉のサンドイッチを包んでいた紙が載っている。片方の靴が脱げ、踵には赤い擦り傷ができていた。
「お母様」
セレスティーヌは目を開き、娘の姿を見るなり椅子から立ち上がった。伸ばしかけた腕を途中で止め、何もなかったように髪を撫でつけた。髪留めは斜めになり、いつもきれいにまとめている灰金色の髪が頬へ落ちていた。
「一人で起きたの?」
ミレイユは答えようとしたが、起床直後の舌はまだ動かなかった。口を開いても息しか出ず、母の眉間へ皺が寄った。セレスティーヌが呼び鈴を取ろうとしたため、ミレイユは手のひらを向けて止めた。
「声が出ないのね。すぐに医師を――」
ミレイユは首を横へ振り、寝室の机から鉛筆を取った。紙へ『いつものこと。二時間待って』と書き、母へ渡した。文字は右へ傾き、最後の「て」は線がつながっていなかった。
セレスティーヌは紙を読み、唇を固く結んだ。これまでなら医師を呼び、薬を飲ませ、娘が話せるようになるまで寝台から出さなかった。しかし今朝は何も言わず、廊下の椅子を壁際へ戻した。
食堂には、冷めた麦粥と焼いた林檎が用意されていた。料理人は三度も温め直したらしく、粥の表面には薄い膜が張り、林檎の皮は皿へ貼りついている。ミレイユは母と向かい合って座り、ティナが一口ずつ運ぶ匙を黙って受け入れた。
「ご自分で召し上がる練習は、明日からにいたしましょう。今日は調査の日ですから、食べることに力を使いすぎてはいけません」ティナは粥を混ぜ、熱くないことを確かめてから匙を差し出した。ミレイユはうなずき、口を開いた。
「それでは、いつまでも一人で食べられないのではなくて?」セレスティーヌが尋ねると、ティナは匙を止めた。食堂の隅では、老犬のポムが昨夜盗んだ室内履きを前足で押さえ、房飾りを一本ずつ引き抜いていた。
「一人で食べる練習と、今日の調査を両方する必要はございません。一日に一つずつでよろしいかと」
「そんなにゆっくりしていたら、何年かかるの」
「何年かかっても、お嬢様の時間です」
セレスティーヌは返事をせず、冷めた紅茶へ角砂糖を二つ入れた。いつもは一つしか入れないのに、今朝は混ぜる前に三つ目へ手を伸ばし、途中で戻した。ミレイユはその指を見ながら麦粥を飲み込んだ。
起床から二時間が過ぎるころ、イザークが伯爵邸を訪れた。焦茶色の上着に王立記録院の徽章をつけ、脇には紙束と大きな板を抱えている。玄関の花瓶には雨で折れた白い芍薬が生けられ、花びらが一枚、彼の靴の上へ落ちた。
「おはようございます。声は出ますか?」イザークは応接室へ入ってもすぐに座らず、ミレイユから三歩離れた場所で待った。ミレイユが自分から椅子へ座り、返事をすると、向かいの席へ腰を下ろした。
「もう話せます。今日は何をするのですか?」
「その前に、あなたの一日を貸してください」
イザークが広げた板には、一日の時刻が横一列に書かれていた。机の端に置かれた紅茶から湯気が上がり、バターを塗った丸パンの皿には、ポーラが間違えて置いたらしい小さな銀匙が三本も載っている。ティナは一本だけ残し、残りを給仕へ返した。
「貸すとは、どういう意味でしょう」
「調査へ使える時間を決めます。まず、普段は何時に眠り、何時に起きていますか?」
「毎日違います」
「だから記録が必要なのです」
ティナは自分の帳面を出し、直近一か月の起床時刻と睡眠時間を読み上げた。イザークは青い鉛筆で睡眠時間を塗り、起床後二時間を黄色く囲んだ。最後に、比較的動ける時間だけを赤い線で結んだ。
「赤い時間が、調査に使える時間です。面会は一日二件まで。起床後二時間は契約、証言、決裁を禁止します。移動が一時間を超える場合、途中に横になれる部屋を用意します」
「そんな予定では、相手に迷惑をかけます」
「どの部分が迷惑ですか?」
「私のために面会時刻を変え、部屋まで用意させるところです」
「では、あちらの書類を読んでください」
イザークは自分の鞄から、一枚の紙を取り出した。細かな文字が隙間なく並び、インクの薄い箇所はミレイユにも読みにくかった。彼はさらに胸ポケットから眼鏡を取り出し、紙の横へ置いた。
「私には読めません」
「私も眼鏡がなければ読めません。では、私が眼鏡を使うことは、周囲への迷惑でしょうか?」
「それとは違います」
「違いません。眼鏡が必要な者へ小さな文字を読ませ続けても、文字は大きくなりません。眠る必要のある者を起こしておいても、使える時間が増えるわけではないのです」
ミレイユは板の青い部分を見た。一日の半分以上が睡眠で埋まり、赤い線は短かった。王子はその短さを役立たずの証拠として笑ったが、イザークは短い部分へ何を入れるか考えていた。
「これまで、起きている時間を増やすことばかり考えていました」
「増えましたか?」
「いいえ。眠る前に倒れる回数が増えました」
「では、その方法は不採用にしましょう」
イザークは予定板の余白へ大きく『倒れるまで働くことを禁止』と書いた。ティナが横から『焼き林檎による脅迫は許可』と付け足したため、ミレイユは思わず笑った。セレスティーヌだけは笑わず、娘の睡眠記録を見つめていた。
「記録なら、ほかにもあります」母は立ち上がり、応接室を出ていった。しばらくして、革表紙の帳面を六冊抱えて戻ってきた。角は擦れ、最初の一冊には幼いミレイユが貼った花の紙片が残っていた。
「五歳から昨日までの睡眠、食事、発熱、残響を聞いた日を記録しています。医師に見せても、神殿へ持ち込んでも、誰も原因を見つけられませんでした」
「お預かりしてもよろしいですか?」
「返してください。娘が眠っていた時間まで、そこに書いてありますから」
セレスティーヌは六冊をイザークへ渡した。指を離すまでに少し時間がかかったが、取り戻そうとはしなかった。イザークは帳面を粗末に重ねず、古いものから順番に布で包んだ。
午前十一時、三人は王立記録院へ向かった。ミレイユは薄青色の外出着に、白い芍薬を一輪だけ刺した帽子をかぶった。馬車には小さな枕と毛布が積まれ、座席の下にはティナが用意した林檎とチーズの包みが入っていた。
記録院の寄贈台帳には、白百合慈善院へ送られた品が月ごとに記されていた。だが、慈善院が提出した報告書では、そのうち三十七点が「汚損により使用不能」とされ、王宮倉庫へ移送したことになっている。移送証明には、王家の印章まで押されていた。
「王宮倉庫の受領記録は?」ミレイユが尋ねると、イザークは別の帳面を開いた。頁の間には、昼食に食べたらしいパン屑が挟まり、古いインクへ油染みを作っていた。
「ありません。一点も受け取っていません」
「では、服はどこへ?」
「それを、これから探します」
イザークは市場監督官へ送る照会状を書いた。ミレイユは署名を求められたが、起床後二時間を過ぎていることをティナの帳面で確認してからペンを取った。自分の名前を書くだけなのに、今日は誰かに許可されたのではなく、自分で確かめて署名した。
午後、市場監督官から返事が届いた。慈善院が使用不能と報告した品と特徴の一致する衣類が、南市場の古着商へ大量に持ち込まれていたという。ミレイユたちは記録院近くの食堂で豆のスープを食べ、予定していた睡眠を一時間取ってから市場へ向かった。
食堂の二階に借りた休憩室には、狭い寝台と、洗ったばかりの白いシーツがあった。階下から皿を洗う音と焼き玉ねぎの匂いが上がってきたが、ミレイユは人の働く音を聞きながら眠った。目を覚ますと、枕元に水と「急がなくてよい」と書かれた札が置かれていた。
南市場は、果物、革靴、古着、香辛料を売る声で満ちていた。初夏の苺が木箱へ山積みにされ、売れ残った葉野菜には水がかけられている。古着商の軒先には、子ども用の外套や刺繍入りの寝間着が、値札をつけて吊るされていた。
「これです」ミレイユは赤い子ども用外套の前で足を止めた。慈善院の物置で「売らないで」と聞こえたものと、同じ銀色の留め具がついていた。
「王宮倉庫へ送られたはずの品ですね」イザークは台帳の写しと外套を見比べた。裏地の裾には、寄贈者である老伯爵夫人の名を示す『A・G』の刺繍が残っていた。
「その外套を、誰から買い取りましたか?」イザークが店主へ尋ねると、男は値札を裏返し、急に棚の整理を始めた。頭へ巻いた布は汗で濡れ、手には昼食の魚を食べた油がついていた。
「仕入れ先まで客に教える義理はありませんよ」
「客ではありません。王立記録院です」
銀色の徽章を見せると、店主は吊るしていた外套を落とした。床の埃が赤い布へつき、ミレイユはしゃがんで拾おうとした。だが、イザークが先に屈み、証拠用の布へ包んだ。
店主は帳場の下から仕入れ帳を出した。白百合慈善院の名はなかったが、三十七点をまとめて持ち込んだ人物の欄には『モロー商会』と書かれている。リゼットの実家が経営する商会だった。
「慈善院から王宮倉庫へ送られたはずの衣類が、モロー商会を通じて市場で売られている」ミレイユが言うと、店主は首を振り、値札の紐を指へ巻きつけた。イザークは仕入れ帳の頁へ証拠印を押し、市場監督官を呼ぶようティナへ頼んだ。
調査を終えたころ、日が傾き始めていた。ミレイユは店先の長椅子へ座ったが、瞼を開けていられなかった。苺売りの声も馬車の車輪も遠くなり、肩から力が抜けていった。
「すみません。また、途中で……」
「予定どおりです。あなたは今日、記録院と市場の二件を調べました」
イザークは自分の外套を脱ぎ、ミレイユの肩へ掛けた。外套には古い紙と蜜蝋、それから昼食の焼き玉ねぎの匂いが残っていた。ミレイユは膝の上へ証拠の写しを載せたまま、背もたれへ体を預けた。
「眠っている私は、何もしていません」
「いいえ。あなたが眠っている間に、ティナさんは今日の記録をまとめ、私は市場監督官と話します。あなたが目を覚ましたら、その続きを一緒に考えます」
ミレイユは返事をしようとしたが、もう唇が動かなかった。イザークは外套の襟を直し、風が入らないよう肩の下へ折り込んだ。市場の向こうでは、花屋が売れ残った芍薬を水桶へ戻していた。
「あなたが眠っている時間も、あなたの人生です」
その声を聞きながら、ミレイユは目を閉じた。眠っている間にも失われない時間があるのだと、初めて誰かが言った。膝の上の紙には、慈善院から消えた三十七点の衣類と、モロー商会の名前が、乾いた黒いインクで残っていた。




