第4話 お母様は、私を守るために何もさせなかった
第4話 お母様は、私を守るために何もさせなかった
ベルナール伯爵家の王都邸へ戻ったころには、空が薄い桃色に染まっていた。玄関脇の花壇では白い芍薬が雨の重みで傾き、庭師が一本ずつ麻紐で支柱へ結んでいる。ミレイユは馬車から降りようとしたが、足の裏が床へ貼りついたように動かなかった。
「自分で降ります」
「お嬢様、今はおやめください」先に降りたティナが両腕を広げたが、ミレイユは首を横へ振った。慈善院でイザークに抱き上げられてから馬車で二時間眠り、目覚めてからも膝に力が戻っていなかった。
「階段は三段でしょう。手すりにつかまれば降りられます」
「昨日も宿で靴を片方なくしました」
「今日は両方履いているわ」
ミレイユが右足を踏み台へ下ろすと、膝が小さく震えた。ティナは腰へ手を回さず、すぐ横で肘だけを支えた。二段目まで降りたところで玄関扉が開き、濃紫色のドレスを着たセレスティーヌが裾を持ち上げて駆けてきた。
「ミレイユ!」
母は最後の一段にいた娘を抱き上げ、玄関の中へ運んだ。首元からいつもの菫の香油と、冷めた紅茶の匂いがした。ミレイユが「下ろして」と言う前に、広間の長椅子へ横たえられ、膝へ毛布まで掛けられた。
「王宮で婚約破棄を言い渡された翌日に、慈善院へ出かけたそうね。あなたは自分が何をしているのか分かっているの?」
「熊の持ち主を探しに行きました」
「熊?」
セレスティーヌは、ティナが抱えていた鞄へ目を向けた。ティナは両手で持ち手を握り、母親と鞄の間へ半歩入った。玄関の隅では、老犬のポムが片方だけの室内履きをくわえ、誰にも注意されないうちに食堂へ逃げていった。
「お嬢様は今、お休みになる時間です。お話は起床後にお願いいたします」ティナが告げると、セレスティーヌは壁の時計を見た。針は午後六時を少し過ぎ、普段ならミレイユが夕食前の睡眠へ入る時刻だった。
「そうね。まず眠らせなくては」
「いいえ、先に話します」
「明日にしなさい」
「明日では、また何も聞いてもらえません」
ミレイユは長椅子から起き上がった。頭の奥にはまだ眠気が残り、暖炉の上の置き時計が二つに見えた。それでも手すり代わりに椅子の背をつかみ、自分の足で立った。
セレスティーヌは娘の肩を抱こうとしたが、ミレイユは一歩下がった。母の指が行き場を失い、濃紫色のスカートにある小さな糸くずを取った。その仕草は、ミレイユが幼いころから変わっていなかった。
「お母様、白百合慈善院では、子どもに渡したパンを撮影後に取り上げていました。寄贈された服も、物置へ積んだままです」
「あなたには関係のないことでしょう」
「関係があります。あの熊の持ち主を見つけました」
「婚約まで失ったのに、今度は慈善院を敵に回すつもりなの? あなたは一日に何時間起きていられると思っているの」
「今日は六時間です」
「普通の令嬢なら、朝食を終えたばかりの時間よ!」
セレスティーヌの声が玄関広間へ響いた。食堂から銀盆を持ってきたメイドが足を止め、載せていた豆の煮込みを少しこぼした。ローリエの香りが絨毯の上へ広がり、皿の縁から落ちた人参をポムがすばやくくわえて逃げた。
「今夜は豆と鶏肉の煮込みです。お嬢様は先に少し召し上がってから、お休みになったほうがよろしいかと」メイドがおずおずと言うと、セレスティーヌは食堂へ運ぶよう命じた。だが、ミレイユは鞄から熊を出すようティナへ手を伸ばした。
ティナはためらったあと、黄ばんだ熊を手渡した。片耳にはイザークが縫った新しい布が使われ、首には診察券が結ばれている。ミレイユが熊を胸へ抱いた瞬間、セレスティーヌの顔から血の気が引いた。
「それを捨てなさい」
「捨てません」
「今すぐよ!」
母は熊の腕をつかみ、ミレイユから引き離した。そのまま暖炉へ向かい、火の残る薪の上へ投げ込もうとする。ミレイユは母のスカートへ縋りつき、足をもつれさせながら腕を伸ばした。
「やめて! ノエのお母様の形見です!」
「だから危険なのよ。死んだ人間の思いが染みついた品に触れるたび、あなたの眠りは深くなる。王家の古い旗を調べ始めてから、起きられる時間がまた短くなったではありませんか!」
セレスティーヌは熊を火へ近づけた。毛先が熱で縮れ、乾いた布の焦げる臭いがした。ミレイユは母の手首を両手でつかみ、爪を立てた。
「お母様が決めつけているだけです。私の長眠症は、残響を聞く前からありました」
「医師には分からないと言われたわ。分からないなら、疑わしいものを遠ざけるしかないでしょう!」
「分からないものを、すべて燃やさないで!」
ミレイユの声に、セレスティーヌの手が止まった。ティナがすぐに熊を取り上げ、焦げた毛を手のひらで叩いた。幸い、片腕の先が少し縮れただけで、火は移っていなかった。
「ティナ、その熊を私の部屋へ持っていって。ミレイユは今夜から外出禁止よ。寝室の鍵は私が預かります」
「奥様、それは――」
「この子の命を守るためです!」
セレスティーヌは使用人に命じ、ミレイユを寝室まで運ばせようとした。ミレイユは差し出された腕を払い、自分で廊下を歩き始めた。壁へ手をつき、途中で二度立ち止まったが、母には触れさせなかった。
二階の寝室には、白い天蓋つきの寝台が置かれていた。窓辺には薄青色のデルフィニウムが生けられ、枕元には水差し、呼び鈴、香草薬、塩味の薄いビスケットが並んでいる。眠っていても寒くないよう、初夏だというのに足元へ湯たんぽまで入れられていた。
ミレイユは寝台へ腰を下ろした。ティナが熊を隣へ置くと、焦げた腕から煙の臭いがした。セレスティーヌは窓の留め金、暖炉の火、湯たんぽの温度を順番に確かめた。
「窓は指一本分しか開けてはいけません。目を覚ましたときに冷えていたら、すぐ呼び鈴を鳴らすのよ」
「一人で窓を開けることも許されないのですか?」
「起きた直後にふらついて、窓から落ちたらどうするの」
「私は二階の窓から落ちたことはありません」
「浴槽では沈んだでしょう!」
母の声が裏返った。ミレイユは熊の焦げた腕を撫でながら、覚えていない日のことを聞いた。これまで何度も断片的に聞かされてきたが、母が自分から話すのは初めてだった。
ミレイユが五歳の夏、母は浴室で娘の髪を洗っていた。使用人が急ぎの手紙を届けに来たため、母はほんの一分だけ浴室を出た。その間にミレイユは眠り込み、浅い浴槽の中へ顔を滑らせた。
戻ってきた母が引き上げたとき、ミレイユの唇は青くなっていた。床には泡のついた水が広がり、母は裸足のまま医師の馬車を追いかけた。娘が水を吐いて泣き出すまで、濡れた寝間着を着替えることさえ忘れていた。
「一分だったのよ。たった一分、目を離しただけだった」セレスティーヌは両手をこすり合わせた。指輪が皮膚へ食い込み、外した跡が赤く残った。
「だから私を一人で入浴させず、階段も歩かせず、刃物にも火にも触れさせなかったのですね」
「当然でしょう。あなたにはいつ眠気が来るか分からないのよ」
「刺繍の針も持たせてくれませんでした」
「指を刺したら危ないわ」
「台所へ入ることも、庭を歩くことも、友人の家へ泊まることも許されませんでした」
「全部、あなたを守るためよ!」
ミレイユは枕元に並んだ品を見た。水差しは倒れないよう卓上へ固定され、花瓶は割れない木製で、呼び鈴の紐は寝台から起きずに引ける長さだった。母は娘が困らない部屋を作ったのではなく、娘が何もしなくても済む部屋を作っていた。
「お母様。私は、自分でお風呂に入る方法を覚える必要がありました」
「また沈んだらどうするの」
「湯を浅くする。ティナに扉の外で待ってもらう。眠気が強い日は体を拭くだけにする。方法はいくつもあります」
「それでも事故は起きるわ」
「起きたときに、どう助けを呼ぶか覚えます」
セレスティーヌは何度も口を開きかけたが、言葉を出さなかった。窓の外では夕立が始まり、芍薬の葉へ大粒の雨が当たっていた。台所からは豆の煮込みを温め直す匂いが上がり、誰かが鍋の蓋を落とす音がした。
「転ぶ前に抱き上げられていたら、私は起き上がり方を覚えられません」
ミレイユは熊を胸へ抱き、自分の足で寝台の奥へ移った。膝はまだ震えていたが、母へ手を伸ばさなかった。ティナも支えず、すぐ近くで見守っていた。
「私はノエへ、熊を返すと約束しました。腹の中にあるものを調べ、慈善院で何が起きているのか確かめます」
「許しません」
「お母様の許しを求めているのではありません。私は十八歳です」
「あなた一人では何もできないでしょう」
「一人ではしません。ティナとイザーク様に助けてもらいます」
セレスティーヌの眉が動いた。娘が自分以外の誰かを頼ると言ったことが、熊や慈善院の話より気に入らないようだった。けれど、ミレイユは視線を逸らさなかった。
「今夜はお休みなさい。明日になれば、考えも変わります」
「変わりません」
「鍵は預かります」
「外から鍵を掛けたら、窓から庭師を呼びます。二階から飛び降りたりはしませんから、ご安心ください」
ティナが俯き、唇を噛んだ。笑いをこらえているらしい。セレスティーヌは娘と侍女を交互に見たあと、扉を閉めた。
鍵が回る音はしなかった。ミレイユはその音を待っていたが、廊下から聞こえたのは椅子を引きずる音だった。母は扉の外へ椅子を置き、そこへ座ったらしい。
ティナが豆と鶏肉の煮込みを持ってきた。何度も温め直したため豆は形を失い、人参は匙で触れただけで崩れた。ミレイユは半分だけ食べ、熊の焦げた腕を濡れ布で拭いた。
「お母様は、今夜ずっとあそこにいるつもりでしょうか?」
「おそらく。先ほどメイドへ、夜食のサンドイッチを頼んでおられました」
「胡瓜の?」
「燻製肉です。長期戦の構えですね」
ミレイユは匙を置き、熊の腹へ手を当てた。灰色の縫い目の奥には、まだ硬いものが残っている。眠気が首の後ろから広がってきたが、今夜はそれを敵だと思わなかった。
「ティナ。明日の起床予定は?」
「午前十時です。目覚めて二時間後にイザーク様がお見えになります」
「お母様が通してくださるかしら」
「通さなければ、窓から庭師を呼ぶのでしょう?」
ティナが毛布を肩まで掛けた。ミレイユは熊を抱き、ゆっくり目を閉じた。扉の向こうでは、セレスティーヌが椅子へ座り直すたびに、床板が小さく鳴っていた。
夜半に一度、ミレイユは目を覚ました。廊下から、紙包みを開く音と燻製肉の匂いが入ってきた。母はまだ扉の前に座っていたが、寝室の鍵は最後まで掛けられなかった。




