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第3話 パンをもらった孤児は、撮影のあとで返しました

第3話 パンをもらった孤児は、撮影のあとで返しました


白百合慈善院の正門には、白い布と初夏の薔薇で作られた飾りが掛けられていた。門柱の脇には青紫色の紫陽花が咲き、その前を新聞社の馬車が三台も塞いでいる。ミレイユは馬車の窓から人だかりを眺め、膝に載せた鞄の留め金を指先で確かめた。


鞄の中には、灰色の布で包んだ熊が入っていた。片耳はイザークが縫い直し、左足の裏にある『N』の刺繍も傷つけずに残してある。腹の中に触れる硬いものは、持ち主へ無断で取り出さないと決めていた。


「お嬢様、今日は起床から何時間ですか?」向かいに座るティナが、小さな帳面を開いた。紺色の外出着の袖口には白い糸が一本つき、朝にミレイユの帽子を直したときからそのままだった。


「四時間と少し。あと一時間半なら動けると思うわ」


「一時間です。残り三十分は、馬車へ戻るために取っておきます」


「慈善院の中で持ち主が見つかったら?」


「その場合も一時間です。見つからない場合も一時間です」


ティナは帳面へ到着時刻を書き込み、インクが乾くまで息を吹きかけた。ミレイユは反論しかけたが、昨日も「あと少し」と言って診療所に残り、帰りの馬車で靴を脱ぐ力までなくなったことを思い出した。今朝、床へ転がった靴を宿の給仕が寝台の下から見つけてくれたばかりである。


「一時間で戻ります」


「よろしい。破った場合、明日の焼き林檎は半分です」


「それは脅迫だわ」


「健康管理です」


御者が扉を開けると、焼きたてのパンの匂いが馬車の中まで入ってきた。慈善院の前庭には長い机が並び、丸いパンが籠いっぱいに積まれている。子どもたちは洗いざらしの灰色の服を着せられ、新聞記者の写真機の前へ背の順に並ばされていた。


「私の診療所より、ずいぶん景気がいいですね」先に馬車を降りたイザークは、焦茶色の上着の襟を直した。今日は王立記録院の銀色の徽章を胸につけ、片手に寄贈品調査の書類を持っている。


「あなたの診療所にもパンはありましたわ」


「あれは三日前の患者です。今朝、硬くなりすぎて治療を断念しました」


「食べ物を患者に数えないでください」


「残念です。煮れば回復したかもしれません」


イザークが真顔で答えたため、ミレイユは帽子のつばを下げて口元を隠した。ティナは二人の横を通り過ぎ、門番へ王立記録院の訪問証を見せた。門番は銀の徽章を見ると、慌てて背筋を伸ばした。


「寄贈品の保管状況を確認しに参りました。責任者へ取り次いでください」イザークが告げると、門番は前庭の中央を指さした。そこには桃色のドレスを着たリゼットが、白いエプロンを重ねて立っていた。


リゼットの髪には真珠の飾りが輝き、胸元には「孤児たちの母」と刺繍された白い帯が掛かっていた。彼女は籠から焼きたてのパンを一つ取り、列の先頭にいた少年へ両手で渡した。写真機の前で、少年は教えられたとおりにパンを胸へ抱き、リゼットを見上げた。


「たくさんお食べなさい。もう空腹を我慢しなくてよいのですよ」リゼットが少年の髪を撫でると、新聞記者が写真機の布をかぶった。閃光粉が白く光り、焦げた金属の臭いが前庭へ広がった。


続いて、小さな少女が呼ばれた。少女は大きすぎる灰色のワンピースを着て、裾を片手で持ち上げながら進んだ。片方の靴底が剥がれ、歩くたびに土を叩いていた。


「まあ、かわいらしいこと。あなたには一番大きなパンを差し上げましょうね」リゼットが丸いパンを渡すと、少女はすぐにかじろうとした。だが、横にいた職員が肩をつかみ、写真を撮り終えるまで待つよう耳元で告げた。


少女はパンから目を離さなかった。唇を何度も舐め、両手の爪を固い皮へ食い込ませている。閃光粉が光った瞬間、少女はリゼットではなく、パンへ顔を向けていた。


「ミレイユ様、ようこそお越しくださいました」リゼットが二人に気づき、エプロンの端をつまんで歩いてきた。舞踏会でつけていた薔薇の香油が、焼きたてのパンの匂いへ重なった。


「昨日は大変でしたわね。殿下も、お立場上あのように厳しく仰らなければならなかったのです」


「婚約を破棄されたことなら、覚えています」


「まあ。お眠りになっていたので、最後までお聞きになれなかったでしょう?」


「必要なところまでは聞きました」


リゼットの笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。けれど新聞記者がこちらへ顔を向けると、彼女は再び眉尻を下げ、ミレイユの手を包もうとした。ミレイユは鞄を両手で抱え、その指から一歩離れた。


「本日は、慈善院へ寄贈された品の保管状況を確認します」イザークが二人の間へ書類を差し出した。リゼットは銀色の徽章と王立記録院の封印を見比べ、エプロンのポケットへ手を入れた。


「昨日の舞踏会で十分にご覧になったのでは?」


「舞踏会に並んでいたのは、状態のよい品ばかりでした。寄贈台帳には、その三倍の衣類と玩具が記録されています」


「残りは洗浄中ですわ。孤児たちへ汚れたものを渡すわけにはまいりませんもの」


「では、洗浄中の品を見せてください」


リゼットは唇を結び、職員へ目配せした。そのとき、前庭の鐘が一度鳴った。新聞記者たちが撮影を終え、焼き菓子と果実水を用意した天幕へ移動し始めた。


子どもたちの列へ、茶色い制服を着た職員が近づいた。少年が胸へ抱いていたパンを取り、籠へ戻していく。先ほどの少女はパンへかじりつこうとしたが、別の職員が両手をこじ開け、皮に残った小さな歯形を見て顔をしかめた。


「駄目でしょう。これは明日の撮影にも使うのよ」


「もらったの」


「写真のために持たせただけです。昼食は食堂にあります」


「おなかすいた」


「朝も粥を食べたでしょう」


少女の手から、パンが奪われた。床へ落ちた欠片を拾おうとすると、職員は靴先で机の下へ蹴り込んだ。リゼットは新聞記者と話しており、一度も振り返らなかった。


ミレイユは鞄の持ち手を握った。熊から聞こえた「パンを返して」という声が、少女の口の動きと重なった。だが、声をかける前に少女は職員に背中を押され、建物の中へ連れていかれた。


「洗浄中の品はこちらです」別の職員がイザークを裏庭へ案内した。ミレイユたちはリゼットと別れ、食堂の横にある細い廊下を進んだ。開いた扉から大鍋が見え、焦げた麦粥と煮すぎた蕪の臭いが流れてきた。


裏庭には、白いシーツが何枚も干されていた。風に揺れる布の向こうに、石造りの物置がある。扉を開けると、洗浄中とは思えない古着が天井近くまで積まれていた。


子ども用の外套、毛糸の靴下、刺繍入りの寝間着が、縄で雑に束ねられている。雨漏りした跡には緑色の黴が広がり、床へ置かれた靴から湿った革の臭いがした。窓辺には水を替えていない花瓶があり、萎れた白百合の茎が茶色く濁った水へ沈んでいた。


「これを洗浄中と呼ぶのですか?」イザークが尋ねると、案内役の職員は鍵束を握り直した。額には汗が浮かんでいたが、物置の中は外よりひんやりしていた。


「順番に作業しております。人手が足りないもので」


「台帳を見せてください」


「会計係が不在ですので、今日はちょっと……」


ミレイユは古着の山へ近づいた。ここへ来てから五十分ほど経っている。瞼が重くなり、床の石が足の裏から左右へ傾き始めた。


「ミレイユ様、時間です」ティナが腕を差し出した。ミレイユはうなずいたが、古い赤色の外套から、小さな声が聞こえた。


「売らないで」


別の寝間着からも声がした。遠くで何人もの子どもが同時に話すように、古着の山がざわめいていた。ミレイユは棚へ手をつき、崩れそうになる膝を支えた。


「寒いよ」


「お父さんの服なの」


「売らないで。返して」


声は一つではなかった。寄贈された服には、それぞれ持ち主の手の温度と、手放すときの言葉が残っている。貧しい子どもたちへ着てもらいたいと願った声が、黴の臭いの中へ押し込められていた。


「ここにある服は、子どもたちへ渡されていません」ミレイユは言葉を続けようとしたが、舌が動かなくなった。視界の端が白くなり、棚へ置いた指から力が抜けた。


「本日の調査はここまでです」イザークが職員へ告げ、ミレイユの前へ膝をついた。彼は大声で名前を呼ばず、背中と膝の下へ腕を入れた。


「触れてもよろしいですか?」


ミレイユは一度だけうなずいた。イザークは彼女を抱き上げ、ティナは鞄と帽子を持って先に廊下へ出た。案内役の職員が引き止めたが、イザークは振り返らなかった。


「台帳は明日、王立記録院へ提出してください。提出されなければ、保管品すべてを差し押さえます」


中庭へ戻る途中、先ほどの少女が階段の陰からこちらを見ていた。ミレイユの鞄から、熊の片耳が少しだけ覗いている。少女はそれを見ると目を見開き、剥がれた靴底を鳴らして近づいてきた。


「その子、どこで見つけたの」


ミレイユはイザークの腕から下ろしてもらい、壁際の長椅子へ座った。眠気で頭は下がったが、鞄だけは自分で開いた。熊を取り出すと、少女は両手を伸ばしかけ、すぐに背中へ隠した。


「あなたの熊?」


「違う」


「足の裏に『N』とあるわ。あなたの名前を教えてくれる?」


「言わない」


少女は熊を見つめながら、後ろへ一歩下がった。大人に何かを教えれば、次に何かを取り上げられると思っている顔だった。ミレイユは熊を押しつけず、自分の膝へ座らせた。


ティナが外出用の鞄から、油紙に包んだ焼き菓子を取り出した。宿の料理人が朝食の残りの生地で焼いたもので、端が少し焦げている。ミレイユは二枚のうち一枚を受け取り、少女へ差し出した。


「これは撮影用ではないわ。食べたあとで返さなくていいものよ」


少女は動かなかった。ミレイユが先に自分の菓子を一口食べると、ようやく近づいて受け取った。焼き菓子には干し葡萄が一粒だけ入っていた。


少女は半分を三口で食べた。残りも口へ運ぶかと思ったが、周囲を見回し、ワンピースの裾を持ち上げた。剥がれかけた靴の中へ焼き菓子を押し込み、足で踏まないよう爪先だけを入れ直した。


「靴へ入れたら、汚れてしまうわ」


「明日の朝に食べるの」


「明日の朝食は?」


「水の粥。焦げてないところは、小さい子の分」


少女は熊へ目を戻した。ミレイユは舞踏会で聞いた声と、目の前の少女の声が同じだと確かめた。空腹は今日だけではなく、明日の朝の分まで、この小さな体の中に居座っていた。


「私の名前はノエ」少女は誰にも聞かれないよう、口元へ手を添えた。熊の左足を指さし、袖口で鼻をこすった。


「その『N』は、お母さんが縫ったの。その子の名前じゃない。私の名前」


「お返しするわ」


「嘘」


「嘘ではない。けれど、おなかの中に何か入っているの。開けてもいいか、あなたに聞きたかった」


ノエは熊とミレイユを交互に見た。やがて近づき、熊の片耳を指先で触った。縫い直された新しい布へ気づくと、イザークの顔を見上げた。


「耳、お医者さんが治したの?」


「はい。ですが、まだ退院の許可をいただいていません」


「誰に?」


「持ち主にです」


イザークが診察券を差し出すと、ノエはそこに書かれた『好物、パン』を読んだ。初めて口元がわずかに緩み、熊の頭を自分の胸へ引き寄せた。その瞬間、建物の奥から職員がノエを呼ぶ声がした。


ノエは熊を鞄へ戻し、ミレイユの耳元へ顔を寄せた。菓子を隠した靴で立つ姿は傾いていたが、声だけははっきりしていた。


「今は連れていかないで。リゼット様に見つかったら、また売られる」


ノエは階段の陰へ走り、姿を消した。ミレイユは鞄の留め金を閉じ、その上へ両手を置いた。前庭では、撮影に使われたパンが籠ごと馬車へ積み戻されていた。


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