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妖と行冥  作者: 書恩順
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七、野登

紀梭島は海の遠くから見ると、まるで真っ白なケーキのように美しかった。時折吹き込む少量の風雪がこの島を神秘的で夢幻的に見せ、多くの商船がそばを通る際はわざわざ甲板に出て絶景を眺めた。黄昏時になると、島全体が光の反射で金黄色に染まった。しかし誰もが知っていた。あの美しい景色は無数の人の命を奪う罠だということを。美しいものにはいつも棘がある。紀梭も例外ではなかった。そこに住む天狗たちがそれを最も知っていた。だから彼らは普通の人間より苦しく生きており、その分、体もより頑強で引き締まっていた。


外部と繋がる唯一の場所は紀梭島の海港で、中州から来る商船がここで取引できた。海港は広くなく、最多で十二艘の商船しか停泊できなかった。


寒冷な紀梭は外部の資源への需要が大きかったが、取引に使えるものは少なく、手作り品と一部の希少な鉱物だけだった。天狗の手作り品は中州の装飾品とは大きく異なり、古い気息を持ち、幾世代にも渡って受け継がれてきた工芸品のようだった。そして暗紫色の結晶で作られた装飾品も人気が高かった。中州本島では見かけないものだったから。


取引に来る人間は多くなく、一週間に二、三艘の商船ほどで、ほとんどが顔見知りだった。人間は島内に立ち入ることを禁じられており、動ける範囲は海港だけだった。ここで夜を過ごすにしても船の上しかなかった。宿や休憩所は用意されていなかった。人間が長居しないようにするためだった。


取引に来る商人たちは、自分が話している相手が化人した天狗だとは知らなかった。紀梭島の人々は中州の人より大抵背が高く、肌が雪のように白く、男性は端正な顔立ちで、女性もかなり美しいとしか思っていなかった。何人かの商人は不埒な念を起こして女性天狗を娶ろうとしたが、その結末は島から追い出されることだった。


追い出された商人たちは心では不満だったが、余計なことはしなかった。紀梭が何らかの優位性を持つ場所であれば、とっくに占領されていただろう。しかし雪だらけの孤島を占領したいと思う領主はいなかった。たとえ戦争になっても、島の人間が島の中に隠れれば手の打ちようがないだろう。そのため卑劣な商人が強奪を思い浮かべても、それはただ考えるだけだった。軍隊や傭兵を紀梭に侵攻させるために時間を費やす者などいないから。


「何日目だ?」


今日は大雪の日だった。紀梭北面の山洞の中で、野登は自分の腕をこすり、寒さに体が震えていた。ひとりごとを言ったが、傍に座っていた別の女天狗がその言葉を聞いた。


「五日目よ……。」女性の姿をした彼女も選ばれた天狗の一人だった。天狗の特徴は一切なく、代わりに高い身長と一筋の深紫色の長い髪を持ち、顔はやや青白く、目尻が上がり、どこか妖艶ながら少し虚ろな目をしていた。彼女と話していると、目が遠くを見ているように感じた。


その名は華梨かりといい、野登はこの女天狗を知っていた。ある猟師の娘で、紀梭島ではほぼ全ての天狗が互いに知り合いだった。


彼らが着ているものはとても薄かった。天狗はいつもそうで、全身白か灰の素朴な服を着ていた。天狗の耐寒性は高いが、こんな大雪の日は震えるほど寒かった。


「くそ……寒くて死にそうだ。」隅で丸まっていた別の男天狗がやや不満げに毒づいた。


沢山さわやまは紀梭の山で伐木をする者の息子だった。父親は自分の息子が選ばれるとは思っていなかったため、伐木の技術をたっぷり教えていたが、沢山が選ばれた後、父は何日も木を切りに行かず、友人たちと盛大に祝った。


彼の顔色もやはり青白く、この極寒の中で短い髪に少し霜が降りていた。化人した後の彼はやや四角い顔、少し太い眉毛と銅鈴のような大きな目をしていたが、今はその目を閉じたまま開ける気にもなれなかった。家の慣れ親しんだ暖かさが懐かしかった。


さらに北は紀梭の無風地帯で、もしかすればそちらは雪が少し小さいかもしれなかったが、もう禁地の縁だった。妖異に遭遇すれば十中八九死ぬ。誰も妖異の姿を正確に描写できなかった。見た者は全員死んでいたから。


人間になってから、野登は自分が何か変わったとは感じなかった。ただ皆が自分を見る目が変わった。崇拝と羨望が少し混じっていた。母を一人紀梭に残していくことを考えると心が痛かった。母は哀しみを見せるどころか誇らしさを表していたが、野登にはわかっていた。それは母が残された時間を大切にしているということだ。数日後、野登の家の前の木の梢に、一羽のカラスが止まった。


体の大きさが異様で、ほぼタカほどの大きさだった。梢の上に止まり、枝がわずかに軋む音がした。少し幹の方へ位置をずらした。全身黒い羽毛が光沢を放ち、風の中で微かに揺れていた。何の声も出さず、ただ野登の家の玄関口をじっと見ていた。


起き出して朝食を食べようとした野登は、窓越しにすぐにこの奇妙なカラスに気づいた。眉をひそめてゆっくり近づいたが、カラスは何の動きもせず、警戒もしなかった。首を傾げてただ静かに彼を見ていた。目つきは動物のようではなく、むしろ人間の瞳孔のようだった。野登には確信が持てなかった。カラスはしばらく彼を見てから、静かに体を振った。黒い体から二枚の羽根がゆっくりと舞い落ち、雪地に触れた瞬間に黒い灰の粉末になった。その灰がいくつかの文字を描いた。「黄昏の後、聖山の後の林」。


文字が現れてしばらくすると、微風が吹いてその灰は散り、存在しなかったかのように消えた。カラスはまだ元の場所に立っていた。


「奈加……。」野登は低くつぶやいた。頭の中に見慣れた笑顔と、あの純白の翼が閃いた。胸の中の何かに引っ張られるようで、息が苦しかった。


黄昏が近づいた頃、玄関前の梢のカラスが突然一声鳴いた。出発の時間を知らせるようだった。遠くでも別のカラスが鳴いた。野登は母に一言告げてから家を出た。カラスは彼の姿を見ると、翼を広げて遠くへ飛び立った。黄昏の橙色の空にひとすじの黒い影を残した。野登はその飛んでいく姿を見た。聖山と同じ方向だった。そのままカラスを追って聖山へと向かった。


山道を辿って聖山へ近づくにつれ、空は次第に暗くなり、霧が林の間に漂い始めた。野登が振り返ると、もう村の景色は見えず、辺り一面が濃い霧だった。正確な道はわからなかった。この辺りの木は葉がほとんどなく、上に少しの積雪があった。山道全体が雪白だった。


夏でさえ山道はほとんど見えなかった。歩いていて一歩踏み外せば底が空洞かもしれず、この山林の中で死んでしまうかもしれないという恐怖があった。


「ヤー。」


「ヤー。」


カラスの声が上から聞こえた。見上げると、梢の上に一羽一羽のカラスが散在して並んでいた。乱れはなく、むしろある種の道標のようで、黒い姿は雪白の山によく映えた。一羽また一羽と、より深くの枝先へ移動した。野登にはわかった。これが道案内なのだと。


その道案内に従って深山の中へ進んだ。雪が深くなって足首まで埋まり、雪から脚を抜くのに力が要った。白い息が空中に消えた。あとどのくらい歩けばいいのかわからなかった。


さらに三十分ほど経ったころ、巨大な木が遠からぬところに現れた。野登はそれが聖山で最も古い神木の一つだと知っていた。聞いたことはあっても見たことはなかった。普通の天狗は聖山に入れないからだ。推測だったが、この木の幹は目測でも十人の天狗が手をつないでも届かないほどで、神木の一つだろうと思った。


野登はどんどん近づいた。神木のすぐそばまで来て初めて、幹に無数の太い縄が巻かれ、上に符咒がびっしりと掛かっているのに気づいた。その符咒が風に軽く揺れていたが、本来の意図は何なのかわからなかった。


野登は思わず何度もそれを見つめた。胸の中にふと不安が湧いた。その時、後方から雪を踏む足音が聞こえた。別の二人の天狗が来ていた。一男一女で、不思議なことに、野登は来る途中で彼らに会わなかった。別の山道を通ってきたのだろうか?


「沢山……華梨……?」


野登は小声でつぶやいた。この二人の天狗を知っていた。一人は山の伐木人の息子、もう一人は猟師の娘だった。三人はしばらく顔を見合わせた。空気がやや微妙だった。ここには三人しかいなかったが、最初に黒い球に選ばれたのは五人だったからだ。野登の心がずっと沈んだ。


「その一人の『寄』は……奈加だろう……。」彼はほぼ無意識に口に出した。


「私たちだけ三人?」華梨が少し不安そうに聞いた。


沢山は肩をすくめ、語調は軽く、人によっては不快に聞こえそうだった。


「そりゃそうだろ?」


「残りの二人は、ははっ、絶対に『寄』になったんだ。」


華梨も「寄」の末路を知っており、思わず息をのんだ。顔色がやや青くなった。「それって……一生出てこられないってこと?」


沢山は笑い、語調は淡々としていた。「それもいいじゃないか。」


「『寄』だって大事な役割だろう?」


それを聞いて野登は眉をひそめた。目に一瞬嫌悪が走ったが、反論する気にもなれず、怒って顔をそむけ、沈黙した。


「今年は三人か?」


声が上から降ってきた。三人は同時に頭を上げた。神木の中間部あたりの枝の上に誰かが立っていた。体格は大きく見え、静かに彼らを見下ろしていた。その姿は微動だにせず、まるで木に固定されているようだった。次の瞬間、相手は前へ一歩踏み出し、体がまっすぐ落下した。地面に触れる直前、気流が体を受け止めた。雪地に丸いくぼみができ、狂風が吹き上がった。三人は思わず数歩後ずさった。


彼は一歩一歩三人に向かって歩いてきた。雪地に足跡は残らなかった。三人はようやくはっきり見えた。相手は顔に黒い天狗の面具をつけ、全身黒衣で、一片の雪花もついていなかった。まるで体ごと飲み込まれそうなほど黒かった。


黄昏の日差しの中では影のようだった。彼はゆっくりと面具を外した。その下は冷酷でやや皺の刻まれた顔だった。鬚はまばらで白く、両目は若者のように鋭く、顔は老人のものだった。天狗の特徴は一切なく、黒衣から伸びた腕は筋肉質で目を見張るほどだった。


三人は同時にごくりと喉を鳴らした。喉が乾いた。天狗も妖であるため、危機を察知し強者に頭を垂れる本能がある。


「あなたは……神隠大人ですか?」沢山の声が微かに震えた。あの軽い口調は完全に消えていた。


「そうだ。」神隠は頷いた。語調は淡々としていた。


「今年は三人とは。」


その視線が三人それぞれの上を掃っていた。一人一人を評価しているようだった。多くを語らなかったが、錯覚かもしれないが、野登には神隠の目の中に老獪な何かが潜んでいるように感じた。目の前のこの天狗を軽々しく信じてはならないという気がした。しかし相手は神隠大人だ。そんな考えを持つこと自体、本当にあるべきことなのか?


「あなたたちは気になるだろう?」神隠が淡々と口を開いた。


「あの、あなたたちを選んだ黒い球のことを。」


沢山と華梨は同時に頷いたが、野登は頷かなかった。まだ神隠の目つきのことが頭から離れなかった。


神隠は気づかないかのように続けた。「あれは魂晶という。」


「魂晶?」三人は声を揃えた。


「死んだ妖が残した魂の結晶だ。」彼は淡々とした語調で、まるで当たり前のことを言っているようだった。それはまるで隣の店で売っているまんじゅうか、その辺で拾える石ころのような言い方だった。


しかし妖の魂と聞いて、三人の顔色は同時に変わった。胃の底から吐き気と寒気が込み上げてきた。神隠は全く気にせず、むしろ少し揶揄うようで、皺のある顔に不気味な笑みを浮かべながら三人の反応を眺めていた。


「魂晶を受け入れたあなたたちは、妖の力を持つことになる。」


「妖の力?」野登は独りごとのように言った。


「……なぜ妖の力が必要なんだ……?」


野登には昔からわからなかった。天狗はそもそも妖なのに、なぜ他の妖を吸収するのか。幼い頃からずっと奇妙な感覚があった。天狗はなぜ化人を求めるのか?なぜ紀梭を離れるのか?まるで何かが天狗の運命と思考を左右しているようだった。


人間になって数日経ったが、紀梭の環境がより不思議に感じられるようになっていた。空気の中にいつも焦げた臭いが残り、食べ物の味も少し気持ち悪く、苦くて生臭かった。化人の後遺症かもしれないと思っていたが、母や道で会う天狗たちを見ると、誰もそれを普通のことと思っているようだった。もし化人していなければ、こんなことを不思議に思わなかっただろうか?


「なぜまだ他の妖を吸収する必要があるのかだと?」神隠は野登の独りごとを聞きつけ、目を細めて野登を見た。野登は背中に冷や汗が流れた。


「あなたたちは人間の世界に行ったことはないが、多少は聞いたことがあるだろう?」神隠が続けた。三人は答えず、ただかすかに頷いた。


「人間の世界、広大な中州には、あらゆる資源がある。」


「しかし我々天狗は、この小さな島に縮こまっている。」


「雪と氷の世界、何もない島に。」


「我々の祖先も、かつては中州の一員だった。」


「しかしあの人間たちが、我々をここへ追いやった。」


「彼らは我々を妖と見なし、恐れた。」


「我々の力が彼らより大きく、子孫が彼らより優れているから、我々はより強大な存在だからだ。」


「より多くの力があってこそ、我々のものを取り戻せる。」


「すでに多くの天狗が化人の後、人間の世界に溶け込んでいる。」


「機が熟せば、我々が中州の主宰者となる!」


神隠は少し興奮し、拳を握りしめた。全ての人間を滅ぼさんとするかのようで、野登は神隠の目の中に無限の怒りと憎しみを感じた。


「だから……私たちも……?」華梨が慎重に聞いた。


「そうだ、妖の力に習熟したら、人間の世界へ向かってもらう。」


「妖の力か……。」沢山は首を傾げた。化人してから味覚が変わったこと、身長が変わったことはわかったが、妖というものは全く感じていなかった。


「妖の能力はおおよそ三種に分かれる。」


神隠は落ち着いた語調で、まるでとっくに決まったルールを説明しているようだった。毎年繰り返さなければならないせいで、もう感覚が麻痺しているのかもしれない。


「妖形、妖念、妖域。」


「妖形は妖の形体であり、妖の擬態だ。」


「妖念は妖の精神であり、相手の意識に影響を与えられる。」


「そして妖域は妖の領域であり、特定の範囲内で、ある種の能力を使える。」


「では自分がどれに当てはまるかは、どうすればわかりますか?」神隠が続きを言う前に、沢山は反射的に手を挙げて質問した。顔には興奮して試してみたいという期待が滲んでいた。


神隠はしばらく沈黙し、質問した天狗を見た。その目つきで沢山は冷や汗が出た。彼らには神隠大人の心が読めず、尊敬なのか恐怖なのか自分でもわからなかった。


「簡単だ、あなたたちはここからさらに北へ進め。」


わずかに横を向き、神隠は淡々と、後方の神木のさらに奥を指した。そちらも一面雪白と少しの木で、道は全く見えず、果てしない雪と霧があるだけだった。野登にはよくわからなかった。


「前へ進め、ただし無風帯には近づくな。さもなくば、あなたたちは結末を知っているだろう。」


言い終えると、両手を胸の前で組んだ。これ以上話す気はないようだった。三人は顔を見合わせ、互いの不安を読み取った。


ほんの数秒考えただけで、沢山は足を上げて指した方向へ走り出した。華梨もゆっくりとついた。野登は二人が行くのを見てやむなく後ろに続いた。足取りが少し躊躇っていた。振り返って神隠を見ると、彼は元の場所に立っており、その目は相変わらず何かを計算しているようだった。野登は落ち着かなかった。自分の錯覚なのかもしれないが、神隠大人を信じてはいけないという声がいつも心の中でしていた。


「待って、沢山。」华梨が足の速い沢山を呼び止めた。小さくない木の下で枝を拾い集め、長い三本を選んだ。


沢山は立ち止まったが、振り返るだけで動かなかった。野登はもう華梨の傍に来ており、相手が一本の枝を渡してくれた。


「これは?」野登は見た。ごく普通の枝だった。


「この先は全部雪地だから、雪の下の空洞に気をつけないと。」


「うっかりすれば、私たちみんな落ちて死ぬ。」华梨が説明した。


野登は合点がいって頷いた。二人は沢山の方向へ歩いた。三人はそれほど離れず、進むにつれて荒涼さが増していった。神木の後ろはまだ十数里ほど木があり、その先は山の斜面になっていた。何日か雪が降っていなかったせいで、暗い色の石がいくつか雪の外に露出していた。


野登は時々振り返ると、神木がもうかなり小さくなっていた。どこへ行けばいいのかわからなかったが、三度目に振り返った時、野登は異常に気づいた。


「おい、ちょっと待て。」野登は前の二人を呼んだ。


華梨は足を止めた。胸の呼吸が激しく、冷たい空気を吸い込んで全身が不快だった。沢山も半ば雪地に腰を下ろして両手で体を支えていた。


「いったいどこへ行くんだ?神隠大人は何をもったいぶっているんだ。」沢山が少し不満そうに言った。


「見てくれ。」野登は後方を指した。


「何?何を?」华梨がやや息を切らして聞いた。


「俺たちの足跡だ。」


「足跡?」沢山は野登の方向へ少し這って移動し、来た方向に伸びる一列の足跡を見た。


「どうした?足跡が?」彼は聞いた。


「今は雪が降っていない。」


「でも俺たちの足跡は、半分しかない。」野登は眉をひそめて言った。


指摘されて华梨と沢山は目を見開いた。来た時の足跡はまだそこにあったが、ほんの少しだけで、約十メートルより先は足跡が跡形もなく消えていた。今は雪が降っていないのに、あんなに早く消えるはずがなかった。


「まさか迷ったのか?」沢山が聞いた。


「それに、木々も見えなくなった。」华梨は一面の濃霧を見つめ、心に少し不安が湧いたが、神隠大人の指示なのだから、騙すはずはないと思った。


「神隠大人は俺たちに何を見つけさせようとしているんだ?」沢山は疲れて地面に座り込んだ。底の冷たさが臀部から脊椎まで伝わったが、立ち上がる気にもなれなかった。足が少し痛かった。


「どこかへ行くのか?それとも何かを探せということか?」野登は考え込んだ。遠くを見ると、凍った山壁と断崖があった。そちらが無風帯で、風雪が少ないため凍った岩石が露出しており、禁地だと示していた。


「続けて歩く?」华梨がやや心配そうに聞いた。


三人はしばし沈黙した。みんな引き返したかったかもしれない。しかし化人してからは第二の運命だった。化人した天狗なら、手に入れた機会を絶対に諦めない。野登には他の二人の考えはわからなかったが、自分は確かに戻りたい衝動があった。聖山の洞穴に潜り込んで奈加を探したい気持ちもあった。


「神隠大人がそう言ったんだから、続けて進もう。」沢山は立ち上がり、体の雪を払った。軽い口調だったが、表情がやや真剣になった。


沢山の父親はいい父親ではなかった。選ばれたと知った後、何日も先に祝い、化人した天狗は地位が高く、物資の配分でも優先権があるため、酒飲み仲間たちが次々と祝いに来た。沢山は父親が好きではなかった。ただ早く正体不明の「能力」を得て、紀梭を離れ、二度と戻りたくなかった。父親は自分の名前でしばらく嘘をつき続けられるだろうし、何年も後に自分が戻らなければ、皆が父親の嘘に気づくだろう。


沢山の父親にとって、沢山はただの財産だった。母が亡くなってからはさらにひどくなった。十代の頃からすでに薪割りなど様々な労働を手伝わなければならなかった。父親は帰ると友人と酒を飲みに出かけ、夜明け近くにようやく帰ってきた。


华梨は少し考えてからついていくことにした。野登も少し迷ってから二人とともに北へ向かった。目的地はわからず、神隠大人も現れなかったが、北へ進むことが唯一の手がかりだった。


数日歩いたが、まるで同じ場所を回っているような感覚があった。いくつかの山の景色に見覚えがある気がした。三日目に引き返そうとしたが、この雪原からは出られなかった。足跡もなく、自分がどこにいるか分からなかった。ただ一つ確かなのは、凍った岩塊までまだ距離があり、無風帯はまだ遠いということだった。


妖の天狗は何日も食べなくていられるが、三人ともやや空腹を感じ始めていた。さらに悪いことに、三人が盲目的に道を探していた時、空から大吹雪が降り出した。山の上で死ぬかと思ったが、この洞穴を見つけてどうにか助かった。


ここに隠れてもう二日経ったが、風雪は少しも収まる気配がなかった。このままでは本当に死ぬかもしれなかった。


しばらく考えてから、野登は立ち上がり、外の吹雪に耳をすませた。ため息をついて洞穴の奥へと歩いていった。隠れた初日に、この洞穴の奥に道があることに気づいていたが、岐路が非常に多く、迷子にならないよう洞口付近に戻っていた。


「野登、どこ行くの?」华梨は体を丸めながら聞いた。沢山も片目をどうにか開けて彼の方向を見た。奥は漆黒の洞穴だった。


「このままでは仕方ない。奥に別の道があるか見てくる。」野登は言いながら、漆黒の小さな木の桶を取り出した。開けると少しの火花が出た。かろうじて照らせる程度で、大海の中の蛍の光のようだったが、弱くても使えた。


「……。」


「私も行く。」华梨は少し考えてからついてきた。二人は次第に暗闇の中へと消えていった。


沢山は憂鬱そうに何度かうめいた。頭を両膝の間に埋めて少しでも暖まろうとした。洞穴の中に二人の歩く音が伝わってきた。希望がだんだん遠ざかるようだった。原地に留まれば孤独だけが残る。


「くそ……おい、待ってくれ!」沢山は不本意そうに立ち上がり、慌てて後を追った。全身が湿ってぬるぬるする感覚が極度に不快だった。


三人はゆっくりと洞穴の奥へ入っていった。通路は二人分ほどの幅だったが壁が非常に湿っていたため、一列で進んだ。二十分もしないうちに最初の岐路に出た。野登は少し考えて左へ向かった。


「どちらへ行くか分かる?」华梨が聞いた。


野登は首を振った。「分からない。」


「でも何もせずに原地で死を待つよりはいい。」


「それも……そうね……。」


三人はどのくらい歩いたかわからなかった。途中でさらに二回岐路があり、野登は適当に方向を選んだ。前の道がだんだん広くなり、四方の岩壁の圧迫感が薄れた。沢山が後ろで何度か咳をし、その声が山壁に響いた。


「どうやらかなり広い場所に来たようね。」华梨が言った。手を伸ばしても左右の壁に届かなかった。足を踏み出すのも怖かった。すぐそばが断崖かもしれないから。


「なぜわかる?」野登が聞いた。


「父が言ってたの。紀梭の地下には水脈がたくさんあって、その水が流れることで地底の洞穴が形成されるって。」


「聞いて、かすかな流水の音がするでしょ。」


それを聞いて野登と沢山も耳をそばだてた。確かに非常に細かな水の流れる音があった。どこから聞こえるかはわからず、ただ遠く感じた。


「よく知っているんだね。」野登が言った。


「全部父が教えてくれたの。」


华梨の両親は彼女をかわいがっていた。华梨が選ばれるかどうか強い期待はなく、落選してもやはり自分の娘だった。


父は猟師だったため、华梨もよく父について狩りに行った。父は娘を自分のような猟師にしたくはなかったが、华梨は刀や弓のような武器に興味を持ち、そのためいつも男の子のような服装をしていた。


普通の女天狗は素朴な長いスカートを着るが、男天狗はほとんどが長ズボンを着る。しかし华梨はズボンを好んだ。化人した後、身長と体型が明らかに変わり、長ズボンと男性的な装いのため、体の曲線が際立っていた。


华梨が選ばれてから、両親はとても喜んだが、その気持ちは半日しか続かなかった。自分たちと違う娘を見ていると、やがて不安になってきた。これからは長い間娘に会えなくなるのだ。华梨も両親の思いをわかっており、後で神隠大人に聞いてみようと思っていた。中州へ行かず、紀梭の海港に留まれないかと。


「賭けが当たったみたいだね。」野登が言った。


「ただ、ここに来て何をするんだろう?」沢山がやや不満そうにつぶやいた。


「何らかの試練かもしれない。」野登が推測した。


「それなら神隠大人はなぜ直接言わないんだ?」沢山がまた聞いた。


「言ったら試練じゃなくなるだろう?」野登が言った。


「もし終わったら、あなたたちは紀梭を出るの?」华梨が聞いた。実は心の中で、自分と同じように残ることを選ぶ人がいてほしいと思っていた。


「俺はこんなところには残らない。」沢山は鼻で笑った。今すぐ紀梭を離れたいと思っているようで、一分たりとも長く居たくないようだった。


「君は?野登。」华梨がまた聞いた。


「……。」


「わからない……。」


「天狗は……なぜ……人間にならなければならないんだろう?」


「なぜ人間の世界へ行くんだろう?」野登は答えているようでひとりごとのようでもあった。


沢山と华梨は二人とも黙り込み、同時に考えた。神隠大人の言葉はもっともらしかったが、心の中には自分なりの思いもあった。


「もしかしたら……天狗の生存のため?」华梨はしばらく沈黙してからゆっくり口を開いた。


「天狗の生存?」


「私たち天狗は出生率がとても低くて……女性の難産率が非常に高い。」


「それに加えて紀梭のような過酷な環境……。」华梨は両親がひそかに話していた似たような話題を聞いたことがあった。天狗がこのままでは、最終的に紀梭島で絶滅するかもしれなかった。


「確かにそうだな。俺の母は俺が小さい頃に亡くなった。出産の後遺症だったと聞いた。」沢山は顎をかきながら言った。もう母の顔はほとんど覚えていなかったが、抱かれていた感覚だけがかすかに残っていた。


「……生存か……。」野登は否定しなかった。紀梭の環境は確かに劣悪で、天狗は双子が生まれることはなく、双子の場合は片方がほぼ死産になった。理由は不明だった。


「シーッ!」华梨が突然足を止めた。二人は不思議に思いながらも即座に立ち止まり、息を止めた。


「聞いて!」彼女は声を低め、耳を澄まして聞こうとした。


「ゴボゴボゴボ、ゴボゴボゴボ。」


何かの生き物が息をしているか水を飲んでいるような音が、非常に微かだったが华梨の耳には届いた。


「……何だ?」沢山も聞こえたが、こんな音は聞いたことがなかった。


「何かの野獣……かもしれない。」华梨が言った。


「シーッ!」今度は野登が声を出した。二人は疑いながら前を見たが、そちらは真っ暗で何も見えなかった。


その奇妙な音はまだ続いていたが、違うのは音が動いているようで、だんだん近づいてくる感じがした。そして「パタパタ」という足音のようなものも伴っていた。


「後……後ろへ……。」なぜかはわからないが、野登は産毛が逆立ち、無意識に数歩後ろへ下がった。後ろの二人も同じだった。


「カカカ……カカカ……。」どこからか石が落ちたが、洞穴の中でその音は格別に鮮明だった。


三人は相手が移動して蹴落としたのかと思ったが、洞の天井からも音が始まった。最初はいくつかの微かな音で、まるで細かい何かが氷壁の内部で動いているような音だった。続いて石と雪が互いに研磨する音、低く、持続的で、ますます大きく、ますます近く、まるで山全体がゆっくりと目覚めるようだった。


「山崩れ――伏せろ!」


华梨は誰かの反応も待たず、言葉が終わる前に膝が湿った泥地に叩きつけられ、顔はほぼ地面についていた。服に何がついても全く気にしなかった。


他の二人も続けて倒れ込んだ。ほぼ本能だった。轟音はもはや音ではなく、ある種の重さで、耳膜に、胸腔に押し込まれた。石と雪の塊が三人の周りに絶え間なく落ちてきた。落ちるたびに運命の告知のようだった。三人は体をできるだけ小さく縮め、待ち、祈り、他に何もできなかった。


どのくらい経ったかわからないが、ようやく揺れが静まり始めた。轟音は潮が引くように、一波一波遠ざかった。野登はそっと目を開けた。一筋の光が上から差し込んでいた。細く安定していて、亀裂というより意図して作られた隙間のようだった。


洞の天井には欠けた箇所はなかった。その光は氷壁から透き通って出てきていた。彼らのまさに頭上は一面の半透明な氷壁で、洞口から最深部まで延びていた。氷壁内部の無数の切断面が光を何万もの細い線に屈折させ、最終的に洞穴の中に注ぎ込んでいた。まるで神殿の全ての蝋燭に火が灯されたようだった。野登はしばし見惚れた。後方の华梨も同じだった。膝がまだ血を滲ませているのに。


「野……野登……。」沢山の声がおかしかった。


野登が見る前に、沢山の表情からもう読み取れた。痛みでも衝撃でもなく、あの最も深層にある、声を出すことさえ力が要るほどの恐怖だった。


六つの紫色の光点が濃い煙の奥に浮かんでいた。明滅し、何かの生き物が考えているようでもあり、目の前の三つの小さな存在を品評しているようでもあった。


野登が振り向くと、煙塵が散りつつあり、屈折した光がまるで意図的にそれの道を開けているようだった。あの黒いものがゆっくりと輪郭を現した。体型は犬のようでもあり狼のようでもあったが、どんな狼よりも一階分高かった。六本の脚がその巨大な体を支え、体には黒い触鬚がゆっくりと蠕動し、生きた影のようだった。煙塵はそれに近づけず、周囲に肉眼で見える障壁を形成していた。まるでこの世界が本能的にそれを避けようとしているかのようだった。


六つの目が、まっすぐに三人を見ていた。


「これは……妖?」沢山が言った。声はかすれ、喉に砂が詰まったようだったが、誰も答えなかった。


続いて、その六つの目の下の黒い胴体が、前端から腹部にかけて一本の裂け目を開いた。笑っているような口のようで、それから音を発した。


それは吠え声でも唸り声でもなく、もっと原始的なもので、鋭い何かで耳膜の内側を直接引っ掻くようだった。三人は同時に痛みを叫びながら耳を塞いだ。その音が石壁に当たって跳ね返り、洞穴全体がその音の中でかすかに震えた。


六つの目が動き始めた。二つで一対となり、両側に分かれて上へ伸びた。三つの顔のようにも、三つの頭蓋骨のようにも見えた。


「これ……もしかして……妖異か?」沢山の歯が震えた。他の二人が言えなかったことを口に出した。口に出さなければ認めたことにならず、恐怖も少し減らせる。しかしそれは嘘で、この洞穴の中では嘘は三秒も持たなかった。


「走れ!!」野登は言い終わる前にもう走っていた。


それはまたあの音を出した。怒っているようでもあり、面白がっているようでもあり、どちらの方がより恐ろしいかわからなかった。


三人は耳を塞いで振り返れなかったが、逃げる音が全ての問いに答えていた。後方のパタパタという音は一つではなく、左右に散って洞壁に規則的に反響した。脈拍のようで、足音とは違った。野登の目の端に左の壁が見えた。さらに小さい何かが石壁の上を疾走し、四肢は完全に水平で、風に吹かれた黒い布のようだった。一つの紫色の光点だけが目で、闇の中に一本の弧を描いた。


「ゴボ。」


その弧が突然右へ逸れ、何か物理法則に反した速度で壁から弾き飛んだ。その紫色の目が同じ瞬間に体を離れ、まるで銃弾のように正確に华梨の右肩を貫いた。


彼女の出した声は人の声ではなかった。怪我をした人間の声ではなく、何かを奪われた人間の声だった。あの突然の、信じられないという叫びで、白い袖が一秒のうちに染まった。野登の手が彼女を支え、倒れさせなかった。それでも止まらなかった。止まることは死を意味した。その道理がこの瞬間、かつてなく明確だった。


「ゴボゴボ、パチャパチャ。」


その肉を噛みちぎった小さなものが洞壁に止まり、黒い体がゆっくりと膨らんでいった。収穫を味わっているようだった。後方の大きなものがそれを一踏みにした。二つの黒いものが融合し、二つのゼリーが押し合わさるようだった。単体になった紫色の目がゆっくり上へ浮かび、仲間を見つけて一対になり、新たに開いた。三人が逃げ続けるのを見送り、全く急いでいないようだった。料理が運ばれてくるのを待っているだけのように。


岐路に着いて、野登は自分に考える時間を与えなかった。华梨の体を支える手を前へ押して「別々に走れ!」と言い、自分は左の通路に向かった。あれが分裂して追ってくるとわかっていた。他に方法はなかった。選ばせるしかなかった。


岐路のあの黒い体は一秒も待たず、二つに分かれた。まるで布を引き裂くように。二つの目の方が曲がって野登を追い、四つの目の方が他の二人を追い続けた。


野登は曲がった瞬間に振り返り、ちょうどその光景を見た。心がずっと沈んだが、足はさらに速くなった。今残された唯一の選択肢が速さだとわかっていたから。


しかし速さでは全く足りなかった。パタパタという音が真後ろから左右両側に変わった。野登はそれが何を意味するかはわかったが、計算する時間も、恐れる時間もなく、ただ一本の狭い通路と二本の足だけがあった。


その時、脛に灼けるような感覚が走った。まるで縄が火花で焼き切れるような感覚で、体はその脚を失う前に倒れていた。全身が前へ投げ出され、泥地と砕けた石の上を数回転がり、額が石壁に当たった。血が流れて目に入り込み、世界が暗紅色に変わった。地面に伏せて、自分が捨てられたものになったようだった。ふくらはぎが貫通されていた。


「パタ。」


「パタ、パタ。」


足音が両側からゆっくり近づいた。急ぎはなかった。もう急ぐ必要がないから。二つの紫色の光点が近づいてきて、一対の目に融合した。そのものはまっすぐ立ち、手はなく、二本の脚とその目だけで、全てを抉り取られ核心部分だけを残した命のようだった。首を伸ばして頭を下げ、その目で野登を観察した。虫が転倒するのを観察する子供のように。


続いて体のどこかが蠕動し始めた。野登は痛みを感じず、ただ下を見ると左手がなくなっていた。血が流れているわけでも傷があるわけでもなく、ただなくなっていた。泥と血液がその場所を占めるだけで、まるでその手が最初から存在しなかったかのように。


彼は声を上げた。全身最後の力を振り絞って。そのものは咀嚼し続け、無関心で、まるでその叫び声が食べ物が出す普通の音の一つであるかのようだった。


「母上……奈加……。」


その思いは言葉にならず、ただ一枚一枚の顔だけが、あの暗紅色の中を漂った。そして、全てが静まった。


単純な静けさではなく、何かが音も色も、当たり前にあると思っていた全ての知覚を奪い去ったようだった。野登はかろうじて目を開けた。咀嚼音が消えた。そのものは静かに原地に立ち、忘れ去られた柱のようだった。見えている世界は灰と白と黒だけで、他の色はなかった。


「?どう……したんだ?」


野登はこの機に体を起こそうとした。妖異の蠕動する体も原地で止まったようで、まるで誰かが一時停止ボタンを押したかのように。目はまだ野登が転倒した場所を見つめ、獲物がいつでも逃げないかと警戒しているようだったが、今はその獲物が動いても反応しなかった。


「動かなくなった……。」


壁に寄りかかり、彼はこのモンスターをよく観察した。固定した形はなく、ただ一塊の黒で、光さえも通さなかった。野登の腕は血を滴らせ、痛みでほとんど考えられなかったが、今は意識を保たなければならないとわかっていた。さもなくば死だった。勇気を出して少し近づいた。相手はやはり反応しなかった。好奇心に駆られて、そっと指を伸ばし、妖異の体を軽く触れた。感触は奇妙で、柔らかく弾力があり、もう少し力を入れれば黒い体に軽く入り込めそうだった。


「俺の手……取り戻せるか?」


「取り戻せても繋ぎ直せないけど。」


野登は苦笑いを浮かべたが、やはり自分の手だった。取り戻そうと思い、血だらけの右手を伸ばして、妖異の腹のような場所にゆっくりと差し込んだ。半指ほど入ったところで、少し硬いものに触れた。妖異の体とは全く違う感触だった。手のひらを開いて握り、外へ引いた。物体が妖異の体の外に半分出た。思わず手を離した。それは確かに自分の手だったが、わずかな肉しかなく、後は全部骨だった。カラスに食い尽くされた残り物のようで、思わず胃が上がってきて地面に胃酸を吐いた。


「どう……しよう?俺の手……。」野登は口を拭い、無念そうに骨だけになった自分の腕を見た。


ぼんやりと逃げるべきか手を引き出してから逃げるべきか考えていた時、頭の中に断続的な声が伝わってきた。「孤独な……行者よ。」


「誰だ?誰が話している?」野登は左右を見たが、他の人は見えなかった。幻聴かと疑った。


「十……秒……。」


「時……間……。」


「本当に誰かが話している?」彼は頭を押さえた。この声が自分の頭の中から発しているとわかったからだ。誰かが頭の中を直接叩くようで、微かな耳鳴りが幻覚ではないことを告げた。


「十秒?」


まだ状況を飲み込めていない時に、突然目の前の全てが動き始めた。野登は心の底から驚いて思わず二歩後退したが、その動きは非常に奇妙だった。妖異は後ろ向きに歩いており、あの骸骨の腕は春の草地のように肉がゆっくり生え始め、弧を描いて精確に左肩に繋ぎ戻った。


動きは続いた。血液が傷口に逆流し、妖異が放った目、脚の傷が癒えていった。野登は唖然としてこの全てを見つめた。洞穴の奥へ後ろ向きに這い戻る妖異は次第に姿を消した。十秒ほどで、目の前の世界が突然また色づいた。


わけがわからないまま野登はまだ原地に立って左右を見た。自分の左手を見ると、完璧に元通りだった。拳を握ると思わず歓声を上げた。しかし、パタパタという音が急速に遠くから伝わってきた。奥から透けてきた光線が明滅し始め、一つずつ消えて点くようで、彼の方向へ向かっていた。氷壁の上を這う妖異だった。


「くそ!」


野登は振り向いて走り出した。脚の傷がなくなって速度は速くなったが、妖異の方がさらに速く、まもなくパタパタという音が遠くから近くなった。また左右両側になった。後ろの化け物がまた攻撃しようとしているとわかったが、どうにもならなかった。


「くそ、さっきいったい……。」


考える前に、前方の路面が突然崩落した。野登は全く反応できず、体がそのまま落下した。後方のパタパタという音が止まった。妖異の四本の触角が壁に張り付いて体を固定した。二つの紫色の目がそのまま獲物が落下するのを見た。考えているようで、二秒も経たないうちに向きを変えて元の洞穴へと戻っていった。

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