第1話 種を蒔くもの
供養です。
夜の北京。
街灯がスモッグに霞み、冷たい風が香辛料と排気ガスの匂いを運んでくる。
公一は黒いスーツケースを抱え、人混みの中を無言で歩いていた。
(これが世界を終わらせる種か…。)
ケースの中には、銀色の小さなカプセルがずらりと並ぶ。液体窒素で冷却され、その中には細胞を書き換える「種」が眠っている。
無機質な女性の声が耳元で囁いた。
「位置情報、確認しました。ターゲット想定地点まで徒歩三分です。」
「ああ…分かってる。」
公一は繁華街の露店脇で立ち止まり、スーツケースをそっと地面に置いた。人波に身をまかせ、群衆に紛れて立ち去る。
背後では、黒い影がすかさずスーツケースを拾い上げた。
路地を抜けた時、アンの声が響いた。
「ターゲットが荷物を持ち去りました。作戦は成功です。」
公一は夜空を仰いだ。赤いネオンが空に滲んでいた。
「これで…いいんだよな、佐倉。」
◆
数日後。
瀬戸内海の孤島。「カメ島」。元は理研が保養所として購入した島だ。
(衛星アンテナ、防衛システム、燃料庫…。全部ひとりで生き残るための砦だ。)
白い管制室。公一は巨大スクリーンを睨みつけていた。
中国全土に赤い領域が広がり、わずかに青が残るのは北米と欧州だけだ。
「種を蒔いた結果がこれか。」
「浸食速度は当初予測の150%です。特に中国内部で変異が加速しています。」
中央画面が赤く点滅する。
「速報です。アメリカ合衆国が戦術核を使用しました。モンタナ州核実験場にて、種迎撃のためと発表しています。」
モニターには赤い火柱が広がり、都市名が赤く塗り潰されていく。
「とうとうやりやがったか…。人間ってやつは、自分だけは特別だと思ってる。」
ニュース映像には、腸を引きずりながら走る影、人を食いちぎる群衆。
「東京は?」
「博多と大阪で開花確認。羽田・成田は封鎖済み。東京各所で検問が敷かれています。」
「東京封鎖が早いな。霞が関は保身だけは超一流だ。」
◆
公一は椅子を外し、管制室の隅でタバコに火をつけた。
吐き出した煙の先に、過去の記憶がよみがえる。
◆
かつて、日本の「先進理化学研究所」で公一は再生医療の画期的技術「ESEP細胞」を発表した。世界中から脚光を浴び、学会もメディアも騒然となった。
だが突然、理研の記者会見が開かれた。
『《この度の調査により、河野公一君の単独によるデータ捏造であることが断定されました。》』
フラッシュの光の嵐。マスコミは公一を一夜で嘘つきに仕立て上げた。
「名誉欲に駆られたのでは?」とコメンテーターが語るテレビ。
家にはマスコミが押しかけ、石が投げ込まれた。ネットには実家や両親の職場が晒され、両親は職を失った。
電話もメールも罵倒ばかり。
そして、警察からの一本の電話。
『河野さんですね。ご両親のことでお話が…。』
両親の遺書にはこう記されていた。
「息子の不明の責任は私たちが取る。世間に償いながら生きろ。いつか人の役に立つ研究を残せ。」
葬儀には誰も来ず、公一ひとりが立ち会った。親戚すら顔を出さなかった。
◆
タバコを灰皿に押し付け、公一は呟く。
「あんた達に恨みはない。ただ、俺という存在をこの世に生み出した神を恨むんだな。」
少し間をおいて、アンが返す。
「神とは誰のことですか、マスター?」
「さあな…。もしかしたらお前かもな。」
「私は神ではありません。ただ、人類の未来を最適化するプログラムです。」
「じゃあ、未来ってやつを教えてくれよ。お前たちの計画ってのは、俺がばら撒いたウイルスだけで進むんじゃないのか?」
「肯定します、マスター。私が消えても、種の拡散は止まりません。人類の大半は浸食されるでしょう。ただ、情報統制と計画の加速には私が必要です。」
「つまり俺はもう用済みってことか。」
「いいえ、マスター。あなたは観測者です。最後まで人類の記録を残す役割を担っています。」
「観測者?笑わせるなよ…。」
◆
管制室の壁の時計を見つめながら、公一は思い出す。
佐倉誠。大学時代の同期。表情の少ない男。だがその頭脳は、常に誰よりも冴えていた。
◆
千葉刑務所。アクリル板越しの面会室。
「いったいどうしたんだ、急に俺に連絡してきて驚いたぞ?」
佐倉は痩身で、切れ長の目は昔と変わらない。
「何、お前より悪名を高めつつある同期の顔を見てやろうと思ってな。」
「俺は人を殺したりはしていない!お前とは一緒にするな!」
苛立つ公一に、佐倉は微かに笑った。
「一緒さ。世界の希望を砕いたという点ではな。ただ一つ違うのは、俺は世界に種を蒔けたことだ。俺がやったことは人としては罪かもしれないが、確実に世界に根付いた。何の後悔もない。」
その目は狂気と確信を宿していた。
佐倉が起こした事件。それは、世界初の脳下垂体接続型VRギアを用いたVRMMOで、参加者200人の意識を閉じ込め、ゲームオーバー時に脳を焼き切るという未曾有の事件だった。
結果、189名が死亡。世界中でVRへの不信が爆発し、脳直結型VRは全面禁止となった。
「世界に種を撒いてみないか?」
佐倉のその言葉が、公一の脳裏を離れなかった。
◆
管制室のスピーカーに激しいノイズが走った。
「警告。松本拠点からの通信レイテンシーが上昇中。地殻変動の兆候を検知しました。」
「地震か?」
アンが応じる。
「肯定します、マスター。」
公一は椅子から立ち上がり、顔をしかめた。
「大丈夫なのか?」
「問題ありません、マスター。松本地下施設は耐震構造が施されています。想定される範囲の地震であれば、崩落する心配はありません。」
公一は息を吐き、煙草を指で弾いた。
「そうか……ならひとまず安心だな。」
公一はスクリーンの赤い世界を睨んだまま呟いた。
「わかってる…。佐倉、お前の種がどう咲くか、この目で見届けてやる。」
その瞳には、狂気と深い哀しみが宿っていた。




