第57話 潮、返る時 ――壇ノ浦、開戦
(寿永三年〈西暦1185年〉三月下旬・長門国壇ノ浦)
春の光は柔らかい。
だが壇ノ浦の海は、優しさとは無縁だった。
寿永三年――いや、改元して元暦二年(1185年)三月下旬。
長門国壇ノ浦。
朝の海は静かに見える。
しかしその下では、巨大な流れがうねっている。
この海は、生きている。
源氏の船団は、夜明けとともに動き出していた。
熊野水軍を中心に、軽船が整然と並ぶ。
その中央に、源義経の船。
兵たちは、静かに持ち場につく。
声は少ない。
だが、張り詰めた空気が、すべてを語っていた。
義経の周囲には、いつもの面々が揃っている。
弁慶、佐藤継信、忠信、海尊、ピリカ、駿河次郎。
だがこの朝は、誰も軽口を叩かなかった。
継信が、海峡を見ながら言った。
「潮、まだこちらに有利です」
忠信が目を細める。
「流れが前へ押している」
弁慶が頷く。
「今のうちに詰めるべきですな」
海尊が静かに言う。
「ですが、長くは続きません」
ピリカが短く言った。
「昼、変わる」
義経は、その言葉に頷いた。
「朝で決める」
その一言に、全員の背筋が伸びる。
やがて、平家の船団が視界に広がった。
無数の船。
整った陣形。
中央に、御座船。
その周囲を守るように、重厚な船が並ぶ。
忠信が小さく息を吐く。
「……多いな」
継信が冷静に言う。
「だが、固い」
弁慶が続ける。
「中央は手を出すな」
義経は短く命じた。
「左右に分かれろ」
源氏の船団が、二手に割れる。
潮に乗り、滑るように広がる。
平家の正面を避け、側面へ。
平家も動く。
「来るぞ!」
「弓を構えよ!」
怒号が海に響く。
最初の矢が飛んだ。
空を裂く音。
続いて無数の矢。
源氏の船に矢が突き刺さる。
兵が倒れる。
だが、止まらない。
弁慶が前へ出る。
「押せ!」
その声に、兵が応じる。
矢を放つ。
盾で防ぐ。
船を寄せる。
忠信は笑みを浮かべながら矢を放つ。
「来いよ!」
継信がすぐに制する。
「前を見ろ!」
海尊は静かに敵を見据える。
接近戦。
一瞬の判断。
船が触れ合う。
彼は迷わず踏み込み、敵の腕を斬り落とした。
「退くな」
低い声が、兵を支える。
ピリカは高所に立ち、戦場を見ていた。
風。
潮。
船の動き。
そして、短く言う。
「左、崩れる」
義経はすぐに反応する。
「継信、左へ」
「承知」
継信の隊が、潮に乗って一気に流れ込む。
平家の側面。
そこは中央ほど強固ではない。
平家の船が揺れる。
隊列がわずかに乱れる。
そこへ――
源氏が突き刺さる。
弁慶が敵船へ飛び込む。
薙刀が唸る。
兵が倒れる。
そのまま押し込む。
忠信の船も、右から回り込む。
「挟んだぞ!」
その声に、源氏の士気が上がる。
だが――
その時だった。
海が変わった。
潮が、止まる。
そして――逆流する。
ピリカが、瞬時に言った。
「来た」
源氏の船が、わずかに押し戻される。
平家の船が、逆に前へ出る。
継信が叫ぶ。
「潮が返った!」
忠信が舌打ちする。
「早いな!」
平家の船団が、一斉に押し返してくる。
「今だ!」
「押し返せ!」
形勢が変わる。
ほんのわずかな時間で。
弁慶が踏みとどまる。
「下がるな!」
だが、流れは強い。
船が引かれる。
海尊が歯を食いしばる。
「押し負ける……!」
義経は、すべてを見ていた。
潮。
船。
敵の動き。
そして――
一瞬で決断する。
「退くな」
その声は、静かだった。
だが、強い。
義経は続ける。
「流れに乗れ」
継信がすぐに理解する。
「逆らうな……!」
忠信が笑う。
「そう来たか!」
船の動きが変わる。
押し返されるのではない。
流されるのでもない。
流れに合わせて、動く。
平家の船が前に出る。
だが、その勢いのまま、隊列が伸びる。
ピリカが言う。
「中央、離れた」
義経の目が鋭くなる。
「そこだ」
源氏の船が、一斉に中央へ向きを変える。
流れに乗り、滑り込む。
平家の中央と側面の間に、わずかな隙。
そこへ――
突き刺さる。
弁慶が吠える。
「押し込め!」
源氏の兵がなだれ込む。
平家の陣が揺れる。
駿河次郎が、その光景を見ていた。
そして、静かに言った。
「……崩れる」
壇ノ浦の海は、荒れ始めていた。
潮は逆巻き、船はぶつかり、叫びが響く。
だが、その中で――
義経の軍は、まだ崩れていない。
戦は、まだ決していない。
だが、確実に――
終わりへ向かっていた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
元暦二年(西暦1185年)三月下旬、壇ノ浦にて開戦。
朝の潮は我らに利あり、主は側面を突く策を取られた。
初戦にて平家を揺るがすも、潮返りにて形勢逆転。
されど主は動じず、流れに乗る策を取り、中央を裂かんとする。
戦は激しく、勝敗はいまだ定まらず。
されど、この一戦にてすべてが決するは間違いなし。




