第56話 西へ沈むもの ――平家の夜、源氏の覚悟
(寿永三年〈西暦1184年〉六月初旬・長門国壇ノ浦前夜)
六月の海は、静かに見えて深い。
寿永三年(1184年)六月初旬。
瀬戸内の西端――長門国、壇ノ浦。
流れの速い海峡は、昼でも油断ならない。
だが夜はさらに恐ろしい。
潮が逆巻き、船を押し流す。
流れを読めぬ者は、それだけで敗れる。
その海を前に、二つの軍が対峙しようとしていた。
源氏と平家。
長く続いた戦は、ついにこの場所へ辿り着いた。
源氏の船団は、やや沖に陣を構えていた。
熊野水軍を中心に、軽船が整然と並ぶ。
動きやすく、連携しやすい布陣。
その中央に、義経の船。
船の上では、いつもの顔ぶれが集まっていた。
弁慶、継信、忠信、海尊、ピリカ、駿河次郎。
だが、これまでとは空気が違う。
軽口はある。
だが、どこか重い。
決戦前夜の静けさだった。
忠信が海峡を見ながら言った。
「狭いな」
継信が頷く。
「だが深い」
弁慶が腕を組む。
「潮も速い」
海尊が静かに補足する。
「時間で流れが逆になります」
ピリカが短く言う。
「朝、強い」
義経はその言葉を受け、海を見た。
流れはまだ緩い。
だが、確実に動いている。
「朝が勝負だ」
その言葉に、全員が頷いた。
継信が地図を広げる。
「平家は、この海峡に慣れています」
忠信が苦笑する。
「こちらよりな」
弁慶が低く言う。
「だが、逃げ場はない」
海尊が静かに言う。
「背後は海、前も海」
ピリカがぽつりと呟く。
「逃げられない」
駿河次郎が、その言葉に反応した。
「……逃げない」
皆が彼を見る。
彼はゆっくりと言った。
「平家は、逃げない」
その声には、かつての一門への理解があった。
「ここで、終わらせる」
弁慶が静かに言う。
「覚悟、か」
継信が続ける。
「ならば、こちらも覚悟が要る」
その時、見張りの兵が報せに来た。
「平家の陣、確認!」
全員が顔を上げる。
夜の海の向こうに、無数の灯が見えた。
平家の船団。
その数は、まだ多い。
そして、その中央には――
特別な船があった。
継信が目を細める。
「御座船か」
忠信が呟く。
「安徳天皇……」
海尊が静かに言った。
「帝を守るための戦」
義経はその光を見ていた。
「終わる」
その一言は、静かだった。
弁慶が隣に立つ。
「長い戦でしたな」
義経は答えない。
だが、その目は遠くを見ていた。
やがて、再び軍議が始まる。
継信が言う。
「中央は避けるべきです」
忠信が続ける。
「正面から当たれば、押し返される」
弁慶が頷く。
「潮の流れもある」
海尊が言った。
「平家は、この海を知っている」
ピリカがすぐに補足する。
「流れ、読む」
義経は、静かに言った。
「ならば、外す」
その一言に、皆が集中する。
継信が聞く。
「どこを」
義経は海図を指した。
「側面」
忠信が笑う。
「またそれか」
弁慶も笑った。
「主らしい」
義経は続ける。
「中央は強い」
「だが、端は弱い」
海尊が頷く。
「守りが薄い」
ピリカが短く言う。
「そこ、射る」
駿河次郎が静かに言った。
「平家は、中央を守る」
義経が頷く。
「ならば、そこ以外を崩す」
計画はすぐにまとまった。
左右からの挟撃。
潮の変化を読む。
中央を避け、崩れたところを突く。
忠信が笑いながら言った。
「結局、いつも通りですね」
継信がため息をつく。
「それで勝ってきた」
弁慶が低く言う。
「だが、今回は最後だ」
その言葉に、全員が黙った。
夜が深まる。
船の上は静かになる。
兵たちは休むが、眠りは浅い。
海尊は船の端に座り、海を見ていた。
弁慶が近づく。
「眠れぬか」
海尊は小さく笑った。
「はい」
「怖いか」
少し考えてから、答える。
「怖いです」
弁慶は頷く。
「よい」
ピリカは少し離れた場所で、弓を抱えていた。
彼女は何も言わない。
ただ、風と海を感じている。
駿河次郎は、その隣で静かに笛を手にしていた。
吹かない。
ただ、持っている。
義経は、船の先で一人、海を見ていた。
長い戦だった。
そして、ここで終わる。
東の空が、わずかに白み始める。
潮が動く。
海が、牙をむく。
義経は振り返った。
「行くぞ」
その一言で、すべてが動き出す。
壇ノ浦の朝が来る。
源氏と平家。
すべてを決める戦が、始まろうとしていた。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
寿永三年(西暦1184年)六月初旬、壇ノ浦に至る。
平家の船団、海峡に布陣し、帝の御座船を守る。
主は中央を避け、側面より崩す策を定められた。
潮の流れ、風、すべてを読み、決戦に備える。
長き戦、いよいよ終わりに近し。
明日、この海にてすべてが決まるであろう。




