第55話 退く旗、追う波 ――決戦前夜の選択
(寿永三年〈西暦1184年〉五月下旬・讃岐国屋島沖~瀬戸内海西航)
五月下旬の瀬戸内は、昼の光が強く、海面がまぶしく揺れていた。
寿永三年(1184年)五月下旬。
屋島沖の戦は、すでに決着へ向けて傾き始めていた。
前日の海戦で、平家の船団は大きく乱れた。
数はなお多いが、統制が崩れつつある。
そしてその兆しは、この日の朝にはっきりと現れた。
見張りの兵が声を上げた。
「平家、動きあり!」
源氏の船団が一斉にざわめく。
沖合に広がっていた平家の船が、まとまりを失い、西へと向きを変え始めていた。
逃げの動き。
それは、戦場において最も分かりやすい変化だった。
義経の船の上では、すぐに家臣たちが集められた。
弁慶、継信、忠信、海尊、ピリカ、駿河次郎。
風は西へ流れている。
潮もまた、西へと引いていた。
継信が海図を広げる。
「西へ退きます」
忠信が目を細める。
「逃げるか……」
弁慶が低く言う。
「だが、整然としていない」
海尊が続ける。
「昨日の乱れが尾を引いています」
ピリカは海を見たまま言った。
「船、ばらばら」
短いが、的確だった。
義経はその様子をじっと見ていた。
「追う」
その一言で、空気が変わる。
忠信が即座に笑う。
「やはり」
継信は冷静に続ける。
「だが深追いは危険です」
弁慶も頷く。
「平家は海の武者。誘いの可能性もある」
海尊が補足する。
「退くふりをして、挟む」
その言葉に、一瞬の沈黙。
確かにあり得る。
平家は海を知っている。
不用意に追えば、逆に包囲される可能性もある。
義経は、少しだけ目を細めた。
「誘いではない」
継信が聞く。
「なぜそう思われます」
義経は海を指した。
「乱れている」
忠信が頷く。
「確かに」
義経は続けた。
「昨日の戦で、指揮が崩れた」
海尊が静かに言う。
「立て直すための退却……」
義経は頷いた。
「だから今だ」
弁慶が笑った。
「立て直す前に叩く」
「そうだ」
命令はすぐに伝えられた。
「追撃準備!」
熊野水軍の船が一斉に動く。
軽い船が、潮に乗る。
風も味方する。
源氏の船団は、一直線に西へと伸びていく。
その動きの中で、継信は全体を見ていた。
「左右、開きすぎるな!」
忠信が前方の船に声をかける。
「中央を見失うな!」
弁慶は前に出て、兵を鼓舞する。
「恐れるな!敵は退いている!」
海尊は船の端で、敵の動きを観察していた。
「……右が遅い」
ピリカがすぐに言う。
「潮、引っ張ってる」
義経はその言葉に反応した。
「右を回せ」
忠信が振り向く。
「私が行きます」
「行け」
忠信の船が、右へ大きく回り込む。
潮の流れを利用する。
遅れた平家の船の側面へ。
平家の船団では、混乱が広がっていた。
「速く進め!」
「船が寄りすぎている!」
「舵が効かぬ!」
昨日の戦の影響は大きい。
統制が戻っていない。
そこへ、源氏の船が迫る。
矢が飛ぶ。
至近距離。
逃げる船は、反撃しづらい。
弁慶が再び敵船へ飛び込んだ。
「ここで止める!」
薙刀が振るわれる。
平家の兵が倒れる。
その勢いのまま、船を奪う。
海尊も続いた。
「押し返すな!」
退く敵に圧をかける。
戦い方が変わっている。
昨日は崩し、今日は追う。
継信はその変化を見ていた。
「良い流れだ」
忠信の船が右から突っ込む。
「挟んだ!」
その声に、源氏の兵がさらに勢いづく。
駿河次郎は、少し離れた船でその様子を見ていた。
彼の目には、はっきりと見えていた。
「……平家、終わる」
その声は小さい。
だが確信があった。
夕方。
平家の船団は、大きく西へ退いた。
屋島の海から、離れていく。
源氏は追うが、深追いはしない。
義経が命じた。
「ここまでだ」
船の上で、再び家臣たちが集まる。
弁慶が言う。
「十分に叩きました」
忠信が笑う。
「逃げるだけでしたな」
継信は首を振る。
「まだ終わりではない」
海尊が静かに言う。
「次は、決戦になります」
ピリカが短く言った。
「海、広い」
義経は西の海を見ていた。
その向こうに、平家がいる。
だが、もう同じ形ではない。
揺らぎ、崩れ、逃げる軍。
次は――
決める戦。
義経はゆっくりと言った。
「西へ行く」
弁慶が頷く。
「はい」
継信が続ける。
「壇ノ浦」
その名が、初めてはっきりと口にされた。
瀬戸内海の夕日は、赤く海を染めていた。
その光の中で、源氏の船団は西へと進む。
決着の地へ。
戦の終わりへ。
そして――
すべてが試される場所へ。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
寿永三年(西暦1184年)五月下旬、屋島沖にて追撃戦。
平家は西へ退き、我らこれを追う。
潮と風を味方にし、主は敵の乱れを突いた。
敵は統制を失い、大きく退く。
継信、忠信、海尊、皆よく動き、兵の士気高し。
いよいよ戦は西国の決戦へ向かう。
壇ノ浦、その名が近づいてきた。




