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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第54話 潮が牙をむく時 ――動き出す海、裂ける陣

(寿永三年〈西暦1184年〉五月中旬・讃岐国屋島沖)

瀬戸内の海は、昼過ぎから表情を変える。

寿永三年(1184年)五月中旬。

屋島沖の水面は、朝の穏やかさを失い、ゆっくりと、しかし確実に流れを変え始めていた。

潮が動く。

それは目には見えないが、船にははっきりと伝わる変化だった。

源氏の船団は、沖合に細長く布陣している。

その中央に義経の船。

左右に熊野水軍、そして佐藤兄弟の兵。

平家の船団は、それに対するように広がっていた。

数は多い。

そして、海に慣れている。

両軍は、互いの動きを探りながら、じりじりと距離を詰めていた。


義経の船の上では、張り詰めた空気の中で軍議が続いていた。

継信が海図を押さえながら言う。

「潮、変わり始めました」

忠信が船縁から海を覗き込む。

「流れが速くなってきた」

弁慶が腕を組む。

「船の足が乱れますな」

海尊が静かに補足する。

「重い船ほど流されます」

ピリカが短く言った。

「平家、大きい船、多い」

その一言で、全員の視線が海へ向いた。

確かに、平家の主力船は大型だ。

兵も多く、安定はしている。

だが――

潮には弱い。


義経は海の流れをじっと見ていた。

風の向き。

波の揺れ。

船の傾き。

すべてを見て、計っている。

やがて、短く言った。

「今だ」


その一言で、空気が変わる。

忠信が顔を上げる。

「攻めますか」

義経は頷いた。

「中央は叩かない」

継信がすぐ理解する。

「両翼」

「そうだ」

弁慶が低く言う。

「流れに乗せて、崩す」


命令はすぐに伝わった。

熊野水軍の船が、左右に広がる。

櫂が一斉に動く。

軽い船が、潮に乗る。

まるで水の上を滑るように、平家の側面へ回り込んでいく。


平家の船団も動いた。

だが、その動きは一瞬遅れる。

潮が強い。

大型の船は、思うように向きを変えられない。

「左を守れ!」

「船を寄せろ!」

平家の船から、怒号が上がる。

だが、流れは待たない。

船と船の間が、わずかに開く。

その隙間へ――

源氏の船が入り込んだ。


弁慶が前へ出た。

「押すぞ!」

その声とともに、兵が一斉に動く。

弓が引かれる。

矢が飛ぶ。

至近距離。

外す距離ではない。

平家の兵が倒れる。


忠信は笑いながら矢を放つ。

「近いな!」

継信がすぐに言う。

「油断するな!」

海尊は船の縁で構え、乗り移ろうとする平家の兵を斬り落とした。

「来るなら来い!」

その声は低いが、鋭い。


ピリカは少し高い位置を取っていた。

船の上の箱に立ち、周囲を見渡す。

潮の流れ。

船の動き。

敵の位置。

そして、短く言った。

「右、穴」

義経が即座に反応する。

「忠信、右へ」

「任せろ!」

忠信の船が、潮に乗って滑るように動く。

その先には、わずかに開いた平家の船の間。

そこへ突っ込む。


平家の船がぶつかる。

「押し返せ!」

「舵が効かぬ!」

混乱が広がる。

大型船同士が接触し、動きが止まる。

そこへ――

源氏の軽船が、次々に入り込む。


弁慶が敵船へ飛び移った。

木の板が軋む。

着地と同時に、薙刀を振るう。

「遅い!」

平家の兵が倒れる。

その背後から、源氏の兵がなだれ込む。


海尊も別の船へ飛び込んだ。

一瞬の踏み込み。

太刀が閃く。

血が飛ぶ。

だがその顔は静かだった。

「……止まるな」

その一言に、後ろの兵が続く。


継信は全体を見ていた。

船の位置。

流れ。

味方の動き。

「左、押しすぎるな!」

その声で、熊野水軍がわずかに引く。

潮に逆らわない。

それが海の戦い方だった。


義経は中央で、すべてを見ていた。

左右が噛み合う。

中央が乱れる。

平家の陣が、少しずつ崩れていく。

そして、短く命じた。

「押し込め」


源氏の船が、一斉に前へ出た。

逃げ場を狭める。

潮はまだ動いている。

平家の船は、流れに逆らえない。


駿河次郎は、その光景を見ていた。

かつての味方。

いまの敵。

彼は静かに言った。

「……終わる」

誰に言うでもない言葉だった。

だが、その声は確信に近かった。


夕方。

戦は一旦、離れた。

平家の船団は、沖へ退く。

源氏は深追いしない。

海の戦は、一度で決まるものではない。

だが――

今日の一戦で、流れは変わった。


義経の船に、再び家臣たちが集まる。

弁慶が息を整えながら言う。

「見事でした」

忠信が笑う。

「動けない相手は楽だな」

継信がすぐに返す。

「それを作ったのは主だ」

海尊が静かに言う。

「潮を味方につけた」

ピリカが短く言った。

「海、使った」


義経は海を見ていた。

「まだ終わらない」

その言葉に、全員が頷く。


屋島の海は、再び静けさを取り戻しつつあった。

だがその静けさは、戦の前のものではない。

戦の後の静けさ。

そして、次の戦の前触れ。

平家はまだいる。

だが、その形は崩れ始めていた。

義経は、次の波を待っていた。

それが来た時、すべてを決めるために。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)五月中旬、屋島沖にて海戦始まる。

潮の流れを読み、主は敵の側面を崩す策を取られた。

熊野水軍、軽船をもって敵陣に入り、平家の船は乱れる。

弁慶、継信、忠信、海尊、皆よく戦う。

鷲尾三郎、潮の変化を見抜き、戦に大いに役立つ。

今日の戦にて、流れは我らに傾き始めた。

されど、まだ決着には至らず。

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