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弁慶と言う名の女性 武蔵坊弁慶異聞  作者: イサクララツカ


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第53話 揺らぐ海、離れる心 ――勝ちのあとに来る影

(寿永三年〈西暦1184年〉五月初旬・讃岐国屋島沖)

屋島の海は、静まり返っていた。

寿永三年(1184年)五月初旬。

前夜までの緊張が嘘のように、波は穏やかで、風も柔らかい。

だが、その静けさの下で、戦は確実に動いていた。

源氏と平家は、互いに距離を保ちながら、沖に陣を構えている。

どちらも決定打を欠き、しかし一歩も引かない。

この均衡は長くは続かない。

義経は、それを理解していた。


義経の船の上では、小さな軍議が開かれていた。

弁慶、佐藤継信、忠信、海尊、ピリカ、そして駿河次郎。

船の上の軍議は、陸と違う。

揺れる足場、風、潮の流れ。

すべてが判断に影響する。

継信が海図を広げながら言った。

「平家は沖に広がっています」

忠信が覗き込む。

「散っているようで、まとまっている」

弁慶が頷く。

「海の戦い方ですな」

陸の軍は陣を固める。

だが海では、散開しておくことで動きを速くする。

海尊が口を開く。

「中央を崩すのは難しいでしょう」

ピリカが海を見ながら言った。

「潮、変わる」

義経が視線を向ける。

「いつだ」

「昼過ぎ」

短いが、確信のある言葉だった。

熊野の船頭もそれを認めるように頷く。

「潮が引く」


忠信が腕を組む。

「潮が引けば、船の動きが変わる」

継信が続ける。

「動きが鈍る」

弁慶が言う。

「その時を狙うか」

義経は少し考え、首を振った。

「違う」

その一言で、場の空気が変わる。

義経は海図を指した。

「平家は待っている」

忠信が眉をひそめる。

「待つ?」

義経は頷く。

「我らが攻めてくるのを」


弁慶が目を細める。

「確かに、屋島での奇襲の後……こちらの出方を見ているようですな」

継信が言う。

「軽々しく動けば、逆に包まれる」

海尊が静かに言った。

「平家は、まだ余裕があります」

その言葉は重い。

屋島を焼かれてもなお、平家は崩れていない。

それが現実だった。


その時、船の縁にいた駿河次郎が低く言った。

「平家は……迷っている」

皆が彼を見る。

彼は元は平家の公達。

その視点は、他の誰とも違う。

「迷い?」

忠信が問い返す。

駿河次郎は少し考えながら言った。

「戦うか、退くか」

継信が頷く。

「確かに」

弁慶が腕を組む。

「退けば面目を失う」

海尊が続ける。

「戦えば、敗れるかもしれない」

義経は静かに言った。

「だから、揺らす」


その言葉に、忠信が笑う。

「またですか」

継信がため息をつく。

「主は、いつもそれだ」

弁慶が笑った。

「だが、それで勝ってきた」


義経は海を見たまま言う。

「正面からは戦わない」

海尊が聞く。

「では」

義経は短く答えた。

「崩す」


その時、見張りの兵が駆けてきた。

「報せ!」

全員が顔を上げる。

「都より使者!」


小舟が一艘、源氏の船団に近づいていた。

その中に、装束の整った使者がいる。

義経の船に上がると、深く頭を下げた。

「九郎判官殿」

義経は頷く。

「用件は」

使者は巻物を差し出した。

「鎌倉殿より」

その言葉に、空気が変わる。

弁慶の目がわずかに細くなる。

継信と忠信も表情を引き締める。

義経は巻物を受け取り、開いた。

しばし、沈黙。

風の音だけが聞こえる。


やがて義経は巻物を閉じた。

その顔は、変わらない。

だが、継信はわずかな違和感を感じた。

「主」

義経は答えない。

忠信が代わりに聞く。

「何と」

義経は短く言った。

「命だ」

その一言に、弁慶が眉をひそめる。

「どのような」

義経は海を見たまま答える。

「軽々しく動くな」


忠信が思わず声を上げた。

「今さらですか?」

継信が制する。

「声を抑えろ」

だが忠信の表情は収まらない。

「ここまで来て、待てとは」

海尊も静かに言った。

「戦機を逃します」

弁慶は義経を見る。

「主は、どうなさる」


義経は、しばらく何も言わなかった。

海を見ていた。

遠くに、平家の船がある。

こちらを見ている。

待っている。

そして、鎌倉からは――動くな、という命。


義経は、ゆっくりと振り返った。

その目は、静かだった。

「戦はここだ」

弁慶が頷く。

「はい」

義経は続ける。

「鎌倉ではない」


その言葉に、空気が張り詰める。

継信が深く息を吐いた。

「承知」

忠信が笑った。

「やはりそう来ますか」

海尊は静かに頷く。

「この場の判断が、すべてです」

ピリカは短く言った。

「今、戦う」


義経は最後に言った。

「揺らして、崩す」

その言葉は変わらない。

屋島で火を放った夜と同じ。

戦い方は一つ。

だが、その先は違う。


夕方。

潮が変わり始めた。

海が動く。

船がわずかに揺れる。

その変化を、ピリカが感じ取る。

「来る」

弁慶が薙刀を握る。

継信と忠信が弓を取る。

海尊が刀を抜く。

駿河次郎は、静かに海を見る。

平家の船が動き始めていた。

戦が、再び動く。


屋島の海は、再び緊張に包まれた。

だがその中で、一つだけ確かなことがあった。

義経は止まらない。

鎌倉の命よりも、目の前の戦を選んだ。

それが、吉と出るか、凶と出るか。

まだ誰にも分からない。

だが――

この選択が、やがて大きな波を生むことになる。

武蔵坊弁慶の日記(義経記)

寿永三年(西暦1184年)五月初旬、屋島沖にて対峙続く。

平家は動かず、我らもまた機をうかがう。

都より使者来たり、鎌倉殿より軽々しく動くなとの命あり。

されど主は、この戦はこの場にありとし、進むことを選ばれた。

戦の理と、主従の理。

この二つ、時に相反す。

我はただ主に従うのみ。

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