第58話 海へ沈む栄華、海より掬う命
(元暦二年〈西暦1185年〉三月二十四日ごろ・長門国壇ノ浦)
壇ノ浦の海は、朝と昼とでまるで別の獣になる。
元暦二年(西暦1185年)三月二十四日ごろ。
春とはいえ、海峡を吹き抜ける風は冷たい。朝の潮が源氏に味方し、昼へ向かうにつれてその流れは逆へ返る。船乗りでなければ、その変化に足を取られる。いや、船乗りであっても、心が乱れれば海は容赦なく牙をむく。
その海の真ん中で、源氏と平家の船団はなおぶつかり合っていた。
矢が飛ぶ。
船がきしむ。
人が落ちる。
潮が叫ぶ。
義経の船は、潮返りの一瞬に押し返されかけながらも、まだ崩れてはいなかった。
弁慶が船縁に立ち、薙刀を構え、継信と忠信が左右の船へ声を飛ばし、海尊は敵船へ飛び移ろうとする兵を切り落とし、ピリカは高い板の上から海と船と風を見ていた。
駿河次郎だけは、少し離れた場所で、平家の船の動きを凝視していた。
かつて自分がいた側の、崩れ方を。
「主!」
継信の声が飛ぶ。
「左の船列、間が開きます!」
義経はすぐにそちらを見た。
たしかに平家の左翼にわずかな乱れが生まれている。潮が変わったことで、船足の強いものと弱いものの差が出始めたのだ。
忠信が叫ぶ。
「今なら割れます!」
弁慶は薙刀の石突きを船板に叩きつけた。
「押し込めるなら今しかございませぬ!」
海尊も振り向く。
「ですが、中央はまだ厚い」
義経は短く答えた。
「中央は落とさぬ」
皆がその次の言葉を待つ。
義経は海を見たまま続けた。
「揺らして崩す」
忠信が思わず笑う。
「やはり、そこですか」
継信がすぐに言う。
「忠信、笑っている場合ではない」
「兄上こそ、もっと楽しそうにしてもいいでしょう」
「戦場で楽しむな」
そのやり取りに、弁慶が低く笑う。
「二人とも、生きて戻ってからやれ」
海尊が一歩前へ出た。
「主、左へ兵を集めれば、右が空きます」
義経は頷く。
「だから右は見せる」
継信が即座に意図を読む。
「薄く見せて、食いつかせる」
「そうだ」
ピリカがぽつりと言った。
「右、来る」
義経が視線を向ける。
「分かるか」
「旗、前に出た」
たしかに平家右手の一団が、潮に乗ってこちらへ張り出してきていた。
それは好機でもあり、罠でもある。
義経の目が鋭くなる。
「弁慶」
「は」
「右は踏ん張れ」
「承知」
「継信は左を崩せ」
「承知」
「忠信は中央へ矢を入れ続けろ」
「任せてください」
「海尊は弁慶の後ろにつけ」
海尊が頷く。
「はい」
「ピリカは――」
義経が言いかけた時、ピリカが短く遮った。
「御座船、探す」
皆の顔が変わる。
安徳天皇の御座船。
それを見つけることは、この戦の終わりを左右する。
義経は一瞬だけ黙り、それから静かに言った。
「見つけたら報せろ」
「うん」
ピリカの返事は短い。だが迷いがなかった。
駿河次郎が、そこで初めて口を開いた。
「主」
義経が見る。
「平家は、崩れ始めたら早いです」
その声には、かつて平家の陣中にいた者だけが知る実感があった。
「なぜだ」
弁慶が問う。
駿河次郎は少しだけ目を伏せた。
「一門で固いように見えて……中央が揺れると、皆が“誰を守るか”で迷います」
継信が頷く。
「帝か、三種の神器か、一門の女房か、将か」
「そうです」
駿河次郎は海の向こうを見た。
「平家は優しいから、最後にそこが弱みになる」
弁慶は、その言葉にほんの少しだけ胸が重くなるのを感じた。
敵ではある。
だが帝を抱き、女房を守り、子を囲う軍が、崩れる時にどんな顔をするかは想像できた。
義経は短く言った。
「ならば、迷わせる」
そして、船上の全員へ命じた。
「行け!」
戦は、そこで大きく動いた。
源氏の左翼が一気に前へ出る。
継信の指示で軽船が流れに乗り、平家左の船列へ鋭く食い込んだ。
「押せ!」
継信の声は大きくない。
だが、迷いがない。
忠信は中央へ矢を集中させる。
「顔を上げさせるな!」
次々に矢が飛び、平家の中央は防ぐことに追われる。
前へ出られず、後ろを振り返る余裕もなくなる。
右では弁慶が、海尊とともに押し寄せる平家の船を受け止めていた。
一艘、二艘と敵船が寄る。
板が軋む。
鉤がかかる。
敵兵が飛び込んでくる。
弁慶が吼えた。
「来るなら来い!」
薙刀が唸る。
一人、二人と海へ落ちる。
海尊も一歩も退かない。
義仲を喪い、涙を流し、海尊となったその女は、もう悲しみだけでは動かない。
「足を止めるな!」
太刀を振るい、敵の踏み込みを切る。
弁慶がちらりと横を見る。
「強くなりましたな」
海尊が短く返す。
「義姉上が厳しいからです」
「それはそうだ」
一瞬のやり取り。
だが、その短さが二人の息の合い方を示していた。
その時だった。
ピリカが、高い板の上から声を上げた。
「見つけた!」
義経がすぐに振り向く。
「どこだ!」
ピリカは遥か沖、やや中央より後方を指差した。
「白い御簾。金の飾り。守り、多い」
義経は目を細める。
普通の目では分からぬ。だがピリカの言う先に、たしかに他とは違う船があった。
「御座船か……」
継信が低く言う。
忠信が矢を番えながら聞く。
「どうします」
義経は、すぐには答えなかった。
帝を狙うか。
それは勝つためには早い。
だが、その一線を越えれば、この戦はただの殺し合いに落ちる。
弁慶も、主の沈黙を見ていた。
義経は静かに言った。
「御座船は囲む」
「沈めるな」
その一言に、場の空気が変わる。
継信が頷く。
「承知」
忠信も頷いた。
「逃がしはしない」
海尊が、わずかに目を細める。
「主らしい」
ピリカはすぐに次を見た。
「でも、女、多い」
駿河次郎が息を呑む。
「二位尼……建礼門院……」
その名が出た瞬間、皆の胸に別の緊張が走った。
平家の誇りと、帝の血と、最後の覚悟を抱えた女たち。
戦は、もう男だけのものではなくなっていた。
平家の御座船では、空気が変わっていた。
安徳天皇はまだ幼い。
何が起きているか、そのすべては分からない。だが大人たちの顔を見れば、ただならぬことだけは分かる。
建礼門院徳子は、我が子を抱きしめていた。
その手は震えている。
だが離さない。
そして、その後ろに立つ二位尼は、海の方を見ていた。
その顔には涙はない。
あるのは、決意だけだった。
「……ここまでか」
誰にともなく呟く。
平家一門が都を追われ、海を渡り、ここまで逃げてきた。
だが、その海がいま、逃げ場ではなくなろうとしている。
「母上」
徳子の声が震える。
二位尼は振り向かない。
「まだ、終わってはおりませぬ」
そう言いながらも、その声音には終わりの気配があった。
源氏の船は、じりじりと御座船を囲み始めていた。
だが、その時、平家の中からさらに大きな崩れが起きた。
「西へ退け!」
「いや、帝を守れ!」
「神器を守れ!」
命令が割れる。
声が食い違う。
船がぶつかる。
駿河次郎が、その様子を見て低く言った。
「始まった」
弁慶が問う。
「何がだ」
「平家の終わりです」
その言葉は冷たくはなかった。
むしろ、ひどく悲しそうだった。
義経はそれを聞き、ゆっくりと言った。
「ならば、終わらせる」
「主!」
忠信が叫ぶ。
「右から敵!」
「任せろ!」
義経が前へ出る。
太刀が閃く。
敵船へ飛び移る。
一人斬り伏せ、二人目の槍をかわし、そのまま船端まで押し切る。
弁慶も続く。
「退くな!」
海尊が後ろから援護に入る。
継信は左の崩れをさらに押し広げる。
ピリカは御座船周辺の弓兵を一人ずつ射抜き、近づく道を作る。
「主、前!」
ピリカの声と同時に、矢が飛ぶ。
義経の肩先をかすめるはずだった矢が、その手前で別の矢に弾かれて海へ落ちた。
義経が振り向く。
ピリカがすでに次の矢を番えていた。
「見てる」
短い言葉。
義経は小さく笑う。
「頼もしいな」
海尊がそれを聞いて言う。
「主、私もおります」
弁慶が笑う。
「競うな、海尊」
「競っておりません」
忠信が思わず口を挟む。
「いや、少し競ってます」
継信が即座に叱る。
「戦中だ」
だが、そのわずかなやり取りが、逆に義経主従の足を止めなかった。
互いの声が届く。
だから動ける。
そして、ついにその時が来た。
ピリカが鋭く叫ぶ。
「主! 御座船、前!」
義経が顔を上げる。
白い御簾。
金の飾り。
その周囲で泣き叫ぶ声。
御座船が、潮に押されてわずかに源氏側へ寄っていた。
「囲め!」
義経の声が飛ぶ。
継信が左から回る。
忠信が中央を抑える。
弁慶と海尊が右を押す。
平家の護衛船が次々に割り込んでくる。
だが、もう遅い。
御座船は、孤立し始めていた。
その船上で、二位尼が安徳天皇を抱き上げる。
徳子が声を上げた。
「母上!」
その声は、風に千切れそうなほど細い。
源氏の船からも、その様子は見えた。
弁慶が息を呑む。
海尊が目を見開く。
駿河次郎が、唇を噛みしめる。
「まさか……」
義経は叫んだ。
「止めろ!」
だが、船と船の間にはまだわずかな距離がある。
二位尼は、幼い帝を抱いたまま、海を見た。
「浪の下にも、都の候ぞ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いたように見えた。
そして――
飛んだ。
「帝!」
徳子の悲鳴。
平家の叫び。
源氏のどよめき。
海は、一瞬でその姿を飲み込もうとした。
その時、義経はもう動いていた。
太刀を捨てる。
甲を外す。
船縁を蹴る。
「主!」
弁慶が叫ぶ。
だが止められない。
義経は海へ飛び込んだ。
海尊も、迷わず続く。
「行きます!」
弁慶が一瞬だけ迷った。
巨体で飛び込めば、助けるどころか沈む危険もある。だが――
「くそっ」
結局、飛び込んだ。
冷たい海が、全身を打つ。
流れが速い。
想像以上に強い。
義経は必死に手を伸ばす。
白い袖が見える。
幼い帝の姿が揺れる。
海尊が徳子へ手を伸ばす。
弁慶は二位尼の衣を掴もうとする。
海は、まだ全てを奪ってはいなかった。
船上では、継信と忠信が必死に叫んでいた。
「縄を出せ!」
「こっちだ!」
ピリカは船縁に身を乗り出し、海を凝視する。
「主、左!」
その声を頼りに、義経が手を伸ばす。
幼い小さな腕を、掴んだ。
「取った!」
忠信が叫ぶ。
継信が縄を投げる。
海尊も、徳子の衣を掴んでいた。
弁慶は、二位尼の肩をつかんだ。
流れは強い。
だが、手を離さない。
船上の兵たちが一斉に引く。
「引けぇ!」
「止めるな!」
潮に逆らい、命を引き上げる。
そして――
最初に引き上げられたのは、安徳天皇だった。
次に、建礼門院徳子。
最後に、二位尼。
三人とも、海水を吐き、咳き込み、震えている。
だが、生きていた。
船上が、一瞬静まり返る。
勝った。
だが、その勝ちは誰も想像していなかった形をしていた。
義経は、濡れた髪のまま膝をつき、幼い帝を見た。
帝もまた、何が起きたか分からぬ目で、義経を見返している。
弁慶が海水を吐きながら笑った。
「……主」
義経が振り向く。
「今のは、さすがに無茶です」
海尊も咳き込みながら言う。
「義姉上が言うと、説得力がございません」
弁慶が、思わず笑う。
忠信も継信も、張りつめていた空気の中で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
ピリカだけは、まだ海を見ていた。
「まだ、終わってない」
義経が頷く。
「そうだ」
だが、平家はもう崩れていた。
帝を失いかけ、御座船を奪われ、命令は途切れ、一門の心は折れた。
壇ノ浦の海は、平家の時代の終わりを呑み込み始めていた。
元暦二年(1185年)三月下旬。
壇ノ浦にて、平家は潰えた。
だが義経主従は、その海の中から、安徳天皇と建礼門院徳子、そして二位尼を救い上げた。
それは勝利であると同時に、時代の終わりを自らの手で抱き上げる行為でもあった。
武蔵坊弁慶の日記(義経記)
元暦二年(西暦1185年)三月下旬、壇ノ浦の戦ついに決す。
潮返りののち、平家の船列は乱れ、帝の御座船も孤立す。
二位尼、安徳天皇を抱き海へ身を投げんとすれど、主これを見てためらわず飛び込み給う。
海尊、我もまた続き、帝、建礼門院徳子、二位尼を引き上ぐ。
平家の滅びは、海の底へ沈むはずであった。
されど主は、そこからなお命を掬い上げられた。
勝ち戦の中にも、主の戦はただ滅ぼすだけにあらず。
我、その背を見て、また一つこの人の大きさを知る。




