3.常識は絶対ではない3
「本当にここは、魔法使いたちの王国なのね」
「魔法使いは魔法使いかそうじゃないかが、すぐに分かってしまうんです。だからしばらくは、お屋敷の敷地内で大人しくしててくださいね。領民達にお知らせするまでの辛抱なので」
「元々が出歩けない生活だったから、特に問題ないわ」
「またそうやって、オリバーは私が悲しくなることを」
しょんぼりしたシェリーに、失敗したなと俺は思った。昔の話が話題になると、どうにもシェリーを悲しませてしまう。以後気を付けるとして、今のこの重い空気をどうするか。
「地図をお持ちいたしました」
「きゃっ」
唐突なメディッサさんの登場に、俺はまた悲鳴を上げた。メディッサさんはとにかく心臓に悪い。本当に前職暗殺者だったりしない?
でも今のタイミングは助かった。重くなっていた空気が、多少は緩和された気がする。
「頼んだ地図が来たわね」
空になった食器を片づけて、テーブル上に一枚の地図が広げられた。
「こちらが世間一般の地図です」
広げられた地図は、俺も見慣れたものだった。地理や政治経済の勉強で、何度も見たことがある。地図の中心部右寄りには、俺が暮らしていた大国ラルド帝国が描かれていた。
「この地図でいうなら、今私たちがいるのはここです」
シェリーが指差したのは、北東部にある険しい山脈の一部だった。北東から南西にかけて斜めに走った山脈は、ラルド帝国から一つ国を挟んだ場所にあり、何処の国にも属していなかったはずだ。あまりの険しさに、人が立ち入れない場所と言われている。
「え? どう見てもここは山じゃないわ」
四阿から辺りを見回しても、山は見当たらない。昨日上空から見た時は、屋敷の周辺には街が広がっていた。でもこの国の国境を超える前は、山が見えた気がする。
よく分からない。ただただ不思議さが増した。
「はい、ここでもう一枚の出番です」
混乱する俺の前に、二枚目の地図が広げられた。
「こちらは亡国内で作られたものですね」
二枚の地図を見比べた。一枚目の地図にあった険しい山脈が、二枚目の地図には存在しない。山脈があったはずの場所は大きく広がり、辻褄を合わせるように周辺国の国土が圧縮されている。
「こちらの地図だと、私たちが今いるのはここです」
シェリーが再度指差したのは、二枚目の地図の大きく広がった部分の一部だった。
「つまりは国がある場所を険しい山脈として、周囲には偽装しているということかしら? 険しい山脈なら人が超えられないから、避けざるを得なくなるものね」
「そういうことです」
「ラルド丸ごと一つ分に近い土地を、長年隠蔽しきってるとは驚きだわ」
「こうして地図を見ると、そういうことになりますね。隠蔽の結界は各公爵家が協力して張っていて、グローリアス公爵家の管轄はこの辺です。あとここが領地です」
シェリーが国境の一部を指でなぞった。続けて国境よりも薄く描かれた線をぐるりと辿った。
「シェリーは遥か遠国から来たなんて言っていたけれど、思ったより近くだったのね。ラルドの隣の隣だったとは、思いもよらなかったわ」
「変なことを言うと、ボロが出やすくなりますからね」
「今思えば学院生活は、かなりボロ出てたわね。あの時は天然なんだって納得してたけれど」
「そんな馬鹿なです」
不服そうなシェリーを横目に、俺は二枚目の地図上であるものを探した。普通の地図には当たり前に書かれているもので、国には必ず存在するもの、国名だ。しかしいくら俺が目を凝らしても、地図上からそれらしきものは見つけられなかった。
「結局この国の名前は、何て言うのかしら?」
「この国と言うと、今いるここのことで、いいんですよね?」
「ええそうよ」
「この国、この亡国に、現在名前はありません。元々はちゃんと国名があったんです。でも表向き滅んだことにした時に、その国名は失われてしまいました。元々の国名は今となっては、私たち魔法使いでも分かりません。偽装の代償のようなものみたいです」
俺が知っている歴史でも、魔法使いの王国の国名は明らかではなかった。完全にこの世から失われた名前か。
「だからずっと亡国と呼んでたのね。外の人間に教えてはいけないとか、言うと呪われるとか、国名を言ってはいけない理由があるのかと考えていたけれど、単純に失われたからとは思わなかったわ。新しい国名を付けようとはしなかったのかしら?」
「改めて付けても失われてしまうから、付けていないんだと思います。まあ無くても困らないですし」
「国自体を無いものとしてるなら、それもそうね」
再び地図に目を落とした。亡国の北東部は大陸の端っこだ。つまり。
「亡国には海があるのね」
「はい、ありますよ」
「たくさんの塩水がある場所らしいわね。ラルド帝国に海は無かったわ。あったとしても、きっと見ることは叶わなかったでしょうけど。……ちょっとだけ見てみたいかも……」
呟くような最後の方の言葉に、シェリーはすぐさま反応した。
「オリバーのやりたい事リストに一つ追加ですね! 夏になったら海に行きましょう。海が見れる以外にも、港町は海産物がおいしいです。新鮮なものは生で食べられるんですよ。夏が待ち遠しいですね」
「どうして夏なの?」
「えへへ、海水浴というものが世の中にはあります。私の水着姿を見て、ぜひ悩殺されてくださいね」
海水浴、水着、耳慣れない言葉に、理解が追いつかない。悩殺から察するに、シェリーが良からぬことを考えていることだけは分かった。
「また何を考えてるのよ」
「これからはオリバーと一つ屋根の下。いつでも一緒。一緒にいろんなところに行けます。きゃー」
俺の言葉はシェリーの耳に入っておらず、シェリーは一人でトリップしている、
「はっ、そういえば屋敷の中を案内しないといけませんね」
急に現実に戻ってきた。普段に増してせわしないシェリーに、俺はついていけていない。
「オリバーの部屋も相談しないといけません。あそこの空き部屋でいいですよね。後は……」
シェリーは一人で納得している。俺はそのまま完全に置いてけぼりかと思いきや、そうではなかった。
「オリバー、使用人に関してなのですが、お父様に頼んで、メディッサさんをオリバーの担当にしてもらおうと思ってます。さっきも言いましたが、私が旅に出る前は、彼女が私の世話をしてくれていました。とても信頼のおける人です。といわけで改めまして、こちらメディッサさんです」
「メディッサ・エレクトリアでございます。以後お見知りおきを」
メディッサさんは見事な一礼を披露した。
「オリバー・ディアレインですわ。よろしくお願いいたします」
俺も彼女に頭を下げた。ただ心配なことが一つある。今後俺の心臓は大丈夫なのかということだ。気配には敏感な方の俺が、メディッサさんの気配は全く感じ取れずにいる。驚いてのショック死はさすがに勘弁したい。
「オリバー、立ってください。行きましょう」
先に立ち上がっていたシェリーに、引きずられるようにして立ち上がった。そのまま四阿の段差を降りたところで、シェリーは俺から手を放した。
「ささお父様に会いに行きますよ」
俺の右腕を抱いたシェリーは、気付いていないのだろうか。腕を抱かれるとものすごく胸が当たる。柔らかい感触は男としてぐっとくるものがあるが、駄目だこれ駄目なやつだ。前回は言えなかったけれど、今回は言うしかない。
「シェリー、腕に胸が当たってるわ」
左手で顔を覆いながら、俺はついにシェリーに伝えた。
「違います」
「まさか、当ててるとか言わないわよね?」
「この大きさだと、当たっちゃうから仕方ないんです」
「そうくるのね。こんなでも俺だって男なのよ。分かってるわよね」
俺としては仕方ないでは、済ませられないのだ。
「じゃあ仕方なく当たっちゃう感触を楽しんでください」
「そうはいかないのよ!」
辛抱強い交渉の末、手をつなぐ妥協案で落ち着いた。皇妃教育の交渉技術がこんなところで役に立つとは、人生分からないものだ。
手をつないだ俺とシェリーは、グローリアス公爵の執務室に到着した。ドアをノックして返事が聞こえると、部屋に入ったシェリーは前置きなしに話を切り出した。
「お父様、頼みたいことがあります」
「なんだい、シェリー?」
「メディッサさんをオリバーの担当にしてください。あと私の部屋の隣の空き部屋を、オリバーの部屋にします」
頼みというか宣言。いや隣の部屋はまずくないか?
「隣はさすがに」
うん、だよな。
「お父様」
「……この通りシェリーは言い出したら聞かない。オリバー君、良識ある行動を切にお願いする」
まじかよ。
「はい、心得ていますわ」
グローリアス公爵も俺と同じで、シェリーに振り回される側の立場らしい。妙な親近感を感じた。




