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カンガルーカップル  作者: 瀬賀 王詞
14/15

14 ピンチを救った意外な物体

「鰻さんだよ・・・」

 会社の警備員。いつか腹話術の話をした人だ。

「人形の件、断ったほうがいいのでは・・・」

「そうだね。でも、なぜこんなところに・・・」

 僕は近づいた。鰻さんは車に乗ろうとしている。

「鰻さん!」呼び止めた。

 鰻さんは僕がわからないようだった。

「鰻さん、僕です。高野です」

 僕が近づくと鰻さんは笑みを浮かべた。

「いやあ、高野さん」

「どうしたんですか、こんなところで?」

「・・・車をね、とめたんですが・・・ど、どこに置いたかね、わからなくなりましてね・・・」

「この階にとめたのはまちがいなんですか? 駐車場が五階もありますからね」

「歳はとりたくないもんですな、ははは・・・。そういえば、人形ができたんですよ」

「そのことなんですが・・・」

「いい人形ですよ、あっちの方にありました、わたしの車・・・」

 鰻さんが指さして歩き出す。僕も後に続いた。

「人形できたんですか? 早いですね・・・でもですね、やっぱり腹話術はやめようかと・・・」

「こっちです。ああ、ありました、これ、わたしの車です」

 トヨタのミニバンだった。

「腹話術、やめようと思ってるんです・・・」

『それはもったいない」鰻さんは振り返った。「あれだけのいい声をもっているのに・・・しかも女性の声がだせるなんて、まちがいなく芸能界にもデビューできますよ、『一刻堂』みたいに・・・」

「今、都合悪いですね。お金ないです・・・」

「大丈夫ですよ、後払いでもいいですから。とりあえず人形を見てください・・・」

 僕と雪乃は上下で顔を見合わせた。そのとき車のタイヤの音がしたかと思うとわが愛車が見えた。どうやら御主人様を見つけてくれたらしい。鰻さんも車を見る。ブルーバードダットサンは、少し離れたスペースに駐車した。

「これなんですよ」鰻さんはそう言いながら、小箱を後部座席から取り出した。鰻さんは車のボンネットに小箱を置いた。

「鰻さん。申し訳ないけど、人形はいらないんだ」

「まあ、そんなこと言わないで。せっかく作ったたんだから、力作を見てくださいよ」鰻さんは僕の言葉に耳を貸す様子もなく、小箱の上蓋を取った。

「実はもう作り始めていましてね、確認の意味で電話したんですよ」

「鰻さんが作ったの? 確か知り合いがいるって、人形師の・・・」

「いやー。ばらしてしまった。どうですか、いいできでしょう?」

 鰻さんは人形を手に取ると、僕に渡した。女形の人形だ。

「わたしが作ってるって言うと、売れないんですよ」

 鰻さんは人形の背中に手を入れた。「こうやって操るんです。『高野さん、ほら、きれいなお人形でしょう?』」と下手な腹話術をする。

 僕は笑ったが、人形の顔を見ているうちに少しめまいを感じた。人形の顔をよく見ると、雪乃によく似ている。

「いい表情をしてますでしょう・・・腹話術に使えそうですか?」鰻さんが訊ねた。

 僕は、鰻さんの目を見た。

「鰻さん。この顔は・・・」

 鰻さんは後ずさり、僕と距離を置いた。

「顔が、どうかしましたか?」鰻さんは人形の顔を覗き込む。

「僕の知り合いの女性にそっくりなんです・・・」

「高野さんの? それは偶然でしょう。わたしは、わたしの理想とする女性の顔を作ったまでですよ」

「理想の女性? それは、モデルがいるわけですか?」

「いますね・・・」

「あなたが勤めている会社ですね?」

「あなたも勤めていましたね」

「まさか、あなたが・・・」

「その人形の顔が、すぐにあの子だとわかるものよくないと思い、少しアレンジしてみました。それでも、わかる人が見ればわかるようにね・・・」

「鰻さん、でしたか・・・」

 鰻さんは返事をせず、人形を手から外した。

「高野さん、悪いことは言わない。自首したほうがいい」

「鰻さん、僕は何もしていない・・・」

「高野さん、いけませんよ、二股は。大してイケメンでもないのに美女を二人も―」

「あなたもストーカー行為をしていた」

「それは認めます。確かにわたしは、あの子に好意を寄せ、ほんの数度、マンションを訪れたことがある。しかしそれだけです」

「ほんの数度で、夜中にぼくたちを見たってわけですか?」

「妙な言い方をしますね、ぼくたちとは・・・」

「ほとんど毎日、雪乃のマンションに来てたんじゃないですか?」

「毎日ではありません。隔日です。夜勤がありますからね。火・木・土・日は会社、月・水・金が雪乃ちゃんの警備です」

「警備だなんて。あなたのしたことは、れっきとしたストーカー行為です」

「高野さんのしたことは、なんですか? 誘拐。もしくは殺人ですよね」

「ちがいます!」僕は声を荒げた。

「落ち着いて」雪乃の声が聞こえた。

「動機もはっきりしています。沢井祐未との結婚で邪魔になったあの子を始末したんですね」

「彼女は生きてますよ」

 腹から再び「落ち着いて」という雪乃の声が聞こえた。

「そうですか、それならよかった。あの子がもうこの世にいないとなると、高野さんへの憎しみで、一刻も早く警察に突き出したくなりますからね」

「鰻さん。殺しちゃいない。彼女は、ちゃんと生きている」

「そうですか。しかし、わたしにはわかる。あなたがあの子をマンションから連れ出したあのときの様子。生きている感じはしなかった。それだけじゃない。わたしはあの車にあの子がいることも知っています。誘拐か殺人かは、あの子を見ればわかる。実は今、あの車を探してたんですよ。トヨタ2000GTは池に飛び込んだでしょう? ニュースで聞きました。兼田係長が間抜けにも追っかけたあの車。年代物の名車だから高野さんの車だとすぐわかりましたよ」

「兼田係長に僕の居場所、豪徳寺を教ええたのはなぜです?」

「あなたを尾行してから、そのまま監視したかったんですが・・・雪乃ちゃんが心配ですからね。お寺の住職がいましたんで、老婆の。はじめは雪乃ちゃんを供養するのかと思いましたよ。車が霊柩車でしたからね。雪乃ちゃんが死んだなら、すぐにでも警察に連絡するつもりでした。ところが、雪乃ちゃんが霊柩車から歩いて出てくるじゃないですか。少し、変な歩き方でしたが。ああ、生きてる、ってほっとしました。老婆の住職もいるし、まあ大丈夫だろうと思ったんです。高野さんと豪徳寺さんとのつながりはわかりませんでしたが・・・。わたしは明け方から勤務が入ってましたから、監視はできなかったんです」

「その代りを兼田係長に?」

「騙されっぱなしもかわいそうでしたしね。彼のねらいはわかりませんでしたが、わたしひとりよりも、四つの目があったほうが高野さんを追いつめられるだろうと思ったんです」

「兼田係長の目的は雪乃の体と金でした」

「それは残念ですね。もっと紳士かと思いましたね。金で片を付けたんですか?」

「はい、豪徳寺から借りた金です。鰻さんとの取引分がないんですよ」

「かまいませんよ。わたしと取引はなしです。あなたが警察に自首してくれればね」

「それができないんですよ、鰻さん。したくても、できないんです」

「高野さん、雪乃ちゃんのお母さんの気持ちを考えたことがありますか? あなたも雪乃ちゃんのマンションでお会いしたでしょう」

 それは僕らの弁慶の泣き所だった。仕方がないと涙を流して乗り越えた心の傷だ。その傷に塩がぬられた気分だった。

「鰻さんのねらいはなんですか? それほどの正義感があるなら、どうして僕を警察に突き出さないんです? 雪乃をマンションから連れ出すのをあなたは見た。ふつうだったら、警察に連絡してもいいはずです」

「わたしは、迷いました。わたしは警備員です。生来の正義感からすると、確かにあなたの言うとおり、即座に警察に連絡するべきでしょう。しかしそれをしなかった。高野さんは、会社でわたしによくしてくれましたしね」

「このまま見逃してほしいんです。ぼくものっぴきならない状態なんですよ。鰻さん、見逃してください!」

「高野さんは子どもですか?」

「鰻さん、もう少し、正直になってほしいですね。あの人形、僕の腹話術のために作った人形じゃない。もともとは、もっと森下雪乃に似ていた。あの人形は、森下雪乃のために作ったものですね」

「そうです。雪乃ちゃんへの、愛です。それ以外になにがありますか?」

「雪乃はあの車の中です。雪乃の元気な姿を見れば納得しますね? 見逃してくれますね?」

「高野さん、もしそれが本当なら、なぜ誘拐などする必要があったんです? あなたを雪乃ちゃんが好きでついて来たとしても、あんな夜中に抱きかかえてというのは不自然でしょう?」

 鰻さんの言うことはもっともだった。ただ、僕たちは異常事態にあるのだから、一般の方には理解してもらえないだろう。(仕方ないでしょう? 雪乃の顔がおなかにはりついてしまったんですから!)と心の中で叫んだ。

「あなたが何をしようとしているのかさっぱりわからない。沢井祐未と二股かけていて、邪魔になった雪乃ちゃんを殺したものとばかり思っていました。部屋を荒らしてたのはストーカーの仕業に見せかけるためですね。翌日は雪乃ちゃんの同僚と何食わぬ顔をして雪乃ちゃんの部屋へ・・・。大した悪党ぶりだと思いましたがね、高野さん」

「部屋を荒らしたのは兼田係長ですよ。僕もびっくりしたんですから。さらに、あなたの手紙、『犯罪者は許さない』で僕は窮地に立たされた」

「わたしのせいですか? ひとつ警告しておかないと、雪乃ちゃんを殺されるかもしれませんからね」

「それで死ぬことにしたんです」

「池に車ごとドボンとは、よくやりますね。やっぱり大した悪党ですよ、高野さん。どんなお仲間がいるのか見当がつきませんが。お寺の住職が悪党の味方とは世も末ですよ」

「僕の仲間を悪く言うと、鰻さん消されますよ」脅かしてみた。

「何を言いますか。そうくるなら、わたしも考えますよ。アジトはわかってますからね。実は、すぐに警察に言わなかったのは、兼田係長といっしょですよ。あなたを許すことを条件に、あの子をいただこうと思いました。あなたの代わりに誘拐の罪を着てもいい。あなたにとっても渡りに舟かもしれない。雪乃ちゃんを始末するまでもなく、沢井祐未の元に帰れる。もしあなたが後悔してるなら、わたしのこの申し出に、あなたは乗ってくるだろうと踏んだんです。ただ、もうすでにあの子がこの世にいない可能性もありました。お寺では生きてましたがね」

「いや、本当に生きています」

「わたしも、ぎりぎりまで悩んだんです。雪乃ちゃんをいただくか、正義を貫くか。とにかく会わせてもらいましょう」

 何を言っても無駄だと思った。

「雪乃は、渡せません」僕はきっぱりと言った。

「仕方ないですね」鰻さんはケータイを手に取った。「自首するなら今のうちです」

「彼女は生きているし、誘拐もしていない。僕は何の罪も犯していない」

「これだけの騒ぎを起こしておいて、それは無理ですよ。本当に高野さんは子どもですねえ。雪乃ちゃんが生きているなら誘拐罪だけですみますよ。わたしが警察についていってあげますから」

 鰻さんは僕の車に向かって歩き出した。その後を追いながら、僕は鰻さんを傷つけることを決意した。鰻さんが振り返る。彼は僕に背後を見せたことを危険に感じ、立ち止まって身構えた。

「おかしなことはしないことです、高野さん」

「鰻さん、待ってくれ。事情を話す・・・」

「あなたがわたしの口をふさごうとするぐらい、想像はつきます。わたしは警備員で、極真空手五段。あなた、知っているはずです。高野さんは剣道三段でしたね。いい勝負になるとは思いますが、肝心なのは、あなたの手に木刀も竹刀もないということです」

 ブルーバードダットサンは怪しい人物を避けて逃げる。しかしその背後に僕がいるから逃げない。鰻さんはゆっくりダットサンに近づいた。

「・・・前はトヨタ2000GT、今度はダットサンですか。幻の名車とは恐れ入りますね。さて、後部座席にいるね、あの子。わたしが見て、確かめます。いいですね?」

「サトシさん、サトシさん」雪乃が大きな声を出す。「サトシさん、サトシさん」

 鰻さんは辺りを見回す。

「なんですか、今の声は?」

「彼女です。森下雪乃―」

「サトシとは、高野さん、あなたのことですか? 『聖』は『サトシ』って読むんですね?」

「わかってもらえましたか。森下雪乃が生きていることは確かなんです」

 鰻さんは後部座席のドアノブに触れた。僕は息をのんだ。飛びかかる体勢を整えた。

「今の声、車の中から聞こえたようには思えませんが・・・」鰻さんはドアを開けた。

 ドアはゆっくりと開かれ、地下駐車場の薄暗い照明に本体が映し出された。

「やあ、雪乃ちゃんだ。なんだサングラス? 顔が髪で隠れてるけどねえ、わたしにはこの体を見ればすぐわかる。少し太ったようですねえ」

「足を触ってみてください。足だけですよ」

「言われなくても触らせてもらいますよ。ジーンズなのが少し残念ですがね」

 鰻さんは足の裏からくるぶしに手を回し、愛撫でもするかもように揉みほぐした。

「大丈夫。何も感じません」雪乃が僕にささやいた。

「温かいでしょう? 死んでいるのなら冷たいはずです」僕は言った。

 鰻さんは完全に僕に背を向け、雪乃の本体を愛撫することに夢中になっていた。僕は、鰻さんが本体を触ることで油断するのを期待した。

「よかった。よかったねえ雪乃ちゃん。こんなやつに誘拐されるなんて不幸だもの。わたしが今助けてあげるよ」

 鰻さんは後部座席に入り、雪乃の顔を確かめようとした。のっぺらぼうがばれる。鰻さんは完全に油断していた。僕には鰻さんの尻が見えていた。攻撃できないことはないが、おそらく、指で浣腸くらいしかできない。浣腸が有効な攻撃方法でないことは明らかだ。そして最も気の進まない攻撃方法だ。

 僕はシャツの隙間から雪乃を見下ろし、雪乃は僕を見上げ、お互いに目で意思を確認した。

「きみを見せるよ」

「いちかばちか、ですね」

「頭がおかしくなれば好都合だ。悪いけど、思いっきり気味悪く、悪態をついてくれないか」

「やってみます。ホラーっぽく、睨めばいいんですね」

 鰻さんは雪乃の髪を優しく払いのけた。のっぺらぼうを見たが、首をかしげただけだった。僕と雪乃はしばらく待った。悲痛な叫び声を期待した。しかし、鰻さんは車から出てくると、深いため息をついた。

「これは、なんのからくりですか?」鰻さんは両手を広げた。

「なんの、からくりでもありません」僕は答えた。

「巧妙な人形・・・リアルドールとかいったかな? ダッチワイフ愛好家で人気のやつですね? わたしも人形が趣味だから、少しは知ってますよ。高野さん、あなたはこんな趣味もあったんですね」

「違いますよ、鰻さん、それが彼女です。森下雪乃の本体です」

「なにを言ってるんだ!」

 鰻さんの右手が繰り出された。僕は顔を打たれ、倒れた。肩を上下させながら、僕はゆっくりと起き上がった。

 突然車が脇を通り過ぎた。しかし、なにごともなく消え去った。

「高野さん、この人形でアリバイ工作しようとしてるんですか? 意外と姑息なんですねえ」

「信じたくはないでしょう。でもこの際、真実を言いますよ。でないと、ぼくは犯罪者のままだ」

「のっぺらぼうじゃないか。のっぺらぼう」鰻さんが叫んだ。

「のっぺらぼうですよ。どうです、びっくりしたでしょう。でもそれが僕たちの現実なんです。それを見せたくなくて、ぼくは本体を連れ出したんです」

「のっぺらぼうだよ、のっぺらぼう!」鰻さんはうめいた。

 気が変になれ、僕はその様子を見て願った。

「どこだ?」鰻さんは僕に詰め寄った。

「なにがですか?」僕は不敵な笑みを浮かべてみせた。

「高野、きさまとぼけやがって。雪乃ちゃんの顔、そぎやがって」

「鰻さん、雪乃の顔、見せますよ」僕は鰻さんの前に立ちはだかった。

「見せろ。どこだ、雪乃?」

 僕はシャツをまくり上げた。そのとき僕は、水戸黄門で印籠を出す助さんのような気分になった。『この、僕の腹に張り付いた、雪乃の顔が目に入らぬかー』と心の中で叫んだ。

 現れたものは言うまでもない―雪乃は雪乃なりに、精一杯醜悪な顔をしてみせた。

 鰻さんは、しばらく視線が泳いだ。焦点も合わない様子だった。僕の腹に現れた雪乃の顔を探し当ててからは、凝視して確かめた。

「きみは、ほんとに雪乃ちゃん?」

「気安く、雪乃ちゃんなんて呼ばないで。それに、わたしたちをほっといて。でないと、わたしたちはあなたを殺すでしょう!」

 僕は、雪乃に普通の顔をするようにとささやいた。雪乃の形相に鰻さんが雪乃を判別できないと思った。

 鰻さんは雪乃を注視し、懸命に考えているようだった。

「鰻さん、ぼくたちがふつうでないことはこれでおわかりでしょう。これ以上ぼくたちに関わると、あなたにも災いが及びますよ」

「これは確かにあの子だ。まさかホラーとは・・・。気が変になりそうだが、わたしもそれなりにいろんな経験をしてきたからね。しかしこんなことは初めてだ。現実とは思えない・・・」

「火曜日の朝、僕のおなかに現れたんです」

 鰻さんはまだ雪乃の顔を凝視していた。雪乃は頬をひくひくさせる。

「これが現実なら、余計厄介だ。高野さん、このままわたしが帰れますかね? 家に帰ってゆっくりと妻と食事ができますかね? 腹に女の顔をくっつけた化け物を忘れられますかね? しかもその顔がしゃべってる・・・」

 鰻さんは人形を元の箱に収めた。

「忘れられますよ、こんなことはあり得ないことだから」僕は諭すように言った。

「わたしのやることはひとつですよ。この陳腐ないかさまを見破らないとねえ。こんな奇怪なことまでするやつとは思わなかった。わたしたちの話合いは終わりにしましょう」

 鰻さんの背中が見えた。その直後、僕の顔面に鰻さんの右足がヒットした。回し蹴りだ。僕はふっ飛び、そして落ちた。間髪入れず鰻さんの腕と手が、僕の胸、顔面を強打した。防御するが間に合わない。それは僕が常に腹部を庇っていたからだった。唯一の幸運は車が多いことだ。鰻さんの攻撃を車を使って避けた。ボンネットに登り、鰻さんのキックをよける。僕はジャッキー・チェンのファンだった。ジャッキーのように攻撃はできないが、ジャッキーのように避けることはできた。

「映画のワンシーンみたいだねえ」鰻さんが叫んだ。「逃げ回っても無駄だよ。そっちが先にバテる」

 鰻さんが僕をとらえた。車と車の隙間に追い込み、ジャブとストレートを小刻みに繰り返した。顔に数発当たり、そのうちの一発は眼球を襲った。僕は倒れた。

「サトシさん!」雪乃が叫んだ。

「雪乃ちゃん、雪乃ちゃんの声じゃないか」鰻さんは攻撃をやめた。

 僕は地面にうつぶせになり、せき込んだ。唇が切れて血が出た。

「さっきは化け物のような声だったが、今のは確かにあの子の声だ。雪乃ちゃん、きみは本当に雪乃ちゃんなのかな? でもまさかそんなことが・・・なんでこんな男の腹なんかにくっついて・・・」

 鰻さんは僕のシャツをめくろうとした。僕はうめきながらも近寄ってきた鰻さんの足をとらえた。鰻さんは倒れはしたが、すばやく反撃に出た。僕の首を腕で絞めた。

「殺しはしない。わたしは犯罪者ではないからね。きさまを警察に突き出してやる!」

 僕は鰻さんから逃れようと渾身の力を入れた。鰻さんはそれを許すまいとさらに締め上げた。遠ざかろうとする意識の中で、僕は必死に耐えた。もしここで意識を失えば、二人に明日はない。足を動かし、鰻さんの背中に一撃を見舞った。

「しぶといやつめ。この化け物・・・」

 遠ざかる意識のなかで、車のドアが開き、閉まる音が聞こえた。僕は助けが来たと思った。二人の様子を見て、ホテルの従業員か、客か誰かが助けに来てくれたと。だがそうではなかった。首を絞める鰻さんの背後に現れたもの、それは・・・。

 彼女はゆっくりと近づいてきた。遠ざかる意識の中で、僕は彼女を見続けていた。そして鰻さんが彼女に気づかないように抵抗を弱めた。鰻さんは僕を気絶させようとさらに力を入れた。彼女はもう鰻さんの真後ろに来た。棒状のものを手に握り、無造作に振り下ろした。だがそれは地面に当たり、甲高い金属音が響いた。

「も・・う・・少し・・・右・・・」僕はつぶやいた。

「なにを言ってるんだ、きさま。早く気を失え!」

 彼女が振り下ろした棒は、今度は他人の車のボンネットを直撃した。鰻さんは漸く彼女に気づき、力を弱め、後ろを振り返った。彼女が何であるかわかったとき、鰻さんの頭部で鈍い音がした。「グフッ!」踏み潰されたカエルのような声・・・。僕は体をずらし、倒れる鰻さんを払いのけた。激しい息遣いで、しばらくそこに横たわった。そして見上げた。

 それ―つまり雪乃の本体・・・。雪乃の本体は、棒状のものを手にして突っ立っていた。棒状のもの―それはゴルフクラブの五番アイアンだった。本体が再び五番アイアンを振り上げたので、僕は慌てて起き上がり、本体の手からアイアンを取り上げた。

 鰻さんのうめき声が聞こえた。頭から血が流れた。地下駐車場の照明が暗いせいで、血は黒く見えた。鰻さんは鋭い視線を僕に向け、うめいている。そしてのっぺらぼうの本体を見上げると、ゆっくり目を閉じた。

「死んだんですか?」雪乃が震える声で言った。

「手加減したんでしょ?」

「体のコントロールまでは、まだ・・・」

僕は不安に駆られ、倒れている鰻さん脈をとった。生暖かい体温にのって鼓動がいくらか弱弱しく波打った。

「だいじょうぶ、生きてるよ」

「よかった―」

 本体を見て、僕は身をすくめた。

「きみが念じて本体を動かしたの? それとも本体が勝手に?」

「サトシさんを助けてって神様にお願いしただけです。本体に動けって念じてはいないんです」

「なんだか悪い予感がしてきたよ。さあ、ここに長居は無用だ」

 僕は本体を誘導した。本体は全盲の人のようにゆっくりと歩き、僕に従った。助手席に座らせると、本体はきちんと背筋を伸ばした。

「いい子だ。ちゃんと言うことを聞いてくれるよ」僕は本体の頭をなでた。

 僕は雪乃の本体が自分に従ったのでうれしかった。のっぺらぼうの顔をまじまじと眺めた。思わず「初めまして」と言いそうになった。

ダットサンはエンジンをかけた。ステアリングを腕で支え、ケータイを手に取った。右前方を見ると、倒れた鰻さんの姿が黒く見えた。そして、あの人形が入った箱―。

僕は車を地下駐車場から出しながら、ケータイで兼田係長を呼び出した。長いコールのあと、兼田は電話に出た。

「係長、お楽しみのところすいません」

「まだだよ、雪乃ちゃんが恥ずかしがってね。三分に一回は化粧室に行くがあれはどういうことかね? 化粧直しにもほどがあるよ。今シャワーを浴びているところだ・・・」

「ひとつお願いがあるんですが―」

「わたしも今一緒に入ろうとしてたのに・・・。なんだ? 言ってみたまえ」

「地下の駐車場にけが人がいるんです。救急車を呼んでもらえませんか?」

「けが人? どういうことだね?」

「招かざる客ですよ。交渉決裂でケガをさせてしまいました」

「おいおい、しっかりしてほしいね」

 ダットサンは地下から表に出た。光がまばゆかった。ダットサンのステアリングを握る必要はなかった。

「お客は知ったやつかね?」兼田の電話からシャワー音が聞こえた。

「警備員の鰻さんです」

「警備員? 鰻? やはり同じ会社か・・・」

「殺すわけにもいかないんで、救急車を呼んでほしいんです」

「それはきみがすればいいだろう? わたしは今から雪乃ちゃんと―」

 兼田の電話が途切れた。沈黙がある・・・。

「係長・・・」僕は呼んだ。

 電話は切れていない。「雪乃ちゃん?、雪乃ちゃん?」と兼田の声がする。

 ふと見るとバックミラーに天明さんの顔がある。振り向くと、天明さんの体もあった。

「天明さん!」僕は叫んだ。「もう帰ってきたの?」

「ごめんなさい、高野様。どうしても、がまんできなくて・・・」

「きみはもののけだろ?」

「高野さん、天明さんを、許してあげてください」雪乃が天明さんを弁護する。

「高野くん!」電話から兼田の声が響いた。耳に当てなおす。

「どうかしましたか?」わかっていながらとぼける。

「これはどういうからくりだね? 雪乃がいない・・・」

「からくりもなにも、雪乃を逃がしちゃったんですか?」

「逃げた?」

「完全に手なづけたわけじゃないんですから、油断したら逃げますよ。すぐ追いかけてください!」

「わかった! すぐ探す!」

 僕らは大笑いした。久しぶりに腹から笑った。いつのまにかオカメインコも僕の肩にとまってピーピー鳴いている。

「お前も戻ったのか? しかしもう少し大金に変身できなかったかね? 三百万はあんまりだよ」そう言ってさらに笑った。

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