果報者と傍観者 9
二月十五日 金曜日 曇り
今日の彼の雰囲気は何か違っていた。
「……西村、お前、どこかにでも行くのか?」
昼休みになって、霧矢がいつも通りに弁当を広げようと、支度をしていると、西村はカバンを持って教室から去ろうとした。
「…いや、中里と二人で食べようかな…って」
やけに焦りを浮かべて、何かを隠そうとした声色でコソコソと歩き去ろうとしていた西村に、霧矢はにやにやとした表情を浮かべた。
西村は、昨日何があったのかを霧矢に一言も話そうとはしなかったが、霧矢は別に話してもらう必要などなかった。何があったかなど容易に予測がつく。
「…中里も、無事に渡せたみたいだな」
霧矢の独り言に、西村は弁当箱を机の上に取り落としてしまう。手を震わせながら、顔を真っ赤にして声にならない何かを発している。
「…お見通しだ。この幸せ者め」
絶句して立ち尽くしている西村の背中を霧矢は思い切り叩いた。無理やり弁当箱を持たせ、教室から追い出すと、霧矢はニヤニヤ笑いを押し殺して椅子にゆっくりと腰かけた。
一人で弁当を食べていると、いつも通り、文香が教室に入ってきた。霧矢の前に座ると、西村と時雨の二人がいないことを不審に思ったのか、まわりをきょろきょろと見回した。
「……二人の姿が見えないのだが」
「……お察しの通り。まあ、上手くいきました。末永くお幸せにってやつだ」
文香は口元を少し緩ませると、弁当を広げていく。
「貴様と二人で食べるというのは、初めてではないか?」
言われてみると、霧矢も文香と二人で食事をするというのは初めてのことだった。晴代や西村とならば数えきれないほどあるが、文香とは今まで一度もなかった。
「…言われてみれば、そうだな。新鮮なことかもしれない」
文香はまわりを見回すと、まわりの人間がみんなそれぞれの会話に夢中になっていることを確認して口を開いた。
「例の魔章の件だが、そろそろ完成する予定だ。明日が明後日、貴様の家に届けに行こうと思うのだが、予定は空いているか?」
「…土曜は無理だ。会長との約束がある。日曜は予定がはっきりしないから微妙だ。晴代がスキーの誘いをかけてくるかもしれない」
「そう言えば、晴代は試験対策の間、スキーを断っていたのだったな。では、スキーの誘いが入ったのなら、私も顔を出しても構わないだろうか。その時、ついでに渡したい」
「…好きにすればいい。晴代から連絡が入ったら、お前にも知らせるさ。何もなかったら、僕は家にいるはずだから、勝手に来ればいい」
そうさせてもらう、と文香はメモ帳に予定を書き込んでいく。横目で文香を見ながら、霧矢はお茶を口の中の白米ごと胃に流し込んだ。
「…ところで、今日、二組は何のテストが返ってきたんだ?」
「現代文、数学、世界史だ。ちなみに、すべて九十点以上だ。念のため言っておく」
霧矢は意図を読まれて沈黙するしかなかった。文香はその話題を続ける。
「三条、貴様は西村に勝ちたいと言っていたが、今のところどうだったのだ?」
「……古文と理科総合が返ってきたけど、古文は大差で負けてしまった。理科総合はなんとか勝ったけど、総合じゃ負けてるよ」
「まあ、理系志望なのだから、物理で負けたら悲しいとしか言いようがあるまい」
霧矢は相槌を打つと、弁当を食べるテンポを少し上げた。これ以上、文香と話していると、自分が情けなくなってくるかもしれないと思ったからだ。
「話題を変えるが、中里は明日西村にデートの誘いをかけたらしい。でも、西村はどうも普通のデートの雰囲気とは違うと言っていた。何やら連れて行きたい場所が普通とは違うらしい。木村、お前はどう思う?」
自分でテストの話題を振っておきながら、霧矢は都合よく他の話題に切り替えた。文香は別に気にすることもなく、切り替えた話題について思考を始める。
「…そうだな…デートにおいて普通ではない場所…か」
こういう話題には疎いのか、文香は普段見せないような悩みの表情を見せた。
「……なかなか珍しい場所となると……駄目だ。私には思い浮かばん。そもそも貴様は、私にそんなことを聞いて、まともな答えを出せるとでも思っているのか?」
「だよな。まあ、お前にそういうことを聞いてもダメだってこそは薄々気づいていた」
だったらそんなことを聞くな、とぶっきらぼうに文香は答えるとペットボトルをあおった。霧矢は普段通りの表情に戻った文香の目を眼鏡越しに眺めた。
「…なぜ、私の目を凝視する」
自分の目を「眺める」を越えて「観察する」とも言うべき霧矢の視線に、文香は苛立ち混じりの声を上げた。霧矢は文香の目から視線をそらさずに答える。
「……人の目を見るのが、ちょっとした僕の癖なんだよ」
「…それで、貴様は平時からそんなふうに人の目をじろじろと見て、何をしているのだ」
呆れたような口調の文香に、霧矢はふとあることを思い出した。
「…目と言えば、昨日、中里からチョコをもらった時に、あいつの目の奥底で何かが蠢いたように見えたんだよな」
誰かに話そうと思っていたが、西村には話さなかった。せっかく時雨が西村にアプローチをかけようとしているのに、西村に悪印象を与えてしまうことにもなりかねなかったからだ。ただ、文香ならば話しても大丈夫だとも思えた。
「……目の底で何かが蠢いた?」
文香なりに何か仮説を立てているようだが、霧矢には彼女が何を考えているのかをうかがい知ることはさっぱりできなかった。晴代と違い、彼女の思考回路は複雑すぎて読み取れない。
しばらく考えた末に、何やら考えがまとまったようで、眉間のしわが緩むのが見えた。
「……まさか、な」
独り言をぽつりと文香はつぶやいたが、それ以上彼女は何も言おうとはしなかった。霧矢も追及せず、そのまま、弁当箱は空になった。




