第3話 窓際の席
窓際の席は、少しだけ苦手だった。
午後になると、日差しが机の上まで伸びてくる。ノートの端を白く照らし、教室の埃をきらきらと浮かび上がらせる。外からは運動部の掛け声が聞こえ、廊下を走る生徒の足音が遠ざかっていく。
そんな、どこにでもある昼休み。
私は机の上に一枚の紙を広げたまま、もう十分近く、同じ場所を見つめていた。
――進路希望調査票。
第一希望、第二希望、将来就きたい職業。
記入欄は、驚くほど小さかった。
たった数行。
たった数行の中に、これから先の人生を書けばいいらしい。
「美月、まだ書いてないの?」
向かいの席から、紗良が顔を覗き込んできた。
「……うん」
「うん、じゃないでしょ。今日提出だよ?」
「知ってる」
「知ってる人の顔じゃないけど」
紗良は呆れたように笑い、自分の弁当箱を机に置いた。
小学校からの友達である紗良は、私が何かを誤魔化そうとすると、すぐに気づく。
昔からそうだった。
私が先生に怒られて泣きそうになったときも、好きな男の子の話を隠そうとしたときも、彼女はいつだって、私が口にする前に何かを察してしまう。
だから、ときどき困る。
誰にも気づかれたくないことまで、見つけられてしまいそうだから。
「進学先、決めてないの?」
「うーん……」
「大学?専門学校?それとも就職?」
「……まだ、わかんない」
嘘ではなかった。
けれど、本当でもなかった。
私は進路希望調査票に視線を落とした。
第一希望。
その欄の上に、鉛筆を置く。
書こうと思えば、書ける。
ずっと前から、心の中にあるものだから。
でも、芯の先が紙に触れる直前で、指が止まってしまう。
書いてしまったら、それが本当になってしまう気がした。
叶えたいと思ってしまう。
叶うかもしれないと、期待してしまう。
そして、もし叶わなかったとき。
そのときの自分が、どんな顔をしているのか、想像することすら怖かった。
「美月?」
「……なに?」
「もしかして、夢ないの?」
紗良は、いつもより少しだけ声を落として尋ねた。
責めるような口調ではなかった。
ただ、本当に不思議そうだった。
私は鉛筆を握り直した。
「あるよ」
「え?」
「夢くらい、ある」
思ったよりも強い声が出た。
紗良が目を丸くする。
私は慌てて視線を逸らした。
「……ごめん。別に、怒ってるわけじゃないの」
「ううん。いいけど」
紗良はしばらく私を見つめていた。
それから、机の上の紙に視線を落とす。
「じゃあ、どうして書かないの?」
どうして。
その言葉は、簡単なのに難しかった。
私だって、書きたい。
自分の未来を。
いつか暮らしてみたい街を。
勉強してみたいことを。
大人になったら、どんな服を着て、どんな仕事をして、どんなふうに毎日を過ごしているのか。
そんなことを考えるのは、嫌いじゃなかった。
むしろ、好きだった。
小さい頃から、私はよくノートの隅に未来のことを書いていた。
行ってみたい場所。
やってみたいこと。
いつか、誰かと一緒に見たい景色。
その中には、ひとりでは叶えたくない夢もあった。
でも、今は。
私は窓の外を見た。
校庭の向こうに、薄く色づいた木々が並んでいる。
風が吹くたび、枝先の葉が揺れた。
秋が終われば、冬が来る。
冬が終われば、春が来る。
みんなは、当たり前のようにそう思っている。
私だって、去年まではそうだった。
来年の春には、何をしているだろう。
高校三年生になって、受験勉強をしているのだろうか。
卒業式では、紗良と一緒に泣いているかもしれない。
悠真は、きっといつも通りだ。
少し面倒くさそうな顔をしながら、私の荷物を持ってくれる。
そんな未来を、何度も想像してきた。
けれど今は、その続きを考えようとすると、頭の中が真っ白になる。
その先に、何があるのかわからない。
わからないというより、考えることを許されていないような気がする。
病院の白い壁。
診察室で交わされた、大人たちの声。
母が、私の手を握ったまま俯いていたこと。
そして、お医者さんが口にした言葉。
――次の春を迎えられるかどうかは、今の段階では何とも言えません。
あの日から、季節の数え方が変わってしまった。
春まで、あと何か月。
冬を越えられたら、あと何日。
そんなことばかり、頭のどこかで数えてしまう。
だから、進路希望調査票に未来を書くことができなかった。
私が欲しい未来は、紙の上に書くだけでは手に入らない。
それを知ってしまったから。
「……美月」
紗良の声がした。
私は、はっと顔を上げた。
「ごめん。ぼーっとしてた」
「うん。見ればわかる」
紗良は頬杖をついた。
「言いたくないことなら、無理に聞かないよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「でもさ」
紗良は続けた。
「夢があるなら、書くだけ書いてみたら?」
「……書くだけ?」
「そう。別に、今すぐ全部決めなきゃいけないわけじゃないんだし。先生だって、絶対その通りにしろなんて言わないでしょ」
「そう、かな」
「そうだよ。進路希望なんだから、希望を書くんでしょ?」
紗良は当たり前のように言った。
希望。
その言葉が、ひどく遠いものに聞こえた。
希望を持つことは、怖い。
期待することは、怖い。
それでも。
私は、もう一度、鉛筆を握った。
白い紙の上に、少しずつ文字を置いていく。
一文字。
もう一文字。
何度も迷って、何度も書き直して。
ようやく、第一希望の欄が埋まった。
書き終えた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
たった一行なのに。
たった一行を書くだけで、どうしてこんなに苦しいのだろう。
「……書けた?」
紗良が、そっと尋ねた。
私は紙を伏せた。
「うん」
「見せて?」
「やだ」
「えー、なんでよ」
「まだ、恥ずかしいから」
紗良は少し不満そうに唇を尖らせたあと、ふっと笑った。
「そっか。じゃあ、いつか教えてね」
「……うん」
いつか。
その言葉を、私は心の中で繰り返した。
いつか、話せるだろうか。
自分の夢を。
本当は何をしたいのか。
どんな未来を望んでいるのか。
そして、その未来に、誰がいてほしいのか。
私は、伏せた紙をそっとノートの間に挟んだ。
窓の外では、風に吹かれた葉が一枚、校庭へ落ちていった。
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昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
紗良が慌てて弁当箱を片づける。
「やばっ、次、古典じゃん。絶対眠くなるやつ!」
「紗良、昨日も同じこと言ってたよ」
「だって眠いものは眠いんです!」
「はいはい」
二人で笑いながら、机の上を片づけた。
進路希望調査票は、教科書の間にしまったままだった。
提出しなければいけない。
わかっている。
それでも、私はすぐに鞄へ入れることができなかった。
書いた文字を、もう一度だけ確かめる。
そこには、私がずっと望んできた未来があった。
まだ諦めたくないものがあった。
それから、ほんの少しだけ。
その未来に悠真がいるところを、想像した。
大人になっても、きっと悠真はあまり変わらない。
写真を撮って、好きな景色を見つけると立ち止まって。
私が隣で急かしても、納得するまでシャッターを切らない。
そんな悠真の横顔を、これからも見ていたい。
できることなら、何年先も。
十年先も。
その先も。
そう願うことさえ、今は少し怖かった。
「美月、行くよー!」
「あ、うん!」
紗良の声に、私は慌てて紙を鞄にしまった。
教室を出る直前、窓際の席を振り返る。
そこには、午後の光が差し込んでいた。
何も変わらない、いつもの教室。
明日もここに座って、授業を受けて、友達と笑って。
放課後になれば、悠真と一緒に帰る。
そんな毎日が、ずっと続くのだと思いたかった。
けれど、未来を想像するたび、胸の奥に小さな影が落ちる。
私はその影を見ないふりをして、教室の扉を閉めた。
夢は、ある。
どうしても叶えたい夢が。
ただ、それを口にするには、私はまだ、自分の未来を信じきれずにいた。




