第2話 幼馴染という距離
── 十月二十九日
美月と初めて会った日のことを、俺は覚えていない。
覚えていないというより、思い出せないのだ。
——母さんに聞けば、俺が五歳の春、隣の家に白瀬家が引っ越してきたのだという。
美月は俺より半年ほど早く生まれていて、最初に会ったときから妙にしっかりした子だったらしい。
当時の俺は人見知りが激しく、母さんの後ろに隠れて、なかなか挨拶もできなかったそうだ。
そんな俺に美月が何をしたのか。
母さんは、何度聞いても同じ話をする。
『美月ちゃんがね、悠真の手を引っ張って、公園に連れていったのよ』
それが、俺たちの始まりだった。
もっとも、本人にその話をすると、決まって反論される。
「違うよ。悠真が勝手についてきたんじゃん」
今朝もそうだった。
「お前、あの頃から人使い荒かったんだな」
「失礼だなあ。私は悠真を外の世界に連れ出してあげたんです」
「何だよ、それ」
「感謝してほしいくらい」
美月はそう言って、得意げに笑った。
朝の通学路。
住宅街の角を曲がり、緩やかな坂を下りて、いつもの横断歩道を渡る。
俺たちは小学校に入る前から、ずっとこの道を歩いてきた。
途中にある古い自動販売機も、塀の上で日向ぼっこをしている猫も、道端に咲く季節外れの花も、何年も前からそこにある。
変わったものも、もちろんある。
駄菓子屋はコンビニになったし、公園のブランコは一度新しくなった。
通学路沿いにあった空き地には、いつの間にか家が建っていた。
俺たちも、少しずつ変わった。
身長が伸びて、制服を着るようになって、子供の頃には考えもしなかった進路や将来の話をするようになった。
それでも、朝はこうして一緒に歩いている。
「ねえ、悠真」
「ん?」
「今日の数学、宿題やった?」
「やった」
「見せて」
「自分でやれよ」
「やったけど、答え合わせしたいの」
「じゃあ、答えだけ見ろよ」
「途中式も」
「それ答え合わせじゃなくて写すって言うんだよ」
「細かいなあ」
美月は口を尖らせた。
俺は呆れながらも、鞄からノートを取り出した。
こういうやり取りも、もう何年続けているかわからない。
美月は勉強ができないわけじゃない。むしろ、得意科目なら俺より成績がいいこともある。
ただ、数学の面倒な計算だけは昔から苦手だった。
小学生の頃、九九を間違えて泣きそうになっていた美月を思い出す。
あの頃は、俺が答えを教えると、彼女は決まって「悠真って頭いいね」と褒めてくれた。
その言葉が嬉しくて、俺は家に帰ってからも算数の問題を解いた。
今思えば、ずいぶん単純だった。
でも、好きな子に褒められたいという気持ちは、案外、昔から変わらないものなのかもしれない。
「……何笑ってんの?」
美月の声で我に返った。
「別に」
「絶対なんか考えてたでしょ」
「お前が昔、九九を間違えてたこと」
「ちょっと! それ、いつの話?」
「小二」
「忘れてよ、そんなの!」
「無理だろ。あんなに自信満々に間違えてたんだから」
「もう、最低!」
美月が俺の腕を軽く叩いた。
その手つきも、声の調子も、何ひとつ変わっていない。
俺はそれが、どうしようもなく好きだった。
変わらないことが、こんなにも嬉しい。
けれど、その気持ちに名前をつけてしまうと、今の関係まで変わってしまいそうで。
俺は今日も、何でもない顔をして隣を歩いた。
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教室に着くと、陸が自分の席でパンを食べていた。
「おはよー。相変わらず仲いいね、お二人さん」
「朝からうるさいな」
「おはよう、陸」
美月が笑顔で挨拶する。
陸は俺と同じ中学出身で、高校に入ってからも何かとつるんでいる友人だ。
お調子者で、余計なことによく気づく。
特に、俺が隠したいと思っていることに関しては、妙に勘が鋭かった。
「昨日も一緒に帰ったんだろ?」
「家が近いからな」
「昨日だけじゃなくて、毎日だろ」
「だから何だよ」
「いやあ、幼なじみって便利だなって」
陸はにやにやしながら俺を見る。
美月はその会話を聞いていないのか、自分の席で教科書を取り出していた。
俺は陸の頭を軽く小突いた。
「何が言いたいんだよ」
「別にー?」
「その顔やめろ」
「はいはい」
陸は肩をすくめ、残りのパンを口に押し込んだ。
こういうとき、陸は深追いしない。
けれど、放課後になると、その話を蒸し返してくる。絶対。
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昼休み。
俺は美月と一緒に、いつものように弁当を食べていた。
正確には、俺の席に美月が椅子を持ってきて、向かい合って食べている。
入学したばかりの頃、別々の友達と昼を食べようとしたこともあった。
けれど、三日も続かなかった。
美月が「悠真の弁当の卵焼き、おいしそう」と言って一つつまみ、俺が「お前の唐揚げと交換な」と言い返した。
それがきっかけで、結局、いつもの形に戻ってしまったのだ。
今では、周囲もそれを当たり前だと思っている。
「今日、卵焼き入ってる?」
美月が俺の弁当箱を覗き込む。
「入ってるけど」
「一個ちょうだい」
「自分の食えよ」
「私の卵焼き、甘くないんだもん」
「知らねえよ」
そう言いながら、俺は箸で卵焼きを一つつまみ、美月の弁当箱に置いた。
「やった。ありがとう」
「その代わり、唐揚げ一個」
「えー、私の好きなやつなのに」
「交換条件だろ」
「じゃあ、半分こ」
美月は唐揚げを箸で持ち上げ、器用に半分に割った。
小さいほうを俺の弁当箱に入れる。
「はい、悠真の分」
「……小さくない?」
「気のせい」
「絶対わざとだろ」
「悠真は細かい男だねえ」
美月は楽しそうに笑った。
俺は文句を言いながら、その唐揚げを口に運ぶ。
何度も繰り返してきた、くだらないやり取り。
他人から見れば、特別なことなんて何もないのだろう。
けれど、俺にとっては違った。
美月が笑っている。
向かい側に座っている。
明日も、たぶん同じように、くだらない話をして笑う。
そのことが、俺の日常の真ん中にあった。
「ねえ、悠真」
「今度は何だよ」
「来年、クラス離れたらどうする?」
箸が止まった。
「……どうするって、別にどうもしないだろ」
「そっか」
美月は弁当箱の中を見つめながら、ぽつりと言った。
「でも、ちょっと寂しいかも」
胸の奥が、不意に跳ねた。
「……何でだよ。クラスが違っても会えるだろ」
「うん。そうだけど」
美月は顔を上げて、いつもの調子で笑った。
「だって、悠真がいないと、卵焼き交換できないじゃん」
「理由それかよ」
「大事でしょ?」
「自分で作れ」
「悠真のお母さんの卵焼きがいいの!」
俺は思わず吹き出した。
美月も笑った。
さっきの言葉が、胸の奥に残っていた。
クラスが離れたら、寂しい。
その言葉が、俺と同じ意味だったらいいのにと思った。
けれど、そんな都合のいい期待を口にすることはできなかった。
俺たちは幼なじみだ。
ずっと一緒にいたから、今も一緒にいる。
それだけなのかもしれない。
美月にとっては、俺が特別なのではなく、ただ昔から隣にいる相手というだけなのかもしれなかった。
そう考えると、少しだけ苦しくなった。
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放課後、陸に呼び止められた。
「おい、悠真。ちょっといいか」
「何?」
「美月、先に帰ったぞ」
「……ああ。今日は委員会ないって言ってたからな」
「ふーん」
陸は俺の顔をじっと見た。
「お前さ」
「何だよ」
「美月のこと、好きだろ」
あまりにも唐突で、俺は返事ができなかった。
教室のざわめきが、妙に遠く聞こえた。
「……は?」
「いや、だから。白瀬美月。お前の幼なじみ」
「それは知ってる」
「好きだろ?」
「……何でそうなるんだよ」
「今、帰ったって聞いた瞬間、めっちゃ残念そうな顔したから」
「してねえよ」
「してたね」
「してない」
「あと、あいつが話してるとき、お前、ずっとあいつの顔見てる」
「……普通だろ。話してるんだから」
「俺が話してるときは、ノート見てるじゃん」
「それはお前の話がつまんないからだろ」
「ひどっ!」
陸は大げさに胸を押さえたあと、急に真面目な顔になった。
「まあ、別に隠さなくてもいいと思うけどな」
俺は視線を逸らした。
「……好きとか、そういうんじゃない」
「へえ」
「昔から一緒にいるから、気になるだけだ」
「ふーん」
陸は納得していない顔だった。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
俺は鞄を肩にかけ、教室を出た。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
好きなのか。
美月のことが。
改めて聞かれると、うまく答えられなかった。
もちろん、嫌いなわけがない。
誰よりも一緒にいたいと思うし、誰よりも笑っていてほしいと思う。
美月が他の男子と楽しそうに話していると、理由もなく落ち着かなくなる。
それでも、幼なじみだからだと言い聞かせてきた。
長い時間を共に過ごしてきたから、特別に感じるだけだと。
けれど、本当にそうなのだろうか。
もし美月が、明日から俺の隣にいなくなったら。
もし、別の誰かと手をつないで歩くようになったら。
もし、俺の知らない場所で、俺の知らない誰かに笑いかけるようになったら。
――そんな未来を想像しただけで、胸が痛くなった。
「……好き、なのかもな」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
言葉にしてみると、思っていたよりもずっと、しっくりきた。
ずっと前から、わかっていたのかもしれない。
ただ、認めてしまうのが怖かった。
幼なじみという関係は、あまりにも居心地がよかったから。
告白して、もし断られたら。
今までのように、隣を歩けなくなったら。
くだらないことで笑い合うことも、弁当のおかずを交換することも、できなくなったら。
俺には、それを受け入れる覚悟がなかった。
だから、何も言わない。
今まで通りの毎日を守るために。
そうやって、何度も自分に言い聞かせていた。
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家に帰ると、机の引き出しを開けた。
奥に、古い写真が入った封筒がある。
中学二年の夏。
病院の庭で撮った写真だった。
白いベンチに座る俺と、隣でピースをする美月。
写真の中の俺は、今よりずっと幼い顔をしていた。
あの夏、俺は入院していた。
大きな病気とか、怪我とかだったわけではない。
けれど、検査や治療が必要で、しばらく学校を休まなければならなかった。
慣れない病室。
消毒液の匂い。
窓から見える、知らない街の景色。
友達と会えない日々は、思っていた以上に退屈だった。
そんな俺のところに、美月は何度も来てくれた。
学校であったことを話してくれた。
宿題のプリントを届けてくれた。
売店で買ったゼリーを半分こして、看護師さんに見つからないように笑った。
ある日、俺が退屈だとこぼすと、美月は窓の外を指さした。
『退院したら、あそこの公園に行こうよ』
『あそこ?』
『うん。桜がいっぱい咲くんだって。春になったら、すごくきれいらしいよ』
そのときは、まだ夏だった。
桜なんて、ずっと先の話だった。
『なんで春なんだよ。退院したらすぐ行こうぜ』
『だって、今は夏だもん』
『じゃあ、夏は何もないのかよ』
『あるよ。夏祭り! 退院したら、一緒に行こうね』
美月は、指切りをした。
俺は、その約束が嬉しかった。
退院したあと、俺たちは夏祭りに行った。
金魚すくいをして、かき氷を食べて、帰り道に花火を見た。
それから、桜の公園にも行った。
翌年の春。
満開の桜の下で、美月は笑っていた。
『ほらね。きれいでしょ?』
『……まあ、そうだな』
『素直じゃないなあ』
俺は、そんな美月を写真に撮った。
その写真は、今も残っている。
あの夏、俺は初めて、当たり前だと思っていた毎日が、突然途切れることを知った。
学校に行くこと。
友達とくだらない話をすること。
家に帰って、ご飯を食べて、眠ること。
それまで何も考えずに繰り返していたことが、できなくなる日もあるのだと知った。
だから退院したとき、俺は決めた。
もう、当たり前の毎日を無駄にしたくないと。
会いたい人には、会えるうちに会おう。
行きたい場所には、行けるうちに行こう。
写真を撮ろうと思った景色は、忘れないうちに残しておこう。
そう思ったはずだった。
なのに。
美月に伝えたいことだけは、ずっと後回しにしている。
写真の中の美月は、今と同じように笑っていた。
俺はしばらく、その写真を見つめていた。
それから、そっと封筒に戻した。
——————————
夜、風呂から上がると、美月からメッセージが届いていた。
『今日、数学のノートありがとう!』
『別に』
『明日もよろしく!』
『自分でやれ』
『えー!』
いつものやり取り。
俺はスマートフォンを持ったまま、しばらく考えた。
陸に言われた言葉が、頭から離れなかった。
美月のことが好きだろ。
画面に表示された名前を見つめる。
たった一言、送ればいい。
明日、一緒に帰ろう。
——今度の休み、どこかに行こう。
——それだけでも、今までとは少し違う何かが始まるのかもしれない。
けれど、結局、俺が送ったのはいつも通りの言葉だった。
『また明日』
すぐに返事が来る。
『うん。また明日ね』
俺は小さく笑った。
それだけで、十分な気がした。
幼なじみという距離は、近い。
近すぎて、言えないことがある。
好きだという一言で、今までのすべてが変わってしまう気がする。
だから、俺は言わない。
もう少しだけ、このままでいたい。
美月の隣を歩いて、くだらない話をして、明日も同じように笑いたい。
それがいつまで続くのかなんて、考えもしなかった。
あの夏、病院の窓から見た景色を、俺は今でも覚えている。
限られた時間の中で、会いたい人に会えないことが、どれほど苦しいのかも知っている。
それなのに。
俺は、いちばん伝えたい相手に、何も伝えられずにいた。
いつか言えると思っていた。
いつか、幼なじみという距離を越えられると思っていた。
来年も、その先も、美月は隣にいてくれるのだと。
だから、今日も言わなかった。
明日があると、信じていたから。




