↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/4

第1話 秋の終わり、君の嘘

第一章 君が笑っていた秋


 俺の幼馴染、白瀬美月は、時々ひどく遠いところを見ている。


 窓の外でも、教科書の文字でもない。


 俺のすぐ隣に座っているくせに、まるでここではないどこかに、ひとりで立っているみたいな目をする。


 昔から、そうだっただろうか。


 いや、違う。


 少なくとも、去年までは。


 十月二十八日。午後四時十二分


 放課後の教室には、夕焼けが差し込んでいた。


 西向きの窓から伸びた光が、机の脚を長く引き延ばしている。


黒板には数学の授業で使われた数式が消し残され、教室の隅には、誰かが忘れていったプリントが一枚落ちていた。


 部活に向かう生徒たちの声も、もう遠い。


 残っているのは、窓際の席でぼんやりと外を眺めている美月だけだった。


「……何してんの」 


 声をかけても、返事がない。


 聞こえていないのかと思って、もう一度呼ぶ。


「美月」


「えっ?」


 ようやく、こっちを向いた。


 その顔を見た瞬間、俺は何となく言葉に詰まった。


「いや、帰るぞ」


「あ、うん。今行く」


 美月は慌てたように鞄を開き、机の上に出ていたノートをしまい始めた。


 その動作が、いつもより少し遅い。


 ノートを一冊入れる。


 教科書を二冊入れる。


 それだけのことなのに、何度も手を止めている。


「……お前、今日なんか変じゃね?」


「え?」


「さっきから、ぼーっとしてるし」


「そうかな」


「そうだろ」


 美月は困ったように笑った。


「ちょっと眠いだけ」


「授業中も寝てた?」


「寝てないよ」


「ほんとかよ」


「悠真じゃないんだから」


「おい」


 思わず突っ込むと、美月が笑った。


 いつもの笑い方だった。


 口元を少しだけ緩めて、目を細める。


 その顔を見ると、妙に安心する。


 理由は分からない


 ただ、こいつが笑っていると、何となく大丈夫な気がするのだ。


 小学生の頃から、ずっと。


 だから俺は、美月が笑っていれば、それ以上深く考えようとはしなかった。


 笑っているなら、元気なのだろう。


 いつも通りなら、何も問題はないのだろう。


 そうやって、都合よく決めつけていた。


 今思えば、それはひどく簡単な逃げ道だった。


 ——————————


 昇降口を出ると、風が吹いた。


「寒っ」


 思わず声が出る。


 制服のポケットに手を突っ込むと、指先が少し冷えていた。


「もう冬だね」


 隣で美月が言った。


「まだ十月だろ」


「でも、もうすぐ十一月だよ」


「十一月になったら冬なのかよ」


「私の中では冬」


「適当だな」


 美月は笑った。


 それから、空を見上げた。


 夕焼けに染まった雲が、ゆっくりと流れている。


「季節が変わるの、早いね」


 ぽつりと、そう言った。


 俺も空を見上げる。


 確かに、早い。


 ついこの前まで暑い暑いと言っていた気がするのに、今はもう、帰り道に上着が欲しくなる。


 来年になれば、俺たちは三年生だ。


 受験だの進路だの、面倒な話が増える。


「来年は三年かあ」


 美月が呟いた。


「受験とか、考えたくねえ」


「悠真、進路決めてるの?」


「まだ」


「将来の夢とかは?」


「……何だよ、急に」


「気になっただけ」


 美月は前を向いたまま、少し笑った。


「悠真って、昔からそういう話、あんまりしないから」


「お前だって、そんなに話さねえだろ」


「私は…」


 そこで、美月の言葉が途切れた。


「私は?」


「……秘密」


「何だそれ」


「秘密は秘密です」


 美月は人差し指を唇に当てた。


 昔から、こういうところがある。


 何かを隠すときほど、わざとらしく笑う。


 けれど、俺はそれ以上聞かなかった。


 聞けば答えてくれることもあっただろう。


 でも、聞かないことが優しさだと思っていた。


 今の美月が何を考えているのか。


 何を不安に思っているのか。


 今の美月が何を考えているのか。


 何を不安に思っているのか。


 そんなことを聞くより、いつも通りに話して、いつも通りに笑わせるほうがいい。


 そう信じていた。


「……あ、そうだ」


 俺は思い出したように口を開いた。


「来週、陸が映画行こうって」


「へえ。何の映画?」


「知らねえ。何か最近流行ってるやつ」


「悠真、そういうの興味ないもんね」


「別に嫌いじゃねえよ」


「じゃあ行くの?」


「まだ決めてない」


 美月は少しだけ考えるような顔をした。


「行ってきなよ。陸、楽しみにしてるんじゃない?」


「お前も来る?」


 口にしてから、少しだけ後悔した。


 別に、深い意味はない。


 ただ、いつものように誘っただけだ。


 そう自分に言い聞かせる。


「……私も?」


「嫌ならいいけど」


「嫌じゃないよ」


 美月は、思ったよりも早く答えた。


「行きたい」


「じゃあ、誘っとく」


「うん」


 その返事を聞いて、何となく嬉しくなった。


 映画そのものが楽しみなわけじゃない。


 陸と三人で遊ぶのだって、別に珍しいことじゃない。


 それでも、美月が来ると言っただけで、来週が少し楽しみになった。


 自分でも、よく分からない。


 ただ、こいつが隣にいることを、俺は思っていた以上に当たり前だと思っていたらしい。


 当たり前だから、わざわざ考えない。


 失うなんて、考えもしない。


 ——————————


 俺たちの家は、歩いて十分ほどの距離にある。


 途中には小さな商店街があって、古い踏切を渡れば、海へ続く道に出る。


 小学生の頃は、よくふたりで海まで走った。


 夏休みには自転車を並べて、帰りにアイスを買った。


 中学に入ってからも、部活が終わる時間が合えば一緒に帰った。


 高校生になった今でも、こうして帰り道が重なる。


 ただ、それだけのことだ。


 幼なじみ。


 周りからは、そう呼ばれている。


 俺も、美月も、その呼び方を否定したことはない。


 けれど最近、俺はときどき、その言葉に引っかかる。


 幼なじみだから、一緒に帰る。


 幼なじみだから、連絡をする。


 幼なじみだから、体調が悪そうなら心配する。


 じゃあ、もし美月が俺の幼なじみじゃなかったら。


 もし、別の誰かと同じように、ただのクラスメイトだったら。


 俺は、今と同じようにこいつのことを気にしていただろうか。


「……………」


「悠真?」


「……ん?」


「聞いてる?」


「聞いてる」


「じゃあ、何の話だったでしょう」


「……知らねえ」


「聞いてないじゃん」


 美月が呆れたように笑う。


「お前が勝手に話すからだろ」


「ひどい」


 そう言って、また笑った。


 そのときだった。


 ふと、笑顔が消えた。


 ほんの一瞬。


 美月の足が止まり、彼女は胸元に手を当てた。


「美月?」


 呼びかけると、すぐに顔を上げた。


「……何?」


「いや、どうした?」


「何が?」


「今、止まっただろ」


「ああ……ちょっと、靴が」


 美月は足元を見た。


 靴紐は、ほどけていなかった。


「……そっか」


 何となく、それ以上聞けなかった。


 美月は何事もなかったように歩き始めた。


 俺も隣を歩く。


 けれど、さっきの表情が頭から離れなかった。


 顔色が悪い。


 いつもより、呼吸が浅い気がする。


 そういえば、最近、階段を上るときにも少し遅れることがあった。


 気のせいだと思っていた。


 季節の変わり目だから。


 疲れているだけだから。


 そういうことにしていた。


「……なあ、美月」


「ん?」


「今日、具合悪い?」


 美月の肩が、ほんの少し揺れた。


 けれど、振り返ったときには、もういつもの顔に戻っていた。


「ううん。大丈夫」


「顔色、悪いけど」


「ちょっと寝不足なだけ」


「ちゃんと寝ろよ」


「寝てるよ」


「ほんとか?」


「ほんと」


 美月は笑った。


 俺は、少し迷ってから言った。


「……無理すんなよ」


 美月は何も答えなかった。


 ただ、ほんの少しだけ、困ったような顔をした。


 その表情の意味を、俺は知らなかった。


 ——————————


 家に帰ると、母親が夕食の支度をしていた。


「おかえり」


「ただいま」


「ご飯、もう少しでできるから」


「ん」


 自分の部屋に鞄を置き、制服の上着を脱ぐ。


 スマートフォンを机に置いたところで、ふと、美月の顔が浮かんだ。


 さっきの、あの表情。


 胸元に手を当てて、立ち止まった姿。


 俺はスマートフォンを手に取った。


 何かあったら連絡しろよ。


 そう送ろうとして、やめた。


 直接聞いたばかりだ。


 大丈夫だと言っていた。


 しつこく聞いたら、きっと嫌がる。


 そう考えて、画面を閉じた。


 代わりに、夕食を食べたあとでメッセージを送ることにした。


 別に、大した用事はない。


 ただ、いつものように話したかった。


 美月と話すのは、昔から習慣みたいなものだった。


 学校で会って、帰り道で話して、家に帰ってからも、ときどきメッセージを送る。


 くだらない話ばかりだ。


 今日の授業がつまらなかったとか。


 陸がまた変なことを言っていたとか。


 明日の小テストが面倒だとか。


 そんな話をしていると、一日がちゃんと終わった気がした。


 午後九時を少し過ぎた頃、俺は美月にメッセージを送った。


『ちゃんと飯食った?』


 送ってから、自分でも笑ってしまった。


 何だ、この母親みたいなメッセージは。


 もっとほかに聞くことがあるだろう。


 けれど、送信を取り消すのも変なので、そのままにしておいた。


 しばらくして、返事が来た。


『食べたよ。悠真は?』


『食った』


『嘘。絶対適当なものしか食べてないでしょ』


『なんで分かんだよ』


『幼なじみなので』


『便利な言葉だな、それ』


 美月から返事が来る。


 そのたびに、少しだけ口元が緩んだ。


 いつも通りだ。


 やっぱり、気にしすぎだったのかもしれない。


 そう思った。


 そのとき、ふと、今日の帰り道を思い出した。


 美月が空を見上げていたときのこと。


 季節が変わるのは早いね、と言ったときの声。


 どこか、寂しそうだった。


 何がそんなに寂しいのか、聞けばよかった。


 そう思ったけれど、今さらだった。


 俺はメッセージの入力欄に指を置いた。


『なあ、美月』


  ……違う。


 俺が打ちたいのは、そんな言葉じゃなかった。


 もっと別の。


 ずっと前から、胸の奥に引っかかっている言葉。


 口に出したら、何かが変わってしまいそうで。


 変わってほしいくせに、変わるのが怖くて。


 ずっと、言えずにいる言葉。


『美月。俺、お前のことが――』


 そこまで打って、指が止まった。


 何やってんだ、俺。


 自分で自分に呆れた。


 こんなの、送れるわけがない。


 もし、困らせたら。


 もし、今までみたいに話せなくなったら。


 もし、美月が俺のことを、ただの幼なじみとしか思っていなかったら。


 考えるだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。


 俺は、文字を一つずつ消した。


 最後には、何も残らなかった。


 ちょうどそのとき、美月からメッセージが届いた。


『ねえ、悠真』


『ん?』


 返事を送る。


 すぐには、次のメッセージが来なかった。


 一分


 二分


 画面を見つめている自分に気づいて、俺はスマートフォンを机に置いた。


 何を期待しているんだ。


 ただのメッセージだろ。


 そう思った直後、通知音が鳴った。


『なんでもない。おやすみ』


 ……何だよ、それ。


 思わず笑ってしまった。


 けれど、どこか拍子抜けしたような気持ちもあった。


 何を言おうとしていたのだろう。


 少しだけ、気になった。


 でも、聞かなかった。


『おやすみ。また明日』


 そう送って、スマートフォンを伏せた。


 また明日。


 何の疑いもなく、そう書いた。


 明日も学校がある。


 いつもの教室で美月に会う。


 くだらない話をして、一緒に帰る。


 そういう日々が、これからも続いていくのだと思っていた。


 明日が来ないかもしれないなんて、考えたこともなかった。


 俺はベッドに寝転がり、天井を見上げた。


 窓の外から、風の音が聞こえた。


 秋が終わろうとしている。


 そんなことを思いながら、目を閉じた。


 その夜、俺は知らなかった。


 美月が、たった四文字の「また明日」に泣いていたことを。


 俺の知らないところで、彼女がどれほど明日を恐れていたのかを。


 そして。


 あの頃の俺は、まだ何も知らなかった。


 俺自身もまた、彼女に伝えられなかった言葉を、いつか取り返しのつかないほど後悔することになるのだと。


 美月が、深いところで何を考えているのかを。


 ただひとつ、確かなことがあった。


 俺は、白瀬美月が好きだった。


 ずっと前から。


 たぶん、自分が思っているよりも、ずっと前から。ずっと深く。


 それなのに俺は、明日も会えるというだけで、気持ちを伝えることを先延ばしにした。


 明日が来ることを、当たり前だと思っていたから。


 その当たり前が、いつまでも続くと信じていたから。


 ――それが、俺の最初の間違いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。