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第4話 君の撮る世界

写真を撮るとき、俺はいつも少しだけ息を止める。


ファインダーを覗いて、何を残したいのかを考える。


光の向き。


風の強さ。


雲の流れ。


ほんの少し角度を変えるだけで、同じ景色が違って見える。


何でもない道も、見慣れた校舎も、夕暮れの空も、レンズを通すと、そこにしかない表情を見せてくれる。


だから、写真が好きだった。


自分の目で見たものを、自分の手で残せる。


いつか忘れてしまうかもしれない景色を、忘れないために。


――ただ、人を撮るのは苦手だった。


「悠真、また立ち止まってる」


背後から声がして、俺はカメラを構えたまま振り返った。


美月が、少し先で呆れた顔をしている。


「ちょっと待てって」


「さっきから三回目だよ。学校出てから、全然進んでないんだけど」


「今の光、いいんだよ」


「光?」


「そう。あそこの木の影。道路に伸びてるだろ」


俺が指さすと、美月は素直にそちらを見た。


秋の午後。


西に傾いた太陽が、住宅街の屋根を橙色に染めていた。


街路樹の影が歩道に長く伸び、風が吹くたび、葉の形がゆっくりと揺れている。


「……あ、本当だ」


美月が小さく呟いた。


「なんか、きれいだね」


「だろ?」


俺は満足して、もう一度カメラを構えた。


ファインダーの中に、木の影と夕日の光が収まる。


シャッターを切る。


小さな音がして、景色が一枚の写真になった。


「撮れた?」


「ああ」


「見せて」


美月が隣にやってきた。


画面を見せると、彼女は感心したように目を細めた。


「へえ……。同じ道なのに、なんか違う」


「どこが?」


「うまく言えないけど。いつも歩いてる道なのに、知らない場所みたい」


俺は画面を見直した。


自分では、そこまで意識していなかった。


ただ、きれいだと思ったものを撮っただけだ。


それでも、美月がそう言ってくれると、少し嬉しかった。


「まあ、俺の腕がいいからな」


「出た。すぐ調子に乗る」


「事実だろ」


「はいはい、カメラマンさん」


美月は笑いながら、俺の隣に並んだ。


その横顔を、何となく見てしまう。


夕日が彼女の髪を照らしていた。


黒い髪の先が、ほんの少し茶色く透けている。


風に揺れた前髪を、美月が指先で耳にかけた。


――きれいだと思った。


いつもの制服姿なのに。


毎日のように見ている顔なのに。


どうして今さら、そんなことを思うのだろう。


「……何?」


「え?」


「さっきから、こっち見てる」


「見てねえよ」


「見てたじゃん」


「気のせいだろ」


「ふうん?」


美月が、いたずらっぽく目を細めた。


俺は慌ててカメラを持ち直す。


「ほら、帰るぞ。暗くなる」


「待ってよ。まだ写真撮るんでしょ?」


「もういい」


「えー、せっかく付き合ってあげてるのに」


「誰も頼んでねえよ」


「ひどい!」


美月の笑い声が、夕方の道に響いた。


俺はその声を聞きながら、カメラを鞄にしまった。


今、もしシャッターを切っていたら。


あの横顔を、残せただろうか。


そう考えてしまった自分に気づいて、俺は小さく息を吐いた。


——————————


「ねえ、悠真」


しばらく歩いたところで、美月が言った。


「何だよ」


「私も撮ってよ」


思わず足を止めた。


「……は?」


「写真。悠真が撮ってるとこ見てたら、私も撮ってほしくなっちゃった」


美月は何でもないことのように笑っていた。


「ほら、さっきの景色みたいに。私も、悠真の写真に入れてよ」


冗談めかした言い方だった。


きっと、深い意味なんてない。


俺が写真を撮るのが好きだと知っているから。


いつも一緒にいる幼なじみだから。


その程度の気持ちで言ったのだろう。


なのに、俺は返事ができなかった。


「……何? 嫌なの?」


「いや、そういうわけじゃ……」


「じゃあ、いいじゃん」


「……」


「悠真?」


美月が不思議そうに首を傾げる。


俺はカメラの入った鞄に手をかけた。


撮ればいい。


たった一枚、写真を撮るだけだ。


これまで何度も、そうしてきたじゃないか。


それなのに、指先が動かなかった。


「……今度な」


結局、口から出たのはそんな言葉だった。


美月は一瞬、きょとんとした。


それから、ふっと笑う。


「何それ。もしかして、私って撮るの難しい?」


「そういうんじゃねえよ」


「じゃあ、撮ってくれるんだ?」


「……気が向いたらな」


「絶対だよ?」


美月は嬉しそうに笑った。


「約束ね」


そう言って、小指を差し出す。


俺はその指を見つめた。


昼休みにも、同じことをした。


昔から、俺たちは何かを約束するとき、こうして指を絡めてきた。


けれど今回は、すぐに応じることができなかった。


写真を撮る。


美月を、写真に残す。


そんなことが、どうしてこんなに怖いのだろう。


「……悠真?」


「ああ。わかったよ」


俺は小指を絡めた。


美月は満足そうに頷く。


「よし。じゃあ、いつか最高の一枚を撮ってね」


「注文多いな」


「だって、悠真の写真だもん」


何気なく口にされた言葉だった。


けれど、その一言が胸に残った。


美月は、俺の写真を信じている。


俺が何を見て、何を残そうとしているのか。


それを、いつも誰よりも面白がってくれる。


だからこそ、撮れなかった。


もし、俺が美月を撮ったら。


その写真を、何度も見返してしまう気がした。


笑っている顔も。


何かを考えている横顔も。


風に髪を揺らす姿も。


何でもない瞬間を、全部残しておきたくなる気がした。


そんな自分を、美月に知られたくなかった。


俺が彼女を、ただの幼なじみとして見ていないことを。


——————————


人を撮るのが苦手になったのは、中学二年の夏だった。


あの頃の俺は、今よりずっと無遠慮にシャッターを切っていた。


友達の変な顔も、体育祭の練習で転んだクラスメイトも、家でくつろぐ父さんも、何でも撮った。


写真を撮られることを嫌がる人がいるなんて、深く考えたこともなかった。


美月も、よく撮っていた。


公園で遊んでいるところ。


宿題をしているところ。


アイスを食べて、口の周りを汚しているところ。


カメラを向けると、彼女は決まって文句を言った。


『ちょっと、勝手に撮らないでよ!』


『いいじゃん。記念だよ、記念』


『何の記念なの!』


そんなやり取りをして、結局、美月は笑っていた。


俺も笑っていた。


写真を撮ることが、楽しかった。


その夏、俺は入院した。


詳しいことを話すほどの病気ではなかったが、検査や治療のために、しばらく病院で過ごすことになった。


退屈な病室で、俺は何度も窓の外を撮った。


空。


病院の庭。


夕方になると、建物の隙間から見える街の明かり。


けれど、何枚撮っても、満足できなかった。


そのとき、ふと思った。


美月がいればいいのに、と。


あいつが来てくれたら、きっと退屈じゃなくなる。


いつものように笑って、どうでもいい話をしてくれたら。


そんなことを考えていた。


数日後、美月が見舞いに来た。


学校の鞄を持ったまま、病室の扉から顔を覗かせた。


『悠真、元気?』


『見ればわかるだろ』


『えー、元気そうに見えないけど』


『うるせえな』


美月は笑いながら、ベッドの横に座った。


俺たちは学校の話をした。


陸が授業中に居眠りして先生に怒られたこと。


美月が提出物を忘れて、慌てて職員室に走ったこと。


どれも、病院にいる俺には羨ましい話だった。


そのうち、美月が窓の外を見て言った。


『退院したら、また写真撮りに行こうね』


『……ああ』


『今度は、私も撮ってよ』


俺は笑った。


『お前、いつも変な顔するじゃん』


『しないよ!』


『この前、目つぶってただろ』


『それは悠真が撮るの下手だから!』


美月は頬を膨らませた。


俺はカメラを手に取った。


『じゃあ、今撮ってやるよ』


『え、ここで?』


『嫌ならいいけど』


『……いいよ』


美月は少しだけ髪を整えて、ベッドの横で笑った。


俺はファインダーを覗いた。


いつもと同じ、美月の顔。


けれど、シャッターを切ろうとした瞬間、彼女の笑顔がふっと消えた。


『……やっぱり、今はいいや』


『何だよ、急に』


『だって、病院だし。なんか、変な顔になりそう』


美月はそう言って笑った。


俺はカメラを下ろした。


『じゃあ、退院したらな』


『うん。約束』


それで終わるはずだった。


その数日後、俺は病室で、同じ病棟にいた年上の男の子と知り合った。


彼は俺より長く入院していて、病院のことを何でも知っていた。


窓から見える景色も、看護師さんの名前も、どの時間に食堂が混むのかも。


ある日、俺が写真を撮っていると、彼は笑って言った。


『写真って、いいよな』


『……そう?』


『うん。あとから見返せるだろ。楽しかったときのこととか、忘れたくないこととか』


俺は頷いた。


彼は少しだけ窓の外を見た。


『でもさ、写真に残すと、もう戻れないんだなって思うときもあるよ』


その言葉の意味を、当時の俺はよくわからなかった。


ただ、彼がひどく寂しそうな顔をしていたことだけは覚えている。


数日後、彼は別の病棟へ移った。


俺は、最後まで彼の写真を撮らなかった。


撮っておけばよかったのかもしれない。


けれど、当時の俺には、カメラを向けることができなかった。


写真に残したら、彼がここにいた時間まで、終わってしまうような気がしたから。


それから俺は、少しだけ人を撮ることを避けるようになった。


景色ならいい。


空なら、花なら、夕焼けなら。


どれだけきれいに撮っても、それを残したことで誰かを傷つけることはない。


けれど、人は違う。


笑っている顔を撮っても、その人がずっと笑っているとは限らない。


同じ場所にいた人が、いつまでも隣にいてくれるとは限らない。


そんな当たり前のことが、怖くなった。


写真は、時間を止められない。


ただ、過ぎてしまった時間の形を残すだけだ。


だから俺は、景色ばかりを撮るようになった。


そのほうが、気楽だった。


ファインダーの向こうに、誰かの未来を考えなくて済むから。


——————————


「悠真?」


美月の声に、俺は我に返った。


気がつけば、家の近くまで来ていた。


「……何だよ」


「さっきから、ぼーっとしてる」


「考え事」


「珍しいね。いつも何も考えてなさそうなのに」


「お前、俺のこと何だと思ってんの?」


「写真のことしか考えてない人」


「ひどいな」


俺は苦笑した。


美月は少しだけ歩く速度を落とした。


「……ねえ、悠真」


「ん?」


「写真ってさ」


彼女は、夕暮れの空を見上げた。


「撮ったときのこと、ずっと覚えていられるの?」


俺は、すぐには答えられなかった。


美月は続けた。


「写真を見たら、そのとき何を考えてたかとか、どんな気持ちだったかとか。そういうのも、思い出せる?」


「……全部じゃないけどな」


「そっか」


「でも、撮った場所とか、そのときの空気とかは、意外と覚えてるもんだよ」


美月は小さく頷いた。


「いいなあ」


「何が?」


「そういうのを残せるの」


彼女の横顔は、いつも通りだった。


特別な意味なんてないのかもしれない。


ただ、写真が好きだと言った俺に、何となく尋ねただけなのかもしれない。


それでも、俺は少し考えてから答えた。


「……全部は残せないけどな」


「うん」


「そのときの気持ちまで、写真に写るわけじゃないし」


「……そうだね」


美月は、ほんの少しだけ笑った。


「でも、何もないよりは、いいよね」


俺は彼女を見た。


美月は前を向いていた。


その言葉の先に、何があるのか。


聞こうと思えば、聞けたはずだった。


けれど、俺は聞かなかった。


代わりに、鞄からカメラを取り出した。


「……美月」


「なに?」


「こっち向いて」


美月が驚いたように振り返る。


「えっ、撮ってくれるの?」


「……一枚だけな」


「本当!?」


ぱっと顔が明るくなった。


その笑顔を見た瞬間、俺は後悔した。


こんな顔をされたら、撮らないわけにはいかない。


「ちょっと待って。髪、変じゃない?」


「知らねえよ」


「もう! ちゃんと撮ってよ?」


「わかったから、早くしろ」


美月は道端で立ち止まり、少しだけ背筋を伸ばした。


いつもより、ぎこちない笑顔。


俺はファインダーを覗いた。


その中に、美月がいた。


見慣れた制服。


風に揺れる髪。


少し緊張したような目。


そして、俺が知っている、いつもの笑顔。


シャッターに指をかける。


撮っていいのだろうか。


この瞬間を残してしまっていいのだろうか。


そんな考えが、頭をよぎった。


けれど。


「悠真、まだー?」


「……今、撮る」


俺は息を止めた。


そして、シャッターを切った。


小さな音がした。


画面の中に、美月の笑顔が残った。


「見せて!」


美月が駆け寄ってくる。


俺は画面を見せた。


彼女は、しばらく黙って写真を眺めていた。


「……わあ」


「何だよ」


「私、こんな顔してるんだ」


「どんな顔だよ」


「なんか、変な感じ」


美月は照れたように笑った。


「でも、好きかも。この写真」


その一言に、胸の奥が熱くなった。


自分が撮った写真を、好きだと言ってくれた。


それだけのことなのに。


俺は、うまく返事ができなかった。


「……そうかよ」


「うん。ありがとう、悠真」


美月は、もう一度写真を見た。


「ねえ、この写真、私にも送って?」


「ああ。あとでな」


「絶対だよ」


「わかってるって」


美月は満足そうに頷いた。


それから、何かを思い出したように顔を上げた。


「じゃあ、また明日ね」


「おう。また明日」


美月は自分の家へと歩いていった。


俺は、その後ろ姿を見送った。


カメラの画面には、さっき撮った写真が表示されている。


俺は、しばらくそれを見つめていた。


景色を撮るときには、こんな気持ちにならなかった。


ただ、きれいだと思ってシャッターを切る。


それで終わりだった。


でも、美月の写真は違った。


もっと、ちゃんと撮ればよかった。


もう少し明るい場所で。


もう少しきれいな背景で。


彼女らしい笑顔を、もっと自然に残せるように。


そんなことを、次々に考えてしまう。


そして、気づいた。


俺は、この写真を失いたくないと思っている。


いつか見返したとき、今日のことを思い出したい。


美月が笑っていたこと。


俺の写真を好きだと言ってくれたこと。


帰り道の夕日が、きれいだったこと。


そのすべてを、忘れたくないと思っている。


それが何を意味するのか。


もう、わかっていた。


俺は、美月が好きだ。


幼なじみだからじゃない。


長い時間を一緒に過ごしてきたからだけでもない。


これからも、隣にいてほしい。


何年先も、何十年先も。


そんな未来を、彼女と一緒に見たいと思っているからだ。


俺は写真を保存し、カメラを鞄にしまった。


夕日は、もう半分ほど沈んでいた。


明日も、明後日も、きっと同じような日が続く。


そう思っていた。


けれど、この日の写真を、俺はずっと消せずにいることになる。


何年経っても。


どれだけ時間が過ぎても。


あの日、美月が笑っていたことだけは、忘れたくなかったから。


そして、いつか俺は知ることになる。


写真に残したものが、必ずしも永遠に手元にあるとは限らないことを。


それでも、人は写真を撮るのだ。


失いたくないものが、そこにあるから。

 

次の投稿は、は美月についてです

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