第98話 リゼの経済改革『価値の創造』
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資源が溢れかえり戸惑う村人たち。
「必要な分を分け合う」平和なユートピアに、商人リゼが強烈な「劇薬」を注射します!
最下層のバウワ村長の島。広場には、かつてないほどの活気と、そして「戸惑い」が渦巻いていた。
「天空のバケツリレー」が安定稼働を始め、最上層のプラントで純白の『塩』が安定して作られるようになると、それは空の船『風切』によって下層の村々へも定期的に運ばれてくるようになった。
さらに、海面の第一ステーションからは、カイルの考案した投網と神鋼のシンカーを使った漁によって、毎日見上げるほどの大量の「海の魚」が届けられている。
かつては枯渇していく資源を前に、ただ静かに衰退を受け入れるしかなかったこの国に、外界からの途方もない『余剰資源』が雪崩れ込んできたのだ。
「……ふむ。本日の魚の割り当てであるが、いつも通り各家庭に二匹ずつとするが良いか……」
バウワ村長が、広場に積み上げられた魚と塩の山を前にして、帳面を見ながら困惑した声を出した。
これまでのアエテリアでは、「あるものを等しく、必要な分だけ分かち合う」のが絶対の掟だった。だが、目の前にあるのは「必要な分」をはるかに超える豊かな物資だ。
「村長、ちょっと待ってくれよ」
広場の隅から、腕を組んだセトが不満げに声を上げた。
彼の周りには、海面ステーションの危険な環境で投網を引き、重労働をこなしてきた若い船大工たちや、中層から手伝いに来ている若者たちが集まっている。彼らの顔は潮風と汗でドロドロだった。
「俺たちは嵐の吹く海面ギリギリのステーションまで降りて、波に攫われそうになりながら必死にこの網を引いてきたんだ。安全な村で網の修繕をしてただけの連中と、取り分がまったく同じってのは……その、なんだ。文句を言いてぇわけじゃねぇ。だが、少し張り合いがねぇって言ってんだ……」
セトは言葉を濁したが、その背後にいる若者たちの目は「もっとたくさん食べたい」「俺たちの方がキツい仕事をしたのに」という率直な感情を雄弁に物語っていた。
「……お前の気持ちはわかるぞ、若き船大工よ」
そこへ、白亜の神殿から視察に来ていた首席調律師のカシムが、白髭を撫でながら静かに歩み出た。
「だが、我々は長年『欲を持たないこと』でこの美しき鳥籠の調和を保ってきた。誰かが多くを得ようとすれば、必ず争いが生まれる。それは我らの過去の歴史が証明しているのだ。過酷な労働は、国全体のための『尊い自己犠牲』として——」
カシムがアエテリアの伝統的な美徳を説こうとした、その時だった。
「はいはい、ストーップ! そこまでよ!」
パンッ! と甲高い柏手が広場に響いた。
声の主は、アルバトロス号の甲板から軽やかに飛び降りたリゼだった。
彼女は腰に手を当て、呆れたような、しかしどこか楽しげな笑みを浮かべて村人たちの中心へと歩み寄っていく。その後ろから、僕とカイル、シェリルも面白そうについていく。
「お前、また何か悪巧みか?」
僕がニヤリと笑って小声で聞くと、リゼは「失礼ね」と肩をすくめた。
「悪巧みじゃないわ。停滞したお堅いユートピアに、極上の『特効薬』を注射してあげるだけよ」
リゼは広場の中央に置かれた魚の山が入った木箱にドンッと足を乗せ、集まったアエテリアの人々をぐるりと見渡した。
「カシム殿。あなたの言う『自己犠牲』は確かに美しいわ。でもね、人間は霞を食って生きてるわけじゃないの。汗水垂らして、命懸けで海まで降りて働いた連中が、安全な場所で座っていただけの人間と同じ報酬しか貰えない。……そんなの、長続きするわけがないわ」
「し、しかしだな、外の世界の商人よ。欲を肯定すれば、国は——」
「欲を捨てた結果が、あわや緩やかな飢え死にという絶望だったんじゃないの?」
リゼの鋭い指摘に、カシムもバウワ村長も痛いところを突かれたように口を噤んだ。
「いい? みんな聞いて!」
リゼはよく通る声で広場全体に向かって叫んだ。
「私は商人よ。いろんな国を見てきたわ。国を豊かにし、人々に活力を与えるのは『自己犠牲』なんかじゃない。もっと美味しいものが食べたい、もっといい暮らしがしたいという、前向きで強烈な『欲』なのよ!」
リゼの力強い言葉に、セトや若い労働者たちの顔がハッと上がる。
「でも、私が言っているのは、誰かから何かを『奪う』ことじゃない。私が教えたいのは、働いた者がその努力に見合った対価を正当に受け取る……『等価交換』のルールよ!」
リゼは懐から、見慣れない小さな木札をジャラジャラと取り出して見せた。
それは、彼女が事前に村の女たちに頼んで、アエテリア特有の硬い木の実の殻を綺麗に削り出し、アルバトロス号の『鳥のマーク』の焼印を押させた特製の札だった。
「これを見て。今日からこの札を『引換券』とするわ。例えば、安全な村で網の修繕をした人には、この札を一枚渡す。でも、危険な海面まで降りて大波の中で魚を獲ってきたセトたちには、五枚渡す!」
「なっ……!?」
カシムが目を丸くする。
「そして、この札一枚で魚を一匹、あるいは塩を一袋と交換できる。つまり、たくさん働いたセトたちは、五匹の魚を貰ってもいいし、魚を二匹にして残りを塩三袋にしてもいい。全部自分の『自由』に選べるってわけ!」
「自由……!」
「俺の頑張りが、この札の数になるのか……?」
若者たちの間に、ざわめきが広がった。
「それだけじゃないわ」
リゼの目は、獲物を狙う肉食獣のようにキラキラと輝いていた。
「この札は、魚や塩だけじゃなく、他の誰かが作った物とも交換できるのよ。例えば、美味しい果物を育てている農家がいたとする。セトは魚を余分に貰う代わりに、この札を使ってその農家から果物を『買う』ことができる。農家はその札を使って、私たちがプラントで作った極上の塩を手に入れられる。……わかる? これが『価値の創造』であり、『経済』の始まりよ!」
広場は水を打ったように静まり返った。
何百年もの間、「分配されるものを黙って受け取る」しか知らなかった彼らの脳裏に、凄まじい衝撃が走っていた。
自分の労働が可視化され、それが自由な選択肢に変わる。
「……カイル、あれって要するに『お金』だよな?」
僕が小声で聞くと、カイルは眼鏡を指で押し上げ、満足げに頷いた。
「ああ。だが、ただの貨幣ではない。労働のモチベーションを最大限に引き出すための、最も原始的で強力な資本主義のシステムだ。リゼのやつ、この閉鎖空間でゼロから市場経済を立ち上げる気だぞ。……見事な商才だ」
「……おいおい、リゼの嬢ちゃんよ。そいつは誠の話か?」
沈黙を破ったのは、近衛兵長のガランだった。彼は最上層での過酷なプラント建設を手伝った後、そのまま下層での木材運搬にも首を突っ込んでいる労働の鬼だ。
「つまり……俺がもっと重い丸太をたくさん運べば、その『札』とやらをたくさん貰えて、極上の塩をまぶした美味い魚の脂身を、誰にも遠慮せずに腹一杯食っても良い……ってことか?」
「その通りよ、ガラン兵長! 働けば働くほど、あなたは豊かになる。誰かに気兼ねする必要なんて一切ないわ!」
リゼが力強く頷くと、ガランの瞳に、かつてないほどの強烈な炎が宿った。
「うおおおおっ!! なんだその素晴らしい仕組みは!! 俺はやるぞ! 明日は今日の倍の丸太を運んでみせる!!」
ガランが両拳を天に突き上げて咆哮すると、セトも負けじと声を張り上げた。
「俺だって負けねぇぞ! 投網の回数を増やして、一番多く札を稼いでやる! 腹一杯肉を食って、最高の船を造ってやるんだ!!」
「おおおおおおっ!!!」
広場の若者たちから、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
彼らの目に宿っているのは、飢えを凌ぐための悲壮感でも、運命を呪う諦観でもない。
自分の力で、自分の明日の生活をより良くしていくという、純粋で強烈な「生きる活力」だった。
「……信じられん」
カシムが、その凄まじい熱狂を前にして、震える声で呟いた。
「かつて、これほどまでに民が目を輝かせ、自ら進んで困難な労働に身を投じようとしたことがあっただろうか。……欲とは、罪ではなかったのか」
「罪なもんかよ」
僕はカシムの肩をポンと叩いた。
「もっと高い空を飛びたい。もっと速く走りたい。もっと美味いもんを食いたい。俺たちが新しい機械を作るのも、全部その『欲』が始まりだ。……安心しなよ、カシムさん。こいつらは奪い合ってるんじゃない。自分たちの手で未来を『稼ごう』としてるんだ」
カシムは僕の言葉にハッとし、やがて、深く、深く頷いた。
「……そうだな。我々の古き調和は、死に向かうための静寂だった。外の世界の商人よ、お見事だ。我々は今、お前たちから真の『生きる力』を教わった」
「ソナタたちの言う通り、我らも自ら動く時が来たのだな……」
バウワ村長も目に涙を浮かべながら、リゼに向かって深く頭を下げた。
「ふふっ、わかればいいのよ」
リゼは得意げに笑い、手にした木札の束を空高く放り投げた。
「さあ、そうと決まったら、今日の労働の精算よ! たくさん働いた者から前に出なさい! そして明日は、この村の広場で初めての『市場』を開くわよ!! お互いの自慢の品を持ち寄って、この札で自由に取引するの!!」
「うおおおおおっ!!!」
村人たちの熱狂は最高潮に達し、彼らはリゼの前に我先にと列を作り始めた。
静かで、ただ緩やかに死を待つだけだった美しきユートピアに、外界の下町のような泥臭くも力強い「資本主義の活力」が、完璧に根付いた瞬間だった。
「……すげぇな。あっという間に村人たちの目の色を変えちまった」
僕が感心して見ていると、木札を配り終えたリゼが、満足げな顔で僕の隣に戻ってきた。
「どう? 私の経済改革。これでこの国は、本当の意味で回り始めるわ」
「ああ。最高の仕事だ、リゼ」
僕は素直に称賛した。
僕とカイルが造った「天空のバケツリレー」という巨大な機械の心臓。
そこに、リゼが「経済」という強烈な血流を流し込んだのだ。
「明日が楽しみね。この国の人たちが、初めて自分の意志で『価値』を交換するんだから」
シェリルがアストロラーベを抱きしめながら、ワクワクしたように笑う。
「ああ。きっと、世界で一番熱い市場になるぜ」
僕は油まみれの手で鼻の頭を擦り、夕日に染まる活気あふれる村の広場を見つめた。
このアエテリアという国は今、間違いなく、彼ら自身の手によって新しい未来図を描き始めていた。
最後まで読んでいただき、感謝です!
停滞したユートピアに「資本主義(等価交換)」をぶち込むリゼ、さすがの一言です!
分配を待つだけだった人々が、自分の労働が自由な価値に変わる喜びを知り、目の色を変えるシーンは痛快でした。
「もっと美味いもんを食いたい。俺たちが新しい機械を作るのも、全部その『欲』が始まりだ」
レオのこのセリフが、この作品のテーマを物語っていますね。
次回、アエテリア史上初の「市場」が開幕します! 明日も夜に更新します!




