第99話 初めての市場 『バザール』
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アエテリア史上初の「市場」が開幕!
自分の価値を主張し、交渉する楽しさに目覚めた人々の狂騒を、あの王様も視察に訪れます。
夜明け前の最下層、バウワ村長の島。太陽が雲海の底に隠れる薄暗い中、広場にはすでに心地よい槌の音が響き渡っていた。
木の香りと潮の匂いが入り混じる空気。かつて「永遠の春」の静寂に包まれていた村は、今や外界の港町のような騒々しい活気に満ちている。
「そこの柱、もっとしっかり固定して! セト、あんたの屋台が一番目立つんだから綺麗にね!」
木箱の上に立ち、真新しい革の外套を羽織って指揮を執るのはリゼだ。
「おうよ! 任せとけ! 俺たち船大工にかかれば、こんな屋台ぐれぇ朝飯前だ!」
セトが力強く木槌を振り下ろす。彼の周囲には、海面ステーションで投網を引いてきた若い男たちが集まり、これから始まる未知の祭りへの期待で顔を輝かせていた。
「なぁ、カイル。本当にこの閉鎖空間で『市場』を機能させられるのか?」
僕はコーヒーを啜りながら尋ねた。カイルは手帳に計算式を書き込みつつ、ニヤリと笑う。
「機能するさ。昨日配った『木札』は、すでに彼らの脳に価値の保存と交換という概念を植え付けた。あとはその札で欲求を満たす快感を一度でも味わわせれば、資本主義の歯車は止まらなくなる」
眩しい朝陽が広場を黄金色に染め上げると、下層の村人、中層の若者、上層の学者や近衛兵たちが大勢集まってきた。皆、昨日の労働で稼いだ「木札」を大切に握りしめている。
「さあさあ! アエテリア史上最大の市場の開幕よ!」
リゼの声が朝の空気を震わせた。
「ここでは遠慮も自己犠牲も不要! 欲しいものを自分の稼ぎで手に入れるの! さあ、お互いの価値をぶつけ合いなさい!」
市場が産声を上げたが、何百年も「分配を待つ」だけだった彼らは戸惑い、品物を遠巻きに見つめていた。しかし、その静寂をこの男が打ち破った。
「おおおおおっ! 脂の乗った極上の白身魚だぁぁぁッ!!」
泥だらけの制服を着たガランが突進し、セトの屋台に両手を叩きつけた。
「命懸けで引き揚げてきた最高の一品だぞ! 木札二枚でどうだ!」
「おう! 一番でかいのをもらうぞ! 昨日丸太を運んで稼いだ札だ! 釣りはいらねぇ、三枚受け取れ!」
ガランが木札を豪快に叩きつけると、セトは特大の魚と純白の塩の小袋を渡した。
「まいどあり、ガラン兵長! あんたに相応しい特大サイズだぜ!」
ガランは魚を焚き火の網に放り投げ、焼き上がった魚に塩をかけて熱さも気にせずかじりついた。
「美味ぁぁぁぁぁいッ!!」
脂だらけの口で歓喜の咆哮を上げる。
「自分の腕力で勝ち取った魚! 誰に遠慮することなく腹一杯食らう命の味! これこそが生きる力だ!!」
その爆発するような喜びは、人々の「欲」という導火線に火を点けた。
「俺も昨日稼いだ札がある! 魚をくれ!」
「私だって果物を売って、塩を買うわ!」
堰を切ったように人々が殺到し、広場のあちこちで活発な取引が始まった。
「塩で土壌が元気になり、甘くなった果物です! 木札一枚でいかがですか!」
「こっちは中層の技術を入れた新しい織物だ! 果物三つと木札一枚で交換してくれないか?」
「果物二つにまけてちょうだいよ!」
「この織り目の細かさは俺にしか出せねぇ。三つで妥当だろ?」
等しく分け与えられるのを待つだけだった人々が、自ら稼いだ木札を使い、楽しげに値切り交渉を行っている。自らの価値を主張し、相手の価値を認めて着地点を探る、互いを豊かにする「建設的な対話」が生まれていた。
「ねえ、商売のコツを一つ教えてあげるわ」
交渉を見ていたリゼが声をかけた。
「ただ『果物です』って売るんじゃなく、『付加価値』をつけるの。『純白の塩とにがりを含んだ真水で育てた、王宮にも献上できる極上の甘果です!』って言えば、木札二枚でも飛ぶように売れるわよ」
「なるほど、言葉一つで価値が上がるのね!」
女性は目を輝かせ、さっそく教え通りに声を張り上げ始めた。
「ふふっ。ほらね、私の言った通りでしょう?」
リゼは満足げに僕とカイルにウインクをした。
「これが『経済』よ。欲張りで騒がしくて、でもとびきり前向きなエネルギー。この静かなユートピアに一番足りなかった極上のカンフル剤よ」
「恐れ入ったよ。これならこの国は自力で回り続ける」
僕は感嘆の息を漏らした。
丘の上からその狂騒を見つめるルシアンとカシムの姿があった。
ローブを脱ぎ捨てたルシアンは、泥の跡が残るシャツ姿で呟いた。
「信じられんな。彼らが自ら声を上げ、こんなにも笑っているとは。欲を持たないことが平和だと信じていたが、生きる喜びを押し殺していただけだったのだな」
「ああ。我々の古き調和は完全に過去のものとなった」
カシムも眩しそうに目を細めた。
「かつての私なら、この有様を浅ましいと忌み嫌っていただろう。だが不思議と嫌な気はしない。我らは今、本当の意味で生き返ったのだ」
カシムは懐から帳面とペンを取り出した。
「ルシアン殿。我々もただ見下ろしているわけにはいきませんぞ。我ら調律師の計算能力は市場の帳簿管理に役立つはず。それに、あの魚の味……私も稼いだ木札で味わってみたくなったのでな」
「ふっ……ははは! カシム殿まですっかり外の毒気に当てられましたな」
ルシアンは笑い声を上げた。
「誇り高き神殿の者が、下層の活気に後れを取るわけにはいかない。行きましょう。我々の頭脳労働の対価をしっかりと請求してやろうではありませんか」
二人は少年のように目を輝かせ、市場の中心へと足を踏み入れた。
昼下がり、広場の入り口が騒がしくなった。
「アルディス王陛下がお見えになったぞ!」
群衆が道を開ける中、杖をついたアルディス王がゆっくりと進み出た。弱々しい歩みだが、その瞳には力強い光が宿っている。
「このような埃っぽい場所へ自ら足を運ばれるとは」と恐縮するバウワ村長を、王は穏やかに制した。
「構わん。我々の国が真の息吹を取り戻した瞬間を、この目で確かめたかったのだ」
王は活気にあふれる広場を見渡した。そこには争いではなく、前を向いて生きる「生命の輝き」が溢れていた。
王は僕たちの方へ向き直り、深く頭を下げた。
「外の世界の、泥臭くも逞しき旅人たちよ……。ソナタたちの『進む力』と『知恵』が、この美しき鳥籠を打ち砕き、我々を真の未来へと導いてくれたのだな。アエテリアの王として、心より感謝する」
「頭を上げてください、陛下。この熱気を作り出したのは、あんたたちの国の連中自身の力ですよ」
僕は照れくさそうに頭を掻いた。
「そうだ。俺たちはもう滅びを待つだけの弱者じゃねぇ!」
セトが力強く胸を叩いた。
「エレベーターもプラントも市場も、全部俺たちの手で回していく! 外の世界に負けねぇくらい、熱い国に作り上げてみせるぜ!」
「頼もしい言葉だ」
王は微笑み、民に向かって声を張り上げた。
「民よ! もう無駄な見栄を張るのはやめにしよう。過去の掟に縛られ死を待つ時代は終わった! 我らの新たな始まりを祝し、思う存分、生命の喜びを分かち合うが良い!」
「「「うおおおおおおおおっ!!!」」」
大歓声が空高く舞い上がった。ガランが丸太を持ち上げ、セトが若者たちと歌い出す。ルシアンとカシムも満面の笑みで手拍子を打っていた。
夕暮れ時。西の空が茜色に染まり、市場の狂騒が落ち着きを見せ始めた頃、広場には明日への確かな希望が満ちていた。
「大成功だな、リゼ嬢ちゃん」
甲板に座り込む僕が声をかけると、リゼは不敵な笑みを浮かべ、一枚の木札を夕日にかざして空に弾いた。
「ええ。これで私という商人の完全勝利よ」
「天空のバケツリレー」が血を送り出し、「市場」という経済がその血を隅々にまで巡らせる。だが、仕事はまだ一つ残っていた。
「さあ、明日は総仕上げよ」
カイルが手帳を閉じ、眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせた。
「プラントの『にがり』を大地に還元し、自然を完全に蘇らせる。最も繊細で巨大な工事になるぞ」
「ああ、最高の散水ノズルを打ってやるよ」
僕たちは赤く染まる空を見上げ、次なる設計図に思いを馳せた。美しき滅びの国を救う最後のピースが、明日嵌め込まれようとしていた。
お読みいただき、ありがとうございます!
活気あふれる広場。静かに死を待つだけだった国が、本当の意味で「生き返った」瞬間でしたね。神殿のルシアンやカシムまで商売の楽しさに目覚めてしまうとは(笑)。
「天空のバケツリレー」が血を送り出し、「経済」が血を巡らせる。
あとは、大地の再生を残すのみです。
明日、いよいよアエテリア救済計画の総仕上げです! 絶対にお見逃しなく!




