第71話 無音の接近者
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本日から【第4部 天水都『アエテリア』と野良犬の交易】が開幕します。
嵐の壁を越え、奇跡の多島海へと着水したアルバトロス号。
しかし、安堵したのも束の間、彼らの前に「未知の文明」が静かに姿を現します。
静寂が、これほどまでに耳に響くものだとは知らなかった。
アルバトロス号の巨大な木とキャンバス製のフロートが、エメラルドグリーンの湖面を滑り、やがて完全に停止した。
チャプ、チャプという穏やかな波が、機体の腹を優しく叩く音だけが聞こえる。これまで、鼓膜を突き破らんばかりに唸り続けていたトラクターのエンジン音も、骨の髄まで揺らした暴力的な振動も、今は嘘のように消え去っていた。
「……信じられない。本当に、抜けちゃったのね」
操縦席の後ろで、リゼが震える声で呟いた。彼女は両手で顔を覆い、指の隙間から、窓の外に広がる信じがたい絶景を食い入るように見つめている。
見上げれば、雲ひとつない抜けるような青空。その空のあちこちに、大小さまざまな島が「当たり前のように」浮かんでいる。島々の縁からは、森が蓄えた澄んだ水が天然の滝となって下層へと降り注ぎ、空中に無数の虹の橋を架けていた。
伝説の都市王国。天水都。
カッシーニの仮説と星図だけを頼りに、狂気じみた磁気嵐の壁をぶち抜いて、僕たちはついにここまで辿り着いたのだ。
「カッシーニは正しかった……いや、それ以上の光景だ。どんな計算式を用いても、この美しさは表しきれない」
カイルは泥だらけの計算尺をギュッと握り締め、もう一方の手で曇った眼鏡を何度も拭い直している。普段の冷徹な理論家の面影はなく、新しいおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせていた。
「レオ……私たち、本当に来たのね」
助手席のシェリルが、涙で濡れた瞳で僕を見た。彼女の手には、故郷の時計塔の屋根裏部屋で見つけた、あの古びた星図が大切に抱きしめられている。
「ああ。シェリルの星読みのおかげだ。……最高の道案内だったよ」
僕は、血と泥と油で真っ黒になった手を伸ばし、シェリルの頭をポンポンと叩いた。彼女は少しだけ頬を染め、嬉しそうに頷いた。
それから僕は、目の前で完全に沈黙しているメインコンソールに視線を落とした。
熱でひしゃげた計器板。ガラスが割れた油圧計。そして、その奥でチン、カン、と金属が冷えて収縮する音を立てている、黒焦げのキメラ・ドライブ。
あり合わせの部品と農耕用トラクターで組み上げられたエンジンは、設計上の限界を遥かに超える酷使に耐え抜き、この奇跡の湖の真ん中で、ついに完全に息絶えていた。
「よくやったな、相棒。最高の走りだったぜ」
僕はまだ熱を持っているエンジンのカバーを、素手でそっと撫でた。ジュッ、と指先が少し焼ける匂いがしたが、痛みよりも愛着が勝った。
嵐を越えた歓喜と安堵の余韻に浸ること数分。
ふと、リゼの腹の虫が「ぐきゅるるる」と、静寂の湖畔に似つかわしくない大きな音を立てた。
「……ちょっと、笑わないでよ。嵐の中で死にかけてたんだから、お腹くらい空くわよ」
顔を真っ赤にして抗議するリゼを見て、僕たちは思わず吹き出した。
だが、そのリゼの腹の音が、僕たちを「現実」へと引き戻した。
「笑い事じゃないわよ。燃料は完全にゼロ。食料も残り少ないし、真水も底をつきかけてるのよ。それに……」
リゼは窓の外の遠くを指差した。
エメラルドグリーンの湖は広大で、最も近い岸辺——鬱蒼とした緑の森が見える場所——まで、目測で数キロは離れている。
「……エンジンが完全にイカれちゃったってことは、私たち、この湖の真ん中で立ち往生ってことじゃないの?」
その指摘に、カイルもハッとして顔を上げた。
「確かに。アルバトロス号の推進力はエンジンのみだ。それが沈黙した以上、今の僕たちはただの『巨大で不格好な浮き輪』に過ぎない」
「浮遊石の出力は?」と僕が聞くと、カイルは首を振った。
「アイドリング状態だ。機体を水面に浮かべておくのが精一杯で、横方向への推力は生み出せない」
僕は腕を組み、船内のボロボロの機材を見回した。
「直そうにも、予備のシリンダーもガスケットもない。完全に焼き付いてるから、ここで修理するのは不可能だ」
「じゃあ、どうするのよ!? まさか泳ぐ気!?」
リゼがパニックになりかけるのを手で制し、僕は工具箱から巨大なバールとスパナを取り出した。
「泳ぐわけないだろ。動力がないなら、人力で動かすまでだ」
僕は操縦席を立ち、機体の後部へと向かった。
「おい、レオ! 何をする気だ!」
「決まってんだろ。オールを作るんだよ」
僕はバールの先端を、嵐の雷撃でひしゃげて半分剥がれかかっていた内壁のジュラルミン製装甲板の隙間にねじ込んだ。
「せぇぇぇぇいっ!!」
渾身の力を込めてバールを引き倒す。ギギギギィィィッ! という耳障りな金属の破断音が響き、分厚い装甲板がひしゃげながら剥がれ落ちた。
「馬鹿っ! 船体を壊してどうするのよ!」
「どうせこの部分は装甲としての意味を成してない。こいつを折れた配管パイプの先にボルトで固定すりゃ、立派なオールになる。カイル、反対側の装甲を剥がすのを手伝え! リゼは俺が固定するボルトとナットを探してくれ!」
僕がガンガンと装甲板をハンマーで叩き、強引に形を整え始めていると、カイルは呆れたようにため息をついた。
「……君のその泥臭い解決策には、毎度頭が下がるよ。だが、計算上、この重量の船を人力で漕いで岸まで辿り着くには、三日はかかるぞ」
「三日かけても、飢え死にするよりマシだろ! ほら、手を動かせ!」
静かだった湖畔に、再びカンカン、ガチャンという、油と鉄にまみれた野蛮な騒音が響き渡り始めた。美しい自然の箱庭において、僕たちの存在はあまりにも異質だった。
そんな中、ずっと窓の外の空気を読んでいたシェリルが、不意に振り返った。
彼女の表情から、先ほどまでの安堵が消え、ピンと張り詰めた観測者の顔に戻っていた。
「ねえ、レオ……作業、ちょっと止めて」
「ん? どうしたシェリル。ボルトが足りないか?」
「違うの。……風上から、何かが来るわ」
その言葉に、僕の手はピタリと止まった。カイルもリゼも、一瞬にして緊張の面持ちになる。
僕たちは慌てて操縦席の窓に群がり、シェリルが指差す方向——風上である湖の南側を凝視した。
最初は、ただの緑の塊に見えた。
湖の対岸の森の一部が、そのまま水面を滑り出してきたかのような錯覚。
だが、近づいてくるにつれて、そのシルエットが明確になった。
「……なんだ、ありゃ」
僕は思わずスパナを取り落としそうになった。
それは、船だった。
だが、僕が知っているどんな船とも違っていた。鉄の装甲も、煙突も、リベットの継ぎ目すら存在しない。
流線型の美しい船体は、巨大な木材と、特殊な繊維を編み込んだ蔓のようなもので構成されている。そして上部には、緑色の巨大な葉——おそらく植物を特殊加工したもの——を帆のように張り出していた。
驚くべきは、その「速度」と「動き」だった。
「カイル……おい、今の風向きはどうなってる?」
「完全に南風だ。向かい風……つまり、僕たちから見て風上からやってきている」
「帆船が逆風に向かって真っ直ぐ進むなんてありえるのか!?」
「ジグザグに進んで風を捕まえる『タッキング』の技術なら、理論上は逆風でも進める。……だが、あれは違う! 完全に風の抵抗を無視して、一直線に滑るように進んできている!」
カイルの声が裏返っていた。物理法則を完璧に理解している彼だからこそ、目の前の光景が信じられないのだ。
だが、整備士である僕にとって、最大の衝撃は別のところにあった。
「……音が、ない」
僕の呟きに、全員が息を呑んだ。
そう、あれほどの速度で水を切り裂いて進んできているのに、エンジンの唸りはおろか、スクリューが水を掻き回す音すら一切聞こえないのだ。ただ、帆が風を孕む微かな摩擦音と、船首が水を分ける静かな波音だけ。
完全に自然と調和した、究極の静寂。
僕たちのアルバトロス号は、どれだけ整備しても、動かせば必ず油臭い黒煙を吹き上げ、鉄が軋み、耳を塞ぎたくなるような爆音を響かせる。重力に逆らい、自然の理を強引にねじ伏せるための「暴力」が、僕たちの技術だった。
だが、目の前に迫り来るあの船は違う。
まるで、空と水が「自ら進んで道を開けている」かのように、何の抵抗もなく滑ってくる。
「……まるで、生きてるみたいだ」
僕は、無意識のうちに窓枠を強く握りしめていた。
それは恐怖ではなかった。未知の技術、全く異なる理で動く機械——いや、あれを機械と呼んでいいのかすらわからない——を目の当たりにした、職人としての強烈な戸惑いと、得体の知れない畏怖だった。
「警戒して! 来るわ!」
リゼが足元に転がっていた太いスパナを拾い上げ、身構えた。
無音の船は、アルバトロス号から数十メートル手前でふわりと動きを緩めたかと思うと、水面を滑るように優雅な弧を描き、僕たちのボロボロの鉄の船の真横に、ピタリと、文字通り音もなく停止した。
すぐ間近で見るその船体は、金属を一切使っていないにも関わらず、恐ろしいほどの強度と精密な計算で組み上げられているのがわかった。木組みの接合部には、接着剤すら使われておらず、木材そのものの弾力と繊維で完璧に噛み合わされている。
僕が懸命に鉄を打ち据えて作った急造のオールが、ひどく惨めで、野蛮な石器のように思えた。
静まり返った湖の上で、爆音と黒煙の象徴である僕たちの「鉄屑」と、完全なる調和を体現する「木と蔓の船」が並んだ。
そして、その美しい緑の船の甲板に、数人の人影が音もなく姿を現した。
天欠島で出会ったバルカ長老の装束に似ているが、より精緻で、洗練された衣服を纏っている。彼らの手には、武器のようなものは見当たらない。だが、その瞳には、僕たちという「異物」に対する強い警戒の色が浮かんでいた。
油と泥にまみれた僕たち四人は、息を潜め、ガラス越しに、この未知なる世界の住人たちと初めて視線を交わした。
第4部も読みに来てくださり、本当にありがとうございます!
爆音と黒煙を上げる「鉄屑」と、風の力だけで無音で進む「緑の船」。
全く異なる理で動く技術が、静かな湖面で対峙しました。
果たして彼らは敵か、味方か?
次回、未知の住人たちと初めての「接触」を果たします。
明日も夜にお待ちしています!




