第68話 音が消えた空
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光の亀裂へ飛び込んだアルバトロス号。
彼らを待ち受けていたのは、想像を絶する「音のない世界」でした。
眩い光の亀裂へ飛び込んだ瞬間、世界は純白に塗り潰された。
――ドシャァァァァァンッ!!
機体をバラバラに砕こうとするような、嵐の壁の最後にして最大の衝撃波がアルバトロス号を襲う。
僕は固く目を閉じ、ちぎれそうな腕で操縦桿を死に物狂いで抱え込んだ。四人の悲鳴も、気嚢が裂けるような軋み音も、すべてが圧倒的な光と轟音の奔流に飲み込まれていく。
(耐えろ……っ! 頼む、もってくれ!!)
ジュラルミンの装甲がひしゃげる不快な音が鼓膜を叩く。
内臓がねじ切れるような強烈な重力が身体を押し潰し、意識が遠のきかけた。
だが。
――フワリ。
唐突に。
本当に、何の前触れもなく。
僕たちを全方位から叩き潰そうとしていた大自然の暴力が、嘘のようにスッと消え去った。
「……え?」
激しい揺れがピタリと止み、身体をシートに押し付けていたGがフワッと軽くなる。
僕は恐る恐る、固く閉じていた目を開いた。
「…………っ」
フロントガラスの向こうに広がっていたのは、突き抜けるような、どこまでも澄み切った青空だった。
真っ暗な地獄のような積乱雲も、網の目のように走っていた紫色の稲妻もない。
ただ、暖かく、柔らかい太陽の光だけが、ボロボロになったアルバトロス号の操縦席に真っ直ぐに降り注いでいる。
「うそ……」
助手席でシェリルが、呆然と呟いた。
僕はハッとして、慌ててスロットルレバーを限界まで引き戻した。
レッドゾーンを超えて回り続けていたトラクターエンジンが、ドスッ、ドスッ、という重苦しい音を立てて回転数を落とし、やがて通常のアイドリング状態のくぐもった鼓動へと落ち着く。
気嚢からのマイナス質量の噴射も収まり、船は緩やかな滑空姿勢に入った。
その瞬間、僕たちはある「異変」に気がついた。
――キィィィン……。
耳の奥で、ひどい耳鳴りが鳴っている。
それまで鼓膜を内側から破りそうだった暴風の咆哮。雷鳴の地響き。雨粒が装甲板を機関銃のように叩く音。
それらの圧倒的な大自然のノイズが、完全に消え去っていたのだ。
聞こえるのは、出力を落とした僕たちのエンジンの音と、アイドリングに合わせてカタカタと震える計器の微かな金属音だけ。
あまりの落差に、三半規管が狂い、自分が本当に空を飛んでいるのかどうかすらわからなくなる。
「なに、これ……」
後部座席で身体を起こしたリゼが、震える手で操縦席の窓のラッチを外した。
カチャッ、という小さな音が、やけに大きく響く。
リゼが窓を少しだけ開けると、そこから「外の空気」が船内へと流れ込んできた。
「あ……」
その空気を吸い込んだ瞬間、僕は思わず目を見開いた。
外海の絶望の海で嗅ぎ続けてきた、肺が凍るような冷気ではない。嵐の壁の内部で充満していた、鼻を突くオゾンや鉄錆の匂いでもない。
それは、濃密な「緑と水」の匂いだった。
雨上がりの深い森の息吹。太陽の光をたっぷり吸い込んだ土の匂い。そして、どこまでも清らかで甘い、湧き水の匂い。
微かなそよ風が、開いた窓から入ってきて僕の頬を撫でた。
その風に乗って、遠くから『サラサラ……』という、心地よい水音が聞こえてくる。まるで、巨大な滝がどこかで流れ落ちているかのような、穏やかで静かな自然の調べだ。
「計器が……安定してる」
カイルが、信じられないものを見るような目で、メインコンソールを見下ろしていた。
「気圧異常、なし。磁気嵐によるコンパスの乱れ、完全に消失。……風速、ほぼゼロに近い微風。信じられない……あんな嵐の壁のすぐ外側に、大気の揺らぎ一つない、こんなに完璧に調和した空間が存在するなんて」
カイルの言葉に、僕たちはゆっくりと後ろを振り返った。
船尾の窓の向こう。
僕たちが今しがた抜けてきた場所には、天と地を繋ぐ、巨大な漆黒の『嵐の壁』が、まるで世界の終わりを告げるようにそびえ立っていた。
だが、こちら側から見るその壁は、外海で見た時のような恐ろしい牙を剥いてはいなかった。僕たちの知る過酷な世界と、この穏やかな世界とを完全に隔絶し、切り離すための「巨大な前線防壁」として機能しているのがはっきりとわかる。
「抜けた……」
僕の口から、ポロリと声がこぼれ落ちた。
「俺たち、本当に……あの嵐を突き破ったんだ」
その言葉が引き金になったかのように、隣でシェリルがポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「……っ、うわぁぁぁんっ!」
彼女はアストロラーベを抱きしめたまま、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
何日も徹夜で星を読み続け、極限の渇きと幻覚に耐え、嵐の壁の恐怖の中でたった一人、絶対の真実を示し続けた十七歳の少女。その小さな肩にのしかかっていた途方もない重圧が、この緑と水の匂いに包まれて、ついに完全に解き放たれたのだ。
「シェリル……っ、よくやったわ、本当に……っ」
リゼも後ろから身を乗り出し、シェリルの肩を抱きしめて泣き崩れた。
水も食料も尽き、絶え間なく死の恐怖と向き合い続けてきた彼女もまた、マネージャーとしての気丈な殻を脱ぎ捨ててボロボロと涙を流している。
「……ああ。僕たちの計算は、間違っていなかった……」
カイルは眼鏡を外し、目元を腕で乱暴に拭いながら、大きく、震える息を吐き出していた。常に論理で世界を測り、理論の限界に絶望しかけていた彼にとっても、この奇跡の生還は言葉にできないほどの安堵をもたらしていた。
僕は操縦桿から手を離し、血と油と泥で真っ黒になった自分の両手を見つめた。
手が、ガタガタと震えていた。
左腕の自傷の傷がズキズキと痛み、全身の骨が軋む。
全員の命を背負い、限界を超えて鉄屑のエンジンを回し続けた極限の恐怖。それが今、凄まじい安堵と、やり遂げたという爆発的な歓喜に変わって、腹の底から熱く込み上げてこようとしていた。叫び出したい衝動が喉まで迫る。
だが、僕は奥歯を強く噛み締め、その震えを無理やり飲み込んだ。
リーダーである僕がここで泣き崩れてしまえば、本当に全員の緊張の糸が切れて、そのまま意識を手放してしまいそうだったからだ。
「……着いたぜ」
僕は震える息を長く吐き出し、込み上げる感情を押し殺してシートに深く背中を預けた。
どこまでも澄み切った青空を見上げながら、誰にともなく呟く。
「ここはもう、俺たちの知ってる世界じゃない」
窓から流れ込んでくる甘い水の匂いと、遠くで響く滝の音。
静かで、穏やかで、恐ろしいほどに完璧に調和した大気。
僕たちはついに、外の世界から完全に隔絶された、神の箱庭のような奇跡の生態系
――『天水都』の空へと、その不格好な鉄の舳先を踏み入れたのだった。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
嵐の轟音が消え去り、緑と水の匂いが流れ込んでくる瞬間の安堵感。
緊張の糸が切れて泣きじゃくるシェリルたちの姿に、作者自身も胸がいっぱいになりました。
絶望の海と嵐の壁を、彼らはついに乗り越えたのです! 次回は、ついにその全貌が明らかになります。明日もお待ちしています。




