第121話 星と手
今日も読んでくださり、ありがとうございます。
出航前夜。静まり返ったメインポートで、レオとシェリル、カイルとリゼ。
それぞれの関係性が「次の段階」へと進む、とても大切な夜のエピソードです。
アイアンポートの上層、特権階級と選ばれた正規船だけが停泊を許される白亜のメインポートは、深夜になると嘘のように静まり返る。
昼間の熱狂と怒号のような歓声が引いた後、冷たく澄んだ夜の空気が、広大な石畳とアルバトロス号の銀色の船体を優しく包み込んでいた。
僕は、誰もいない操縦席に一人で座り、セトが削り上げてくれた『浮根杉の操舵輪』の滑らかな木目を、油の染み付いた親指でゆっくりとなぞっていた。
耳を澄ますと、遥か下層の方から、絶え間なく続く工場群の低い駆動音や、蒸気を逃がす排気音が微かに聞こえてくる。鉄と石炭の匂いが混じったその風は、僕たちがこの街の「重力」から完全に解き放たれ、今は一番高い場所にいるのだということを実感させた。
「……起きてたの、レオ」
不意に、背後のキャビンのドアが静かに開き、香ばしいコーヒーの匂いが冷たい夜気に混じった。
振り返ると、シェリルが大きなマグカップを二つ持って、タラップを登ってくるところだった。彼女は、アエテリアで新調した防寒用の厚手のマントを羽織っている。
「おう。なんか、目が冴えちまってな。……明日はついに、あそこに帰るんだって思ったらさ」
「ふふっ。遠足の前の日の子供みたい」
シェリルはクスクスと笑いながら僕の隣の助手席に座り、湯気の立つマグカップを一つ渡してくれた。
受け取ると、アイアンポートでリゼが買い込んだ最高級の豆で淹れたコーヒーの、強烈で深い香りが鼻腔をくすぐった。
「サンキュー。……美味えな。あの『無風地帯』で死にかけてた時に飲んだ泥水に比べたら、天国の飲み物だぜ」
「本当ね。あの時は、もう二度と空なんか飛びたくないって、本気で思ったのに」
シェリルはマグカップを両手で包み込みながら、コンソールの上に置かれた真鍮の『アストロラーベ』に視線を落とした。
琥珀色のレンズが、月明かりを反射して静かに輝いている。
「ねえ、レオ」
「ん?」
「私ね、レオが無理やり私の手を引いて、あのポンコツ船に乗せてくれた時のこと、今でもはっきり覚えてるの」
シェリルは夜空を見上げ、その無数の星の輝きに目を細めた。
「私はずっと、分厚い本と望遠鏡のレンズ越しにしか、世界を知らなかった。カッシーニの星図に描かれた『空の逃げ水』……伝説の場所があるって頭では分かっていても、怖くて、自分から外に出る勇気なんてなかった」
彼女は、マグカップを持つ手に少しだけ力を込めた。
「でも、レオは違った。『やってみなきゃ分からないだろ』って笑って、私の見た机上の空論みたいな夢を、全部、本当に、本物にしてくれた」
シェリルは僕の方を向き、その大きな瞳で僕を真っ直ぐに見つめた。
「あの『白い山脈』の猛吹雪の中でも、『絶望の海』の真っ暗闇の中でも。……レオが操縦桿を握ってくれていると思えば、私はちっとも怖くなかった。レオの手が、私の世界を果てしなく広げてくれたの。……ありがとう、レオ」
その真っ直ぐすぎる言葉に、僕は思わず鼻の頭を擦り、照れ隠しのように夜空へ視線を逸らした。
僕の手は、相変わらず油と鉄錆の匂いが染み付いていて、決して綺麗な手じゃない。
「……何言ってんだよ。逆だろ」
僕は、操舵輪から手を離し、コーヒーを一口啜った。
「俺は、親父の遺した工具と、ハンマーの振り方しか知らなかった。設計図も書けねえ、ただの無謀なバカなガキだ。お前の『目』がなきゃ、あの迷いの峡谷で岩に激突して終わってたし、嵐の壁の『風のトンネル』だって見つけられなかった」
僕は、コンソールのアストロラーベの横に置かれた、アエテリアの『外界の海図』をトントンと指先で叩いた。
「空はデカくて、理不尽で、俺の腕力だけじゃどうにもならない怪物だった。……お前が俺に『道』を教えてくれたんだ。お前の目がなきゃ、俺は一生地面を這いずり回ったままだったんだよ」
僕がそう言うと、シェリルは少しだけ目を見張り、やがて花が咲くように柔らかく微笑んだ。
「……そっか。私たち、お互いに足りないものを補い合ってたんだね」
「ああ。最高で、最強の共犯者だろ?」
僕がニッと笑うと、シェリルも「うんっ」と力強く頷いた。
言葉にしなくても分かる。僕の「手」と、彼女の「目」。どちらか一つでも欠けていたら、絶対にこの空の果てには辿り着けなかった。僕たちの魂は、この長く過酷な航海を通して、決して解けない強固な結びつきを得ていたのだ。
その頃。
アルバトロス号の後方、静かなメインポートのテラス席の陰で、その様子をそっと眺めている二つの影があった。
リゼとカイルだ。
「……やれやれ。いい雰囲気じゃないの。私が割って入る隙なんて、これっぽっちもなさそうね」
リゼは、冷めた紅茶の入ったティーカップを揺らしながら、少しだけ寂しそうに、けれどどこかホッとしたような笑みを浮かべて呟いた。
「君は、レオの『保護者』を気取っていたからね。彼が危険な空で死なないように、常に燃料や資金という現実の鎖で彼を地上に繋ぎ止めようとしていた」
カイルは手帳に何かの数式を書き込みながら、丸眼鏡を押し上げて冷静に分析した。
「だが、あの船が空の果てに到達した今、彼はもう、無鉄砲に飛び出して怪我をするだけの子供ではなくなった。……君の管理下から、巣立ったというわけだ」
「分かってるわよ、そんなこと。……世話の焼ける弟は、もう私がいなくても、自分の力でどこへでも飛んでいけるみたいね」
リゼは小さく息を吐き出し、夜風に金色の髪をなびかせた。
その横顔には、幼馴染を遠くへ見送る一抹の寂しさと、彼らが成し遂げた偉業に対する確かな誇りが混じり合っていた。
「……だが、世界を回すためには、君のその『えげつない管理能力』が必要不可欠だ」
不意に、カイルが手帳をパタンと閉じ、真っ直ぐにリゼの方を向いた。
「え?」
「君の交渉力と資源をコントロールする力は、単なる『お守り』の域を遥かに超えている。アエテリアの王を口八丁で丸め込み、このアイアンポートのギルド幹部たちを手玉に取ったその手腕……。僕は、君のその冷徹で合理的な『商人の才能』を高く評価しているんだ」
カイルは少しだけ早口になりながら、丸眼鏡の奥の瞳を熱く輝かせた。
「バルド長官と共に、ギルドの次世代船に『共鳴型エンジン』を標準搭載する計画は順調だ。だが、技術だけでは空の時代は完成しない。新しい航路の開拓、物資の流通網の整備、そして何より……ギルドという古い体制を内側から作り変えるための莫大な『資金』と『政治力』が必要だ」
「ちょっとカイル、あんたまさか……」
「僕の頭脳と新しい理論には、それを現実の社会に実装するための、強力なスポンサー兼マネージャーが必要なんだ」
カイルは、普段の臆病な彼からは想像もつかないほど真剣な表情で、リゼに向かって右手を差し出した。
「僕の、新しい研究と……これからの僕自身の未来に、投資してくれないか、リゼ」
リゼは、差し出された手とカイルの顔を交互に見つめ、目をパチクリとさせた。
今まで「頭でっかちの臆病者」だと思っていた彼が、自分の能力を誰よりも正確に評価し、そして堂々とビジネス (と、それ以上の何か) のパートナーとして自分を求めてきている。
「……ふふっ」
やがてリゼは、商売人が極上の獲物を見つけた時のような、不敵で、最高に魅力的な笑みを浮かべた。
「言うようになったじゃない、学者先生。私の管理は厳しいわよ? 予算の無駄遣いは一セントたりとも許さないし、結果が出なけりゃすぐに首を切るわ」
「望むところだ。僕の理論に、一ミリの無駄もないことを証明して見せよう」
パチンッ。
リゼがカイルの差し出した手を力強く弾くように握り、二人は夜のテラスで、新しい時代の始まりを告げる確かな「契約」を交わした。
夜が明け、アイアンポートの岩峰の真上に眩しい太陽が昇りきった頃。
普段は静粛と格式を重んじるはずの白亜のメインポートは、これまでにない凄まじい熱気と喧騒に包まれていた。
「レオ! エンジンの慣らし運転はサボるなよ! それと、後ろの護衛艦隊を引き離すような無茶な飛び方はするなよ!」
油まみれの作業着姿のバルド技術長官が、腹の底から響く大声で怒鳴る。
「護衛ではない、バルド長官。彼らが拓いた航路を一番に確認し、その故郷への帰還を見届けるための『歴史の証人』だ」
隣のプラットフォームで、純白のシルフィード号に乗り込んだガレイン特務大尉が、キャノピー越しに不敵に笑っている。彼に続くように、白亜に塗装されたギルドの特務艦隊が次々とエンジンを始動させていた。
彼らだけではない。新しい技術に目を輝かせる大勢のギルド整備士たち、莫大な富の匂いに群がる特級商会の商人たち。
アイアンポート中の人々が押し寄せ、この歴史的な出航を見送ろうとしていた。
もはや、逃げるように飛び出したあの日の「無許可のならず者」の姿はない。僕たちは、空の歴史を何百年分も進めた「英雄」として、この街の全ての人々から見送られようとしていた。
「本当に、とんでもないことになっちゃったわね」
助手席に座ったシェリルが、舞い散る色とりどりの紙吹雪を見ながら目を丸くする。
「当然よ。私たちがこの空の相場と常識を完全に支配したんだから、これくらいの歓待は受けて然るべきだわ」
後部座席でリゼが優雅に扇子を広げ、群衆に向かって鷹揚に手を振る。
「やれやれ。これだけ注目されると、僕の緻密な計算にプレッシャーがかかるというものだ」
カイルはそう言いながらも、誇らしげに丸眼鏡を押し上げ、コンソールのスイッチを次々と入れていく。
ドッドッドッドッ……!
キメラ・ドライブが力強い重低音を響かせ、音叉の澄み切った和音が船体を微かに震わせる。特級浮遊石が、真昼の太陽にも負けないほどの眩い蒼光を放ち始めた。
「おう、エリートさん! 嵐の壁を抜けた無敵艦のスピードに、精々振り落とされないようについてきな!」
僕は操縦席の窓から身を乗り出し、親父の形見であるゴーグルを額に上げてガレインに向かって叫んだ。
「シェリル、故郷への風の道は!」
「完璧よ! アイアンポートを南に抜けて、真っ直ぐ一直線!」
僕は、浮根杉の操舵輪をガシッと力強く握りしめた。
「よし! 野良犬特急便、特務艦隊を引き連れての凱旋フライトだ! ……帰るぞ、俺たちの街へ!!」
「「「おう!!」」」
四人の声と、メインポートを揺るがすような群衆の大歓声が重なる。
アルバトロス号は、無数の紙吹雪を置き去りにし、爆発的な推力と共にアイアンポートの真っ青な空へ向かって飛び立った。
そのすぐ後ろを、ガレインのシルフィード号と数隻の特務艦が、美しい編隊を組んで追従していく。
大人たちの作った理不尽な鳥籠を完全に破壊し、新しい空の時代を背負った無敵の船は、一筋の銀色の光となって、遥か彼方の故郷の空域を目指して堂々と駆け抜けていった。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
「俺の手」と「お前の目」。互いへの感謝と絶対の信頼を確かめ合うレオとシェリル。
そして、リゼに「僕の未来に投資してくれないか」と契約を申し込むカイル! どちらのペアも最高に尊いですね……!
翌朝、特務艦隊を従えて飛び立つアルバトロス号。
次回、ついに故郷の空へ凱旋します! 絶対にお見逃しなく!




