第114話 頂の上の景色
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ロケットのような加速で雪雲を突き破るアルバトロス号。
行きは死に物狂いで越えた山頂で、彼らを待っていた景色とは……。
標高六千メートルを越えたあたりから、空の様相は完全に「殺意」へと変わった。
分厚い雪雲が視界を白一色に染め上げ、猛烈な吹雪が『音叉の結界』にバチバチと音を立ててぶつかっては弾け飛んでいく。
結界のおかげで船内は静かで暖かい春のような状態が保たれていたが、操舵輪を握る僕の掌には、大自然が放つ圧倒的な「質量」の手応えが、重くのしかかってきていた。
「来るぞ! 山の斜面に沿って吹き下ろす極寒の暴風―カタバティック風の領域だ!」
後部座席で計器を睨んでいたカイルが、鋭い声を上げた。
ドゴォォォォッ!!
次の瞬間、上空から巨大な氷のハンマーで叩きつけられたような強烈な下降気流が、アルバトロス号の機体を上から激しく押し潰しにかかった。
結界が蒼く波打ち、衝撃自体は相殺してくれるものの、「船全体を沈めようとする気圧のうねり」までは完全に無効化できない。高度計の針が、ブルブルと震えながら下を指し始めた。
「高度が落ちるわ! このままじゃ、山の斜面に押し付けられちゃう!」
リゼが後部座席で悲鳴を上げる。
「慌てるな! 風の力に、エンジンの力だけで逆らおうとするから押し負けるんだ!」
僕はスロットルレバーから手を離し、あえて機首をガクンと下へ向けた。
船体が傾き、アルバトロス号は猛烈な下降気流に身を任せるように、真っ白な吹雪の谷底へと恐ろしいスピードでダイブしていく。
「レオ! 右舷下方、四十度の角度! そこに谷底から跳ね返ってくる『風の壁』がある!」
助手席のシェリルが、アストロラーベの琥珀色のレンズから目を離さずに叫んだ。彼女の瞳は、吹き荒れる吹雪の中に隠された、目に見えない気流の道筋を完全に見切っていた。
「了解! カイル、滑空角の計算を!」
「仰角プラス二十五度! エンジン推力はアイドリングのまま維持、フラップ開度六十パーセントで風の壁に突っ込め! 接触まで、あと五秒!」
「三、二、一……今だっ!!」
僕は浮根杉の操舵輪を思い切り手前に引き、船体を強引に引き起こした。
同時に、気嚢の前方に設けられたスリットフラップを一気に開く。
ズバァァァァンッ!!
山肌に跳ね返って吹き上がってきた強烈な上昇気流に、アルバトロス号の広大な気嚢と船体下部が、まるで巨大な帆のように真正面からぶつかった。
通常なら船体がバラバラになるほどの衝撃だが、結界の柔らかな反発力がそれを極上の「クッション」に変え、マイナス質量を孕んだ気嚢が風のエネルギーを余さず喰らい尽くす。
「うおおおおっ!!」
エンジンの推力はほとんどゼロに近いというのに、アルバトロス号は目に見えない巨大な手にすくい上げられたように、猛烈なGを伴って一気に空へと跳ね上がった。
「よし! 完全に風を噛んだ! このまま斜面に沿って駆け上がるぞ!」
僕は笑い声を上げ、操舵輪を微細に操った。
大自然の風の力を利用する『ダイナミック・ソアリング』。
行きは、酸欠でエンジンが止まり、文字通り命懸けで崖スレスレを這いずるように飛ぶしかなかった、恐怖の曲芸飛行だった。
だが今は違う。
シェリルの絶対の「目」と、カイルの完璧な「計算」。そして、どんな強風でも絶対にブレない浮根杉の「操舵輪」と、僕の「手」。
四つの歯車が完全に同調し、アルバトロス号は暴風をサーフィンのように乗りこなし、右へ左へと優雅にタッキングを繰り返しながら、驚異的なスピードで高度を稼いでいく。
「……すごい。まるで、風とダンスを踊ってるみたい」
窓の外を流れる猛吹雪を見つめながら、リゼがうっとりとしたため息を漏らした。
「ああ。自然の力に抗うのではなく、利用する。これこそが、アエテリアの『音叉の船』の思想と、僕たちの技術が交わった究極の飛行だ」
カイルも手帳を閉じ、誇らしげに眼鏡を押し上げる。
「高度六千八百、六千九百……!」
シェリルがアストロラーベの目盛りを読み上げる。
窓の外の雪雲が、次第に薄くなり、明るさを増してきていた。
「来るぞ……。標高七千メートル。かつて僕の計算で、『墜落率九十九パーセント』と弾き出された絶対死の空域だ」
カイルの声に、心地よい緊張感が走る。
大気の密度は地上の三分の一。本来ならどんなエンジンも酸欠で火が消える、生物を拒絶する領域。
「ふっ……上等だ。九十九パーセントの死神に、今の俺たちの『最高の心臓』の音を聞かせてやろうぜ」
僕はスロットルレバーを強く握りしめ、一番奥まで一気に叩き込んだ。
ドォォォォォンッ!!!
完璧に調律されたスーパーチャージャーが、薄い空気を限界まで圧縮してシリンダーへ叩き込む。
琥珀の液状結晶が爆発し、トラクターエンジンの野蛮な咆哮と、音叉の澄み切った共鳴音が完全に一つになり、極上の『和音』となって船体を震わせた。
特級浮遊石が太陽のような眩い蒼光を放ち、気嚢から限界まで圧縮されたマイナス質量が大噴射される。
「突き抜けろぉぉぉっ!!」
ズガアァァァァァァンッ!!
ダイナミック・ソアリングの勢いに、キメラ・ドライブの爆発的な推力が上乗せされ、アルバトロス号は重力の楔を完全に引きちぎったロケットのように、猛烈な加速で分厚い雪雲の天井へと突進した。
パァァァァッ……!
雲を突き破った瞬間、それまで窓ガラスを激しく叩きつけていた猛吹雪の音が、嘘のように消え去った。
船内を満たすのは、心地よいエンジンの重低音だけ。
アルバトロス号を包み込む結界の外側に広がっていたのは、一切の遮るものがない、宇宙に近いほど深く澄み切った群青色の空だった。
そして眼下には、まるで純白の海のように果てしなく続く雲海と、それを突き抜けてそびえ立つ、氷の刃のような白銀の峰々。標高七千メートルを越える『白い山脈』の絶対の頂だ。
ちょうど東の地平線から、眩い太陽がゆっくりと顔を出し始めていた。
強烈な光が白銀の峰々を斜めから照らし出し、氷壁が黄金色から鮮やかな薔薇色へと染まっていく。神々しいまでの『朝焼け』が、世界を燃えるような色彩で包み込んだ。
「……なんて、綺麗な……」
助手席のシェリルが、胸に抱いたアストロラーベを落としそうになるほど見惚れ、息を呑んで呟いた。
「どんな宝石の山よりも、ずっと、ずっと綺麗だわ……。お金なんかじゃ絶対に買えない、世界で一番の絶景ね」
後部座席で窓にへばりついていたリゼも、商人としての計算も打算も完全に忘れ、ぽろぽろと感動の涙をこぼしている。
「ああ……。かつて僕が絶望した、生物を拒絶する死の空域だ。だが今は……ただの、圧倒的に美しい景色でしかない」
カイルは丸眼鏡を外し、計算尺をそっとコンソールの上に置いた。もはやここで計算すべき危険は何一つなかった。
アルバトロス号は空の王者のように、白銀の頂の真上で悠然と静止している。
行きは、ここでエンジンが止まり、凍死と墜落の恐怖に泣き叫びながら、地を這うように越えた。
誰も越えられなかった壁。僕の親父も、ギルドのエリートたちも、大自然の質量の前に敗北した場所だ。
だが、僕たちは越えた。
親父から受け継いだ工具と、カイルの頭脳、シェリルの目、リゼの調達力。そして、アエテリアの古代の知恵。そのすべてを組み合わせ、大自然の物理法則を力強く、そして美しく凌駕してみせたのだ。
「……親父にも、見せてやりたかったな。この景色を」
僕がポツリと呟くと、隣でシェリルが優しく微笑み、僕の腕にそっと手を添えた。
「きっと、見てるよ。レオが作った世界一の翼の特等席で、一緒に」
「……へっ、そうだな。あの親父のことだ、俺より先にはしゃいでるかもしれないぜ」
僕は油まみれの手で鼻の頭を擦り、照れ隠しに笑った。
大自然への畏敬と、それを乗り越えた絶対の誇り。
この山頂の朝焼けは、僕たちがただの『逃げ出した野良犬』から、世界を切り開く『冒険者』へと完全に羽化を遂げた証だった。
「よし、絶景の堪能はここまでだ! いつまでも空に浮かんでたら、リゼの腹の虫が鳴き出しちまうからな」
「ちょっと、私はそんなに食い意地張ってないわよ!」
リゼが顔を真っ赤にして抗議するのを笑い飛ばし、僕はスロットルレバーに手を掛けた。
「さあ、凱旋フライトの仕上げといくぜ! まずは、あの山麓のならず者たちの街……『ラスト・ドロップ』へ、一気に下りるぞ!」
「了解! でもレオ、急降下しすぎないでね。気圧変化で耳が痛くなるから!」
「へへっ、任せとけ。まるで雪山を滑り降りるみたいに、最高に気持ちいい滑空を見せてやる!」
僕は前方フラップを閉じ、キメラ・ドライブの共鳴音をスッと下げた。
特級浮遊石の放つ浮力が柔らかく弱まり、アルバトロス号はふわりと機首を下げた。重力と、山肌に沿って吹き下ろす気流に身を任せ、白銀の斜面をなぞるように滑らかに降下していく。
ヒューゥゥゥン……!
音叉の結界が風を柔らかく切り裂き、銀色の翼は薔薇色の朝焼けを反射してキラキラと輝いている。
僕たちは最高の気分で、次なる再会の地へと向かって、猛烈なスピードで空を滑っていった。
読んでいただき、本当にありがとうございます!
見渡す限りの白銀の峰々と、朝焼け(モルゲンロート)の絶景。
親父さんにも見せてやりたかった、お金じゃ絶対に買えない最高の景色ですね。
大自然の絶対の壁を、見事に自分たちの力で「ただの散歩道」に変えてみせました!
さあ、絶景を堪能した後は、あのならず者たちの街へ急降下です!
明日も夜にお待ちしています!




