第112話 絶望の海の星空
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コンパスが狂い、風が止まる「絶望の海」。
行きは極限の渇きと幻覚に苦しめられた死の領域ですが、今の彼らには「絶対の目」と「最高の心臓」があります!
天欠島の灰色の岩肌が、眼下の雲海へと完全に溶けて消えた。
アルバトロス号は機首を西へ向け、琥珀の液状結晶がもたらす無尽蔵のエネルギーを推進力に変えながら、順調に高度と速度を維持していた。
真新しい『浮根杉の操舵輪』から伝わってくる手応えは、驚くほど滑らかで力強い。かつては気流の乱れに過敏に反応し、常に操縦桿と格闘していなければならなかったが、今は違う。船体を包む『音叉の結界』が微細な乱気流を柔らかな反発力で弾き返し、船内には心地よいエンジンの重低音だけが規則正しく響いていた。
「……レオ、計器板を見て。そろそろだぞ」
カイルが、丸眼鏡の奥の目を細めてコンソールを指差した。
見ると、真鍮の枠に収められた方位磁針の針が、まるで意思を持った生き物のようにブルブルと震え出し、やがて右へ左へとデタラメに回転を始めていた。高度計の針も小刻みに揺れ、気圧計はあり得ない数値を叩き出している。
「出たわね。磁気異常でコンパスが完全に狂う空域……『絶望の海』よ」
後部座席から身を乗り出したリゼが、忌々しそうに狂った方位磁針を睨みつけた。
「行きはここでコンパスが完全に死んで、見えない恐怖に怯えながら飛ぶ羽目になったんだよな。シェリルが星を読んでくれなきゃ、確実に海の底へ落ちてたぜ」
僕は左腕の袖を少しだけ捲り、そこに残る浅い切り傷の痕を親指でなぞった。狂いそうな喉の渇きと精神的重圧の中、正気を保つためにナイフで自傷した生々しい記憶が蘇る。
コンパスが使えない。目印になる地形もない。
空において、それは「死」と同義だ。
だが、今の僕たちの船には、決して狂うことのない『絶対の目』がある。
「コンパスなんて、もう必要ないわ」
助手席のシェリルが、胸に抱いていた真鍮の『アストロラーベ』をコンソールの上にカチャリとセットした。
太陽はすでに西の雲海に沈みかけ、空は深い藍色から紫、そして漆黒へと壮大なグラデーションを描き始めている。一番星が瞬き始めたその空へ向けて、シェリルはアストロラーベの琥珀色のレンズを覗き込んだ。
カシャッ、チキチキチキ……。
複雑な幾何学模様のリングが回転し、星の微かな光を捕らえて計算式へと変換していく。
「現在の空間座標、確認。……磁気は狂ってるけど、星の配置は二百年前のカッシーニの観測データと一ミリも違わない。レオ、このまま真っ直ぐよ」
「了解だ! 頼もしい航法士様についていくぜ!」
僕はシェリルの指示通りに操舵輪を固定し、スロットルレバーをさらに一段階奥へと押し込んだ。
ドォォォォンッ!
新生キメラ・ドライブが頼もしい咆哮を上げ、アルバトロス号は磁気嵐の渦巻く絶望の海を、一直線に、ただの散歩道のように駆け抜けていく。
やがて、完全に夜の闇が空を覆い尽くした頃。
窓の外から、ヒューヒューという風切り音がプツリと消え去った。
「……風が、止まったわね」
シェリルが窓ガラスに手を当てて呟く。
「ああ。気流が完全に停止する死の領域、『無風地帯』だ」
カイルが手帳にペンを走らせながら答えた。
帆船やグライダーにとって、風が止まることは即ち推進力の喪失を意味する。行きはここで風を失い、完全に空中で立ち往生して飢えと渇きに苦しめられた。
だが、今のアルバトロス号は違う。
ドッドッドッドッ……!
風がない静寂の空間だからこそ、船体中央に鎮座するキメラ・ドライブの力強い鼓動が、より一層腹の底に響いてくる。
琥珀の液状結晶を燃やすこのエンジンは、外部の風など一切必要としない。自らの力で空気を吸い込み、爆発させ、圧倒的な推力で自ら風を創り出して突き進む。
『静寂は死、騒音は生』
この絶対法則を、今の僕たちは身をもって体感していた。けたたましく燃え盛るエンジンの爆音こそが、僕たちの命を前へ前へと力強く運んでくれているのだ。
「みんな、外を見て! すごい……!」
シェリルが、弾かれたように声を上げた。
僕たちは窓の外を見て、思わず息を呑んだ。
風が完全に止まったことで、眼下に広がる分厚い雲海が波立つことをやめ、まるで鏡のようなどこまでも平らな純白の平面と化していた。
そして、その雲海の鏡面に、頭上に広がる『満天の星空』が完璧に反射していたのだ。
上も、下も、右も、左も。
視界の360度すべてが、息を呑むような無数の星々の輝きで埋め尽くされている。
アルバトロス号は今、空を飛んでいるというよりも、宇宙という名の巨大な星の球体の中央を、滑るように泳いでいた。
「綺麗……。まるで、星の海ね」
シェリルが窓ガラスに額を押し付け、うっとりと目を細める。
「すごいわね……。あんなに私たちを苦しめた地獄の空が、こんなに美しい景色を隠し持っていたなんて」
リゼも身を乗り出し、言葉を失ってその絶景に見入っていた。
「風がないからこその、奇跡の光学現象だ。……どんな過酷な大自然にも、人間を圧倒するだけの『美しさ』があるんだな」
カイルが丸眼鏡を外し、感慨深げに星空を見つめる。
僕は操舵輪から片手を離し、その美しい景色を眺めながら、深く、長い息を吐き出した。
死ぬ思いで越えた往路。
そして、圧倒的な力でねじ伏せて進む帰路。
同じ空なのに、これほどまでに見える景色が違うのか。
「はい、お疲れ様。うちの優秀なクルーたちに、特別ボーナスよ」
不意に、香ばしくて甘く、少しだけ焦げたような最高の匂いが船室に漂った。
振り返ると、リゼがアルコールランプの小さなコンロで湯を沸かし、四つのマグカップに黒い液体を注いでいた。
「コーヒーか! しかも、この匂い……!」
「アエテリアの純粋な湧き水と、アイアンポートで買い込んでおいた最高級の豆よ。泥水と干し肉だけで生き延びたあの無風地帯のサバイバルを思えば、涙が出るほど贅沢な一杯でしょ?」
リゼがいたずらっぽく笑いながら、マグカップを配って回る。
「ああ、最高だ。リゼの淹れるコーヒーは世界一だぜ」
僕は操舵輪を片手で握ったまま、熱いマグカップを受け取った。
一口すすると、強烈な苦味と深いコクが、冷えた身体の隅々にまで染み渡っていく。
「美味しい……。本当に、あの時の極限状態が嘘みたい」
シェリルが両手でマグカップを包み込み、ホッと息をつく。
「水も食料も、そして燃料の『琥珀の液状結晶』も、まだまだ山のように積んである。……今なら、世界を何周だってできそうだよ」
カイルがコーヒーを啜りながら、誇らしげに言った。
「なぁ、みんな」
僕はコーヒーの温もりを感じながら、星空の鏡面を真っ直ぐに見据えた。
「俺たち、強くなったよな」
その言葉に、三人が僕を見た。
「ただのガラクタを拾い集めて、ギルドの大人たちから逃げるように飛び出したあの田舎町。あの時は、空がこんなに広くて、こんなに恐ろしくて……そして、こんなに美しいなんて、想像もしてなかった」
僕は左腕の傷跡を撫で、そして真新しい浮根杉の操舵輪を強く握りしめた。
「でも、俺たちは自分たちの手と頭で、一つずつ限界をぶち破ってきた。アエテリアの連中に希望を渡し、最強の翼を手に入れて……今、こうして星の海をコーヒー飲みながら飛んでる」
「……ええ。私たちはもう、ただ怯えて逃げ回るだけの野良犬じゃないわ」
リゼが優しく微笑み、僕の隣に並んだ。
「どんな壁が立ち塞がっても、必ず乗り越えられる。そう思えるだけのものを、私たちは手に入れたのよ」
「次は……いよいよ、あの『白い山脈』だね」
シェリルが、アストロラーベの光に照らされた海図を見つめて言う。
行きは、酸欠と極寒でエンジンが止まり、カイルの計算で「墜落率九十九パーセント」と弾き出され、ダイナミック・ソアリングという命懸けの曲芸でギリギリ飛び越えた標高七千メートルの絶対防壁。
「ふっ、特級浮遊石の圧倒的な浮力と、音叉による完璧な共鳴制御がある今の俺たちなら、高度のコントロールなんて造作もねえ。上昇気流を探して綱渡りする必要もないさ。力ずくで山頂を真っ直ぐにぶち抜いてやる」
僕がニヤリと笑うと、カイルが呆れたように肩をすくめた。
「やれやれ。僕の緻密な航空力学も、君のその暴力的なエンジンの前では形無しだよ。だが……今のこの船なら、それが最も『合理的』な最適解だ」
船内には、心地よい暖かさと、コーヒーの香り、そして何者にも縛られない自由な空気が満ちていた。
「さあ、夜明けまでかっ飛ばすぞ! シェリル、星の道を頼む!」
「ええ、任せて! 一番綺麗で、一番真っ直ぐなルートを案内するわ!」
僕はスロットルを開け、琥珀色の瞳を輝かせて前を向いた。
星空の鏡面を、青白い排気の炎を引いて飛ぶ銀色の無敵艦。
分断された世界を繋ぎ、自分たちの故郷へ帰るための圧倒的な凱旋フライトは、この美しい絶望の海を、ただの輝く思い出の1ページへと変えながら、さらに力強く加速していった。
最後まで読んでいただき、感謝です!
無風地帯が作り出す、雲海の鏡面に映る360度の星空。
行きは地獄だった同じ空が、圧倒的なスペックの船と余裕があることで、コーヒーを飲みながら眺める「世界で一番の絶景」に変わりました。
「俺たち、強くなったよな」というレオの言葉通り、彼らはもうただの野良犬ではなく、本物の冒険者ですね!
次回、立ちはだかる「白い山脈」。明日も夜に更新します!




