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第36話 逃亡の果てに

鮫田開智は、最初から悪党だったわけではない。

ただ、努力が一度も正しく報われなかった人間だった。


生まれは都内の下町。母子家庭で、母は夜の仕事を掛け持ちしていた。

家に帰れば、いつも冷めた弁当と消えかけの電気。

冬はエアコンを入れられず、コートを着たまま眠った。


学校では目立たないが、真面目だった。

成績も悪くない。教師の言う「ちゃんとやれば道は開ける」を信じていた。


だが――

進学は金がなく断念。

就職した町工場は、社長の夜逃げで半年で潰れた。

次のバイト先では、理不尽なクレームを一身に被せられ解雇。


「真面目な奴ほど損をする」

それが、彼の現実だった。


やがて生活のために、半グレに近いストリートギャングに身を寄せる。

だがそこでも彼は使()()()()だった。

危ない役回り、尻拭い、囮――

誰かが失敗すれば、必ず鮫田が殴られた。


強くなりたかった。

支配したかった。

一度でいいから、理不尽に耐える側ではなく、理不尽を押し付ける側に立ちたかった。


それでも、何も変わらなかった。


何もかもが嫌になり、ストリートギャングから逃げ出した夜。

なんとなく足を踏み入れた、場違いなほど静かなバー。

整然としたカウンターに残る水滴を眺めながら、

注がれた酒を一気に流し込み、彼は誰に向けるでもなく、声を落とした。


「真面目に生きても、寒いまま死ぬならさ……

 最初から凍ってた方がマシだろ」


その夜――

初めて、彼のグラスが薄く凍りついた。




◇◇




《秋葉原・レイディオ会館/8階フロア》


荒屋分隊は、人質を戦術局・支援課に引き渡したのち、安藤分隊の援軍として8階フロアへ戻ってきていた。


床、壁、天井。一面に広がる氷。

白く濁った冷気が、まだ空間に滞留している。


鮫田はすでに拘束され、隊員たちが内場たちの身体を引き起こしていた。


「いやぁ……本当に、危なかったです」


白柳に腕を取られ、安藤が息を切らしながら丸々と太った体を起こす。

額には冷や汗が浮かび、肩で荒い呼吸をしていた。


「そこの扉が、どうしても開かなくてな」


鮫田の冷気で扉の内側が完全に凍結していたため、開けることができなかったのだ。

荒屋は続ける。


「車両まで戻って、木ノ下にショットガンを取りに行かせた。その分、介入が遅れた」


視線の先――

非常扉の縁には、まだ霜が張り付き、氷が厚く残っている。


「凍傷の恐れがある。車両で応急処置だ」


荒屋がそう告げ、扉へ向き直った。



――その時。


「あああああ!」


空気を引き裂く、獣じみた雄叫び。


振り向いた先にいたのは、江頭だった。


氷に覆われた身体を無理やり引き起こし、

硬化した皮膚を軋ませながら、よろめくように――だが確実に、走り出す。


「逃げるぞ!」


瞬間、荒屋分隊の隊員たちが反応する。


ダダダダダダッ!


一斉射撃。

弾丸が背中へと吸い込まれる。


ドォォン!


木ノ下が放ったBenelli M4の轟音が、フロアを震わせる。

だが、硬化した皮膚がすべての弾丸を弾き、火花を散らすだけだった。


江頭は止まらない。


一直線に、窓へ。


バリィィン!!


体当たりでガラスを叩き割り、

そのまま8階から――落下。


ドスン。


鈍い衝撃音。

衝突点のアスファルトが、ひび割れて砕ける。


「ぐふ……!」


内臓を打ち据えたような呻き声。


(くそ……!

 こんなところで……やられてたまるか……!)


それでも、江頭は立ち上がった。


硬化した黒い皮膚が軋み、

張り付いていた氷片が、音を立てて剥がれ落ちる。


胴の前面から血を滴らせながら、

江頭はレイディオ会館から離れる方向へ、獣のように走り出す。


足取りは乱れている。

だが――止まらない。


次の瞬間。


バィン!!


張り詰めた鋼の反動音。


江頭の身体が、見えない何かに弾き返され、背中から地面に叩きつけられる。


(なに……!?)


空中に張り巡らされていたのは、

ほとんど視認できない極細の線。

第4部隊が展開していた、ワイヤー包囲網だった。


「異能者だ!」

「落ちてきたぞ!」


周囲に立っていた第4部隊が即応。

複数の銃口が、一斉に江頭を捉える。


ダダダダダダダダッ!


乾いた連続音。

四肢を狙った、精密な射撃。


――だが。


弾丸は硬化した皮膚に弾かれ、火花を散らすだけ。


「チッ……!」


呻き声を漏らしながらも、江頭は立ち上がる。


硬化した手でワイヤーを掴み、

力任せに引き裂こうとする。


極細の鋼線が悲鳴を上げ、食い込む。

硬化した皮膚が裂け、血が飛ぶ。


それでも、止まらない。


「あいつ…隊長のワイヤーでも切れないのか!」


隊員の1人が、引き金を引きながら声を漏らす。


「近づいたら……殺すぞおおお!」


怒号とも、悲鳴ともつかぬ江頭の雄叫び。


血走った目で周囲を威嚇しながら、

江頭はなおも前へ出ようとする。


その視線の先――

警察が張った規制線。

フラッシュライトと拡声器の光が、昼の街気に揺れている。


江頭は歯を食いしばり、

引き裂いたワイヤーの隙間から、再び走り出した。


――街へ。

――人のいる場所へ。


「捕まえろ!」


第4部隊副隊長、サラウット・チャルーンシンの怒号。


だが、銃撃は決定打にならない。


「くそ……警察や民間人が……!追え!」


数名の隊員が銃を背に戻し、江頭の後を追う。


しかし――


江頭はそのまま規制線へ突っ込む。


「きゃあ! なに、この人!?」

「コスプレ……?」


混乱する野次馬の人だかりの中へ――

その姿を、完全に消した。




◆◆




「はぁ……はぁ……」


江頭は、人気の途絶えた路地裏へと転がり込むように逃げ込んだ。

ビルとビルに挟まれた細い空間。街灯の光も届かず、湿った闇だけが溜まっている。


足を止めかけるたび、肺が焼けるように悲鳴を上げる。

それでも、江頭は必死に脚を動かした。


胴の前面。

鮫田の冷気と、長谷川の放ったサーム弾によってひび割れた皮膚装甲。

胸から腹にかけて、表皮がぱっくりと裂け、内部の肉が覗いている。


「くそ……何で、俺が……こんな目に……」


割れた隙間から滲む血は、異能による凍結で表面だけが氷結し、かろうじて止血されていた。

だがそれは、言うまでもなく治癒ではない。


冷たさはすでに感覚を奪い、

残ったのは、鈍く深い痛みだけだった。


氷が、内側から身体を蝕んでいく。


「……追いつかれる前に……傷口を……隠さねぇと……」


そのとき――


カツ…カツ…


(――!?)


路地の奥。

闇の中から、足音がひとつ。


こちらへ向かって、誰かが歩いてくる。


ダークブラウンのロングコート。

その下に覗く、仕立てのいいブラウンのスーツ。

ポマードで固められたオールバックの黒髪。

刃物のように鋭い、切れ長の目。


そして――

街灯の淡い光を受けて、鈍く輝く橙色の瞳。


「……ひ、(ひじり)様!」


思わず、声が裏返る。


(た……助かった……!)


全身の力が、一瞬だけ抜けた。


「すみません……!

 奴ら、やはり……思った以上に強く……!」


言葉が溢れ出す。


「さすがは、月迦(げっか)を討ち取った奴らなだけのことはあると……!」


聖は、何も言わず、ゆっくりと距離を詰めてくる。


歩きながら、右手に嵌めていた黒革の手袋を外した。


露になった手の甲。


そこに刻まれていたのは――

黒い三日月。

それを横切る、一筆の線。


月迦の証。

黒い刺青の刻印――“月印(げついん)”。


「……不合格」


低く、冷たい声。

感情の起伏を一切含まない声音が、路地の空気を震わせた。


その一言で、江頭は理解した。


――殺される。


「……ひ、硬化……!」


反射的に異能を発動させる。

鋼のような皮膚が、さらに厚みを増し、全身を覆う。


防御姿勢を取る江頭に、

聖は、静かに人差し指を向けた。


「――熱線(ハイ・レーザー)


ギイィン――


鋭い共鳴音。


放たれた一筋の光線が、薄暗い路地を橙色に染める。

次の瞬間、それは――


江頭の眉間を、正確無比に貫いた。


特災対の銃撃を(ことごと)く弾いた皮膚装甲を、

まるで存在しないかのように、易々と。


「あ”ぁ”……っ……」


声にならない声。


ドサ……


硬化した身体が崩れ、

江頭は、そのまま路地の地面に倒れ伏した。


聖は、もう振り返らない。


踵を返し、ロングコートをマントのように(なび)かせながら、闇の奥へと歩き去っていく。


そこに残ったのは――

冷え切った血の匂いと、

役目を終えた“異能者の死体”だけだった。


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