第三十五章:ほどける距離
王都エルヴェリアの朝は、淡い光に包まれていた。
南通りには、店を開ける商人たちの声が少しずつ増え始めている。
石畳の上を荷車が軋み、焼きたてのパンの匂いが、まだ冷たい朝の空気に混じって流れていた。
その人波に紛れるように、灰色の外套をまとった青年が歩いていた。
帽子を目深にかぶり、目立つ装飾は何もない。けれど、背筋の伸びた歩き方や、
人とすれ違う時の何気ない身のこなしには、隠しきれない品がある。
ウィリアルド・カディス。
王太子である彼が、今日もまた星霞亭へ向かっていた。
少し離れた後方には、ライナートが控えている。主の姿を見失わぬ距離を保ちながら、周囲に目を配っていた。
星霞亭の前に着くと、ウィリアルドは足を止めた。
今日は、視察ではない。
民の暮らしを知るためでもない。
ただ、会いたい。
それだけだった。
扉を押すと、からん、と鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
白いエプロン姿のセランが振り返る。
朝の光を受けた金色の髪が、ふわりと揺れた。
「あ……また来てくださったんですね。もう来られないと思っていたので、嬉しいです」
セランが少し驚いたように笑った。
その笑顔を見た瞬間、ウィリアルドの口元が、どうしようもなく緩んだ。
「……可愛い」
「え?」
セランの動きが止まった。
ウィリアルドは、はっとしたように瞬く。
言うつもりはなかった。
少なくとも、店に入って最初の一言にするつもりはなかった。
だが、出てしまったものは戻らない。
背後で、わざとらしい咳払いが聞こえた。
「……こほん」
ライナートだった。
ウィリアルドは少しだけ目を逸らす。
「すまない」
「い、いえ……」
「ただ、あまりにも可愛くて」
「ぇっ!?」
セランの顔が一気に赤くなる。
今度は、先ほどよりも強い咳払いが響いた。
「主!」
「仕方ないだろう」
「仕方なくありません」
「仕方なくないです!」
ライナートとセランの声が、ほとんど同時に重なった。
二人は一瞬だけ顔を見合わせる。
ウィリアルドは、その様子を見てわずかに眉を上げた。
「……ずいぶん息が合うね」
「そこではありません」
ライナートが即座に返す。
セランは顔を赤くしたまま、盆を胸元に抱えた。
「からかわないでください。
もう……王太子様の時は、そんなこと言わなかったのに」
小さくこぼれた言葉に、ウィリアルドの表情がふっと柔らかくなる。
「言いたかったよ」
「っ……!」
セランは完全に言葉を失った。
王太子として店に来た時の彼は、もっと遠い人だった。
静かで、気高くて、誰もが背筋を伸ばしてしまうような人。
その時のセランは、星霞亭の娘として、できる限り失礼のないように振る舞った。
相手は王太子なのだ。
たとえ優しく声をかけられても、身分の違いを忘れてはいけない。
そう思えば、緊張しても毅然としていられた。
けれど今、目の前にいる青年は違う。
王太子の時と同じ人のはずなのに、同じではない。
近い。
甘い。
そして、どこか切実だった。
ただ食事が美味しいから来ているのだと、セランは思っていた。お貴族様が、ましてや王太子様が、下町の食堂に足を運ぶ理由など、それくらいしか思いつかなかったからだ。
けれど彼は、食事ではなく、まるでセラン自身を見ているような目をする。
なぜそんな目で見られるのか、セランには分からなかった。
「主、さすがに少しやりすぎです」
ライナートが低く言う。
ウィリアルドは不思議そうに首を傾げた。
「そうか? かなり抑えているつもりだが」
「……」
「…まあ、仕方ない」
ライナートは一瞬、遠い目をした。
――本当に、クラリス様のことになると駄目だな、この方は。
「今、失礼なことを考えなかったか」
「いえ、何も」
「本当に?」
「はい」
ウィリアルドはまだ疑わしげにライナートを見ていたが、セランが慌てて一歩前に出た。
「も、もういいですから。早く席に座ってください」
顔をぱたぱたと仰ぎながら、空いている席を示す。
ウィリアルドは素直に歩き出した。
けれど、その視線はずっとセランに向いたままだった。
「……迷惑だった?」
「迷惑とかではないですけど…」
ウィリアルドは、心底安心したように笑った。
「よかった…君に嫌われたら、どうしようかと思った」
「っ……」
セランはまた言葉に詰まる。
そんな言い方をされると、怒るに怒れない。
「嫌うほどのことではありませんから」
「なら、よかった」
また嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、セランは視線を落とした。
どうしてだろう。
あまりにもまっすぐに甘くて、受け止め方が分からない。
***
ウィリアルドが席に着くと、セランは深呼吸を一つして、いつもの調子を取り戻そうとした。
「今日は朝食ですか?」
「うん。君のおすすめを頼みたい」
「でしたら、野菜のスープと焼きたてのパンがあります。あと、お母さんが仕込んだ鶏肉の香草焼きも」
「では、それを」
「はい。少しお待ちくださいね」
セランは厨房へ向かった。
その背中を見送りながら、ウィリアルドは静かに息を吐く。
ほんの少し話しただけなのに、胸の奥が満たされていく。
同時に、もっと欲しくなる。
声を聞きたい。
触れたい。
できるなら、このまま目の届くところに置いておきたい。
その願いがどれほど身勝手か、彼には分かっていた。
だからこそ、今はただ見つめるだけに留めている。
留めているつもりだった。
王太子が訪れた店ということで朝にも関わらず、店内は少しずつ賑わい始めていた。
セランは盆を持ち、客の間を慣れた様子で行き来している。
卓の端に寄りすぎていた椅子を戻し、年配の客には言われる前に水を足す。子ども連れの客には、熱い器を少し奥へ置いていた。
その何気ない仕草の一つひとつに、ウィリアルドの胸は締めつけられる。
クラリス。
声に出せない名が、胸の奥で熱を持った。
その時だった。
入口近くで、小さな子どもが足を滑らせた。
手に持っていた木の器が傾き、熱いスープがこぼれかける。
「危ない!」
誰かが声を上げるより早く、セランが動いた。
盆を近くの卓へ置き、子どもの手首を支える。器は落ちなかったが、熱い雫が彼女の指先に跳ねた。
「っ……」
ほんの一瞬、セランの眉が寄る。
けれど彼女はすぐに膝を折った。
「大丈夫? 火傷してない?」
「おねえちゃん、ごめんなさい……」
「怪我がなくてよかった、気を付けてね」
セランは子どもの手を確かめ、赤くなっていないのを見て、ほっと笑った。
次の瞬間、椅子が鳴った。
ウィリアルドは立ち上がり気づいた時には、もうセランのそばにいた。
「セラン、手を見せて」
「え? 大丈夫です。」
「見せて」
声は柔らかい。
けれど、目はまっすぐだった。
セランは、その近さに少し驚いたように瞬いた。
「大げさですよ」
「君の事だからね」
あまりにも自然に返され、セランはまた言葉に詰まった。
「……そういうことを、すぐ言いますよね」
セランは顔を赤くしたまま、少しだけ睨むように彼を見た。
その表情を見て、ウィリアルドの胸が苦しくなるほど温かくなった。
ちゃんと、目の前で反応を返してくれている。
それだけで、どうしようもなく嬉しかった。
「……ごめん」
ウィリアルドは、ふっと目を伏せた。
「君がそうやって返してくれるのが、嬉しくて」
「え……?」
「困った顔でも、怒ったような顔でも、笑った顔でも。君がここにいて、俺の言葉に返してくれる」
ウィリアルドは一度、言葉を切った。
胸の奥に、言ってはいけないものが込み上げる。
生きてくれているだけでいい。
そう言いそうになって、飲み込んだ。
「……それが、嬉しいんだ」
セランは息を呑んだ。
からかわれていると思いたかった。
けれど、その声はあまりにも真剣だった。
「……そんなふうに言われると、もっと困ります」
「うん。分かってる」
「分かっているなら……」
「でも、止めるのが少し難しいんだ」
ウィリアルドは、困ったように笑った。
セランは何も返せなかった。
どうしてこの人は、そんなにまっすぐに言ってしまうのだろう。
厨房からミールが顔を出した。
「セラン、そこでいちゃいちゃしてないで、少し冷やしておいで。こっちは私がやるから」
「お母さん、いちゃいちゃなんて!」
「いいから。お客様にも心配をかけているじゃない」
ミールの視線が、ちらりとウィリアルドへ向く。
少し面白がっているような目だった。
セランは頬を赤くしたまま、小さく頷いた。
「……わかった」
「井戸は裏?」
「はい。でも、一人で大丈夫ですから」
ウィリアルドは少し笑った。
「僕が安心したいんだ」
「……本当に、そういう言い方をされると…」
セランは慌てて視線を逸らした。
「ほらっ、また言われる前に行こう」
ウィリアルドはセランの手を引き、裏口へと連れ出す。
呆れ顔のライナートを見ないふりをして。
***
裏口の外には、小さな井戸があった。
店内のざわめきが遠のき、水の音だけが静かに響いている。
セランが桶に手を伸ばすより早く、ウィリアルドがそれを取った。
「僕がやるよ」
「いえ、自分でできます」
「分かってる。でも、今は手を冷やして」
桶に汲まれた水へ、セランは指先を浸した。
「冷たすぎない?」
「大丈夫です」
「君の大丈夫は、少し信用できないな」
「なんで」
「君は我慢強いからね」
そう言って、ウィリアルドは身を乗り出した。
セランは何を根拠に言っているのかわからなかったが、
心の中を見透かされている気がして何も言えずにいた。
思ったよりも顔が近い。
セランは反射的に肩を引く。
「あの……近いです」
「近い?」
ウィリアルドは不思議そうに瞬いた。
「手元を見ようと思って」
「それは、分かるんですけど……」
セランは言いよどむ。
近すぎる。
けれど、嫌ではない。
それを見透かされそうで、顔を上げられなかった。
ウィリアルドは、彼女の赤くなった指先を見つめる。
「痛そうだ」
「大したことありません」
「俺が嫌なんだ」
まっすぐすぎる言葉に、セランは息を止めた。
この人は本当に、どうしてそんな言い方をするのだろう。
ウィリアルドは布を手に取り、彼女の指先をそっと包んだ。
あまりに自然な動きだった。
セランは一拍遅れて気づく。
「あの、手……」
「痛むの?」
「……手を、握っています」
「うん」
「うん、じゃなくて」
ウィリアルドは、セランの手を包んだまま少し首を傾げた。
その仕草に悪気はない。
「嫌なら、すぐ離すよ」
声は柔らかかった。
けれど、指先には名残惜しさが残っていた。
セランは困ったように彼を見る。
「嫌、というわけでは……ないんですけど」
「うん」
ウィリアルドは少しだけ笑った。
「じゃあもう少しだけ」
「……なんで、私にそんなよくしてくれるんですか」
ウィリアルドの笑みが、わずかに揺れた。
「知りたい?」
それ以上は、続かなかった。
続ければ、何かが壊れてしまいそうだった。
セランの胸が、小さくざわめく。
知らない人のはずなのに。
どうして、この人の声はこんなに懐かしいのだろう。
ウィリアルドは、手を離そうとした。
離さなければならない。
分かっている。
それなのに、指が動かなかった。
ようやく触れた手だった。
二年間、夢の中でさえ掴めなかった手だった。
このまま抱きしめてしまいたい。
どこにも行かせたくない。
自分の目の届く場所に置いて、寒さも痛みも不安も、全部取り上げてしまいたい。
誰にも渡したくない。
誰にも傷つけさせたくない。
君は俺のものだと、言ってしまいたかった。
けれど、その言葉を一番怖がるのは、きっと彼女だ。
ウィリアルドは、喉の奥に込み上げたものを噛み殺した。
「……ごめん」
謝ったのに、手はすぐには離れなかった。
セランは、彼の顔を見つめた。
その表情があまりに苦しそうで、何も言えなくなる。
ただ手を握られているだけなのに。
この人は、まるで長い夜の中から、やっと何かを見つけたような顔をしているから。
「もう少しだけだから」
ウィリアルドが静かに聞く。
「もう少し……だけなら」
「ありがとう」
たった一言。
それなのに、泣きそうな声だった。
セランの胸が、なぜか痛む。
逃げた方がいいのかもしれない。
知らない男性に、こんなふうに手を包まれている。
しかも相手は、
貴族、ましてや王太子様。
身分が違いすぎる。
踏み込んではいけない。
普通ならからかわれているとしか思えない。
分かっている。
それでも、不思議と怖くなかった。
むしろ、この手を振りほどいたら、彼の中の何かが壊れてしまうような気がした。
「でもほんとうに……少し、近いです」
「近い?」
ウィリアルドは一瞬、本当に分からないという顔をした。
そして、自分がかなり身を乗り出していることに気づく。
「すまない、離れたくないんだ」
セランは言葉を失った。
どうしてこの人は、甘く、切ない目で見つめてくるんだろう。
「怖かったら言って。すぐ離す」
ウィリアルドの声が、少し低くなる。
「でも、できれば……もう少しだけ、このままでいさせて」
セランは唇を結んだ。
断ることはできた。
断るべきなのかもしれない。
けれど、断りたいとは思わなかった。
「……少しだけ、なら」
そう答えると、ウィリアルドは目を閉じた。
ほっとしたように。
苦しいほど嬉しそうに。
その顔を見て、セランの胸がきゅっと締めつけられた。
初めて見るはずの笑顔。
それなのに、ずっと昔から見たかったような気がした。
***
どれくらい、そのままでいたのだろう。
水音だけが静かに落ちていた。
その時、表の方から客の声が聞こえた。
「セランちゃん、今日は南市の日だろう? あとで買い出しかい?」
常連客の声だった。
セランは裏口の方を振り返り、少し声を張る。
「はい。お店が落ち着いたら、お母さんに頼まれて行く予定です」
ウィリアルドが、わずかに反応した。
「南市?」
「市場なんです。野菜や花、それから布や小物も少し。日によって出ているお店が違うんです」
「君は、よく行くの?」
「はい。買い出しで」
答えてから、セランは少しだけ身構えた。
お貴族様にとっては、縁の無い場所だろう。
ウィリアルドは、思いがけないほど真剣に彼女を見ていた。
「そこは、君がよく歩く場所なんだね」
「え? はい。そうですけど……」
「見てみたい」
セランは瞬いた。
「市場を、ですか?」
「うん」
ウィリアルドは少しだけ身を乗り出す。
「君が見ている街を、俺も見てみたい」
「でも、本当に普通の場所ですよ。人も多いですし、貴族の方が行くような場所では……」
「僕も一緒に行っていいかな?」
その一言に、セランは返せなくなった。
下町の市場など、彼のような人が来る場所ではない。
そう思うのに、彼の目は少しも逸れない。
まるで、セランの日常そのものを大切なもののように見ている。
「……お店が早く閉まる日なら、少しだけ」
声は小さかった。
それでも、ウィリアルドには十分だった。
彼の顔が、はっきりと明るくなる。
「本当に?」
「はい。少しだけです」
「約束だよ?」
その声は、どこか幼く聞こえた。
欲しかったものを、ようやく手にした少年のように。
セランは胸が苦しくなりながらも、小さく頷く。
「……約束です」
その言葉に、ウィリアルドはどうしようもなく嬉しそうに笑った。
セランはその笑顔から、目を逸らせなかった。
知らないはずなのに。
この笑顔を、自分はどこかで知っている。
そんな気がした。
***
「……そろそろ、お戻りを」
背後から、低い声がした。
セランは驚いて振り返る。
通りへ続く角に、いつの間にかライナートが立っていた。
町人の中に紛れるような服装をしているが、その立ち姿には隙がない。
ウィリアルドの肩が、わずかに揺れた。
振り返らなくても、誰なのか分かったのだろう。
ライナートの表情は変わらない。
しかし、その目ははっきり告げていた。
これ以上は、いけません。
ウィリアルドは、ようやく自分がどれほど長くセランを引き止めていたかを悟った。
「……もう少しだけ」
「だめです」
即答だった。
ウィリアルドはわずかに眉を下げる。
そのやり取りがあまりに自然で、セランは思わずくすりと笑った。
その笑顔を、ウィリアルドは真正面から受け止めてしまった。
胸の奥が、またどうしようもなく熱くなる。
「……可愛い」
「ごほんっ」
ライナートが、わざとらしく咳払いをした。
けれど、ウィリアルドの言葉を隠すには、あまりにも遅かった。
「……失礼。少々、喉の調子が」
取り繕うような声に、セランははっとして、慌てて視線を落とした。
「……私も、そろそろ戻らないと」
「……そうだね」
ウィリアルドは頷いた。
けれど、手を離すまでに少し時間がかかった。
名残惜しさを隠しきれないその様子に、セランはまた頬を赤くする。
手が離れた後も、指先に温もりが残っている。
それが少し恥ずかしくて、セランは布を握りしめた。
ライナートが、控えめに咳払いをする。
「……そろそろ」
今度は少しだけ強かった。
ウィリアルドは苦笑した。
「分かった」
それでも、すぐには去らなかった。
セランへ向き直り、もう一度だけ柔らかく言う。
「約束、忘れないで」
「……はい」
「僕から隠れたり、しないで」
「隠れる?」
「いや…なんでもない」
「…わかりました。ちゃんと待ってます」
セランがそう言うと、ウィリアルドはまた嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、ライナートは何も言えなくなった。
王宮では決して見せない顔だった。
けれど同時に、危うい顔でもあった。
ようやく見つけた光に、今にも手を伸ばしすぎてしまいそうな。
そんな顔だった。
「では、また」
ウィリアルドが言う。
セランは小さく頭を下げた。
「はい。また」
その返事だけで、ウィリアルドの表情はさらに柔らかくなった。
セランは慌てて視線を逸らす。
これ以上見ていたら、自分の方が落ち着かなくなってしまう。
星霞亭の店内へ戻るセランの背中を、ウィリアルドはしばらく見つめていた。
扉が閉まっても、まだ視線を外せない。
「……殿下」
小さく呼ばれ、ウィリアルドはようやく瞬いた。
「分かっている」
「いいえ。お分かりではありません」
ライナートの声は静かだった。
「今のあなたは、あまりにも…」
ウィリアルドは答えなかった。
ただ、先ほどまでセランの手を包んでいた自分の手を見下ろす。
まだ、温もりが残っている気がした。
「……二年だ」
ぽつりと、ウィリアルドが言った。
「二年、探していた」
ライナートは何も言わなかった。
「目の前にいるのに、触れられない方がどうかしている」
「それでも、今は身分に差もございます」
「…分かっている」
「ならば、なおさら慎重に」
ウィリアルドは目を伏せた。
分かっている。
分かっているのに、名を呼びたくなる。
連れて帰りたくなる。
自分の知らない場所で誰かに笑いかけていると思うだけで、胸の奥が焼ける。
「……努力はする」
「努力ですか」
思わず出たライナートの本音に、ウィリアルドは小さく笑った。
「手厳しいな」
「最近、何度も痛い目を見ているので」
ライナートは深く息を吐く。
まるで止まる気配のない主を憂いながら。
次に交わした約束は、”一緒に下町を歩く”という
ただの小さな約束のはずなのに、王都の静かな均衡を崩すには、十分すぎる始まりだった。




