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忘却の花嫁  作者: あかさ


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第三四章:名を呼んだ理由

「どうして、殿下は私の名前を知っていたんだろう」


 セランは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


 先日、王太子ウィリアルドは、確かに自分を「セラン」と呼んだ。


 ただ名前を呼ばれただけなら、こんなにも胸が騒ぐはずがない。星霞亭で働いていれば、客が誰かの会話から自分の名を知ることくらいある。ミールもセージも、店の中では当たり前のように自分を呼ぶ。


 けれど、あの呼び方は違った。


 初めて口にした名前ではなかった。


 ずっと前から、胸の奥で何度も呼び続けていた名が、思わず零れてしまったような響きだった。


「セラン」


 ミールの声に、セランははっと顔を上げた。


「また皿を磨いてるふりして、考え事かい?」


「ち、違うよ、お母さん」


「その返事がもう違わないんだよ」


 ミールは腰に手を当て、にやりと笑った。


 セランは慌てて皿を棚に戻そうとしたが、手元が少し狂って、皿がかちゃんと音を立てる。


「ほら。やっぱり上の空じゃないか」


「ちょっと考え事してただけ」


「その考え事の相手が、王太子殿下ってわけだ」


「だから違うってば」


 否定した声は、思ったより弱かった。


 ミールはそれ以上からかわず、ふっと表情をやわらげた。


「まあ、気になるのは分かるよ。この前から、いろいろあったからね」


 その言葉に、セランの胸が少し沈んだ。


 この前、星霞亭の前に立っていた貴族の女性。


 自分の顔を見るなり、まるで信じられないものを見たように後ずさった人。


 恐れているようで、苦しんでいるようで、それでいて何かを必死に否定しているような目をしていた。


 あの瞳が、どうしても忘れられなかった。


「お母さん……私、あの人と前に会ったことあるのかな」


「あの貴族のお嬢さんかい?」


「うん。私を見て、すごく驚いてた。まるで……」


 そこまで言って、セランは口を閉ざした。


 まるで、自分を知っているみたいだった。


 そう言いかけて、自分でも怖くなった。


 自分には、失った記憶がある。


 ミールとセージは何度も言ってくれた。思い出せなくても、今ここにいるセランはセランだと。無理に過去を探さなくてもいいと。


 それでも、ああいう目を向けられると、胸の奥がざわついた。


 自分は、自分の知らない誰かなのではないか。


 そんな不安が、ふいに湧き上がってくる。


「似てる人でもいたんじゃないかい」


 ミールは、なるべく軽い調子で言った。


「世の中、広いからね。金髪の娘だって、青い目の娘だって、探せばいるさ」


「……そうだよね」


「気にしすぎるんじゃないよ。あんたはセラン。うちの娘だ」


 ミールの言葉に、セランは小さく笑った。


「うん」


 その笑顔は、少しだけ弱かった。


 厨房の奥から、セージが顔を出す。


「セラン、今日は無理して店に出るなよ。朝から様子がおかしい」


「大丈夫だよ、お父さん。働いてた方が落ち着く」


「本当か?」


「本当」


「なら、包丁は持つな。ぼんやりしてる時に手を切られたら困る」


「もう、子どもじゃないんだから」


「俺にとっては子どもだ」


 無骨な声で、セージは当たり前のように言った。


 セランは少し驚いて、それから照れくさそうに笑った。


「分かった。じゃあ、今日は皿運びと掃除だけにする」


「それでいい」


 ミールとセージは、本当の両親のように自分を大切にしてくれる。


 この場所が、自分の家だ。


 セランはそう思っている。


 なのに、胸の奥で別の声がする。


 ここではないどこかに、自分を知る人がいる。


 自分の知らない自分を、待っている人がいる。


 そんな気がしてならなかった。


***


 一方、王宮では、ウィリアルドが明らかに落ち着きを失っていた。


 書類はすでに片づいている。王太子としての務めに抜かりはなかった。判断も的確で、筆跡も乱れていない。


 だが、ライナートには分かっていた。


 主君の心は、ここにはない。


 王宮の窓の向こう、王都の南。


 星霞亭の方へ向かっている。


「殿下」


「何だ」


「その書類は、先ほど決裁済みです」


「確認していただけだ」


「裏面は白紙でございます」


「……念のためだ」


 ライナートは静かに目を伏せた。


「星霞亭へ行かれるのですね」


 ウィリアルドの手が止まった。


「私は何も言っていない」


「お顔に書いてあります」


「そんなはずはない」


「では、私の読み違いということで」


 あまりにも淡々とした返答だった。


 ウィリアルドは少し不満げに眉を寄せたが、否定しきれなかった。


 先日、星霞亭でセランと顔を合わせてから、胸の奥が落ち着かなかった。


 自分は、あまりにも自然に彼女の名を呼んでしまった。


 セラン。


 その名を口にした時の、彼女のわずかな戸惑いが忘れられない。


 怖がらせただろうか。


 不審に思わせただろうか。


 それとも、彼女の中で何かが揺れただろうか。


 確かめたい。


 いや、違う。


 会いたい。


 その一言を認めてしまえば、王太子としての理屈など、すべて言い訳になってしまう気がした。


「王都南部の治安状況を確認する必要がある」


「はい」


「先日の視察だけでは、民の暮らしを十分に把握できたとは言えない」


「はい」


「商業導線の確認も必要だ。特に、飲食店の人流は民の生活に直結している」


「はい」


「つまり、星霞亭へ行くわけではない」


「星霞亭周辺の視察ですね」


「……そうだ」


 ライナートは真顔で頷いた。


「では、偶然を装うため、一度反対方向へ向かってから戻りますか」


「それは不自然だ」


「では、店の前を一度通り過ぎてから、何かを思い出したように戻りますか」


「もっと不自然だ」


「承知しました。では、最初から入店されるのが最も自然かと」


「それでは偶然ではない」


「殿下。すでに偶然ではありません」


 ウィリアルドは言葉に詰まった。


 ライナートの顔には笑みひとつない。だからこそ、余計に痛い。


「お前は時々、遠慮がない」


「殿下が時々、分かりやすすぎるからでございます」


 ウィリアルドは小さく息を吐いた。


 それでも、行かずにはいられなかった。


 セランが心配だった。


 自分の言葉が、彼女を困らせていないか知りたかった。


 そして何より、会いたかった。


 その事実を、もう自分でも否定できなかった。


***


 その日の夕刻、星霞亭は夕飯時を前に少しずつ客が増え始めていた。


 セランが店先の掃き掃除を終え、暖簾を直していると、通りの向こうから見覚えのある二人が歩いてくるのが見えた。


 ウィリアルドとライナートだった。


 セランは思わず瞬きをする。


 この前も来た。


 その前にも、似たような客を見た気がする。


 そして今日もまた、彼は星霞亭の前に立っている。


 どう考えても、偶然にしては多い。


 もちろん、王太子には王太子の事情があるのだろう。そう思おうとした。


 けれど、ウィリアルドの表情があまりにも真面目で、あまりにも平静を装いすぎていて、逆に不自然だった。


 彼は店の前で足を止めると、少し間を置いて言った。


「……偶然だな」


 セランは黙った。


 後ろに控えた騎士も黙った。


 通りを歩いていた魚屋の男が、ちらりと見て通り過ぎていく。


「偶然、ですか?」


「ああ。王都南部の様子を確認していたところ、たまたまここを通った」


「たまたま」


「そうだ」


 セランは星霞亭の看板を見上げた。


 この店は、大通りから少し奥に入った場所にある。目的がなければ、王太子の視察が“たまたま”通りかかるには少々難しい。


「民の暮らしを見ることは、王太子として大切な務めだ」


「はい」


「食堂は民の暮らしに近い」


「はい」


「だから、ここへ来るのは不自然ではない」


「……はい」


 セランは必死に笑いをこらえた。


 横に立つ騎士が、静かに口を開く。


「殿下。そこまで説明されると、偶然ではないように聞こえます」


「ライナート」


 ウィリアルドがたしなめるようにその名を呼んだ瞬間、セランの手が止まった。


 ライナート。


 その名を、セランは知っていた。


 以前、星霞亭を訪れた身分を隠した客。その傍らにいた、静かな騎士の名だ。


 あの時、彼は確かにそう名乗っていた。


 主の依頼で来ている、と。


 主がこの店の様子を気にしている、と。


 あの時は、ずいぶん変わった依頼をする人もいるのだと思った。


 けれど今、その言葉の意味が別の形を持ち始める。


 主。


 その主とは、誰だったのか。


 ライナートが仕えている相手。


 目の前にいる、王太子。


 では、あの時の身分を隠した客は――。


 セランの視線が、ゆっくりとウィリアルドへ移った。


 ウィリアルドもまた、自分の失言に気づいたのか、わずかに表情を硬くしていた。


「……殿下」


「何だ」


「以前にも、こちらへ来たことがありますよね」


 ウィリアルドの指が止まった。


 ライナートは静かに視線を落とした。


 その反応だけで、セランには分かった。


「やっぱり……」


「……すまない」


 ウィリアルドは静かに言った。


「身分を隠していたことは、謝る」


 セランの胸がどきりと鳴った。


 やはり、あの人だった。


 星霞亭の隅で、何も言わずに食事をしていた、あの静かな客。


 そして、ライナートが言っていた“主”。


 自分の様子を気にしていたという、その主。


 それが目の前の王太子だった。


「どうして隠していたんですか?」


 責めるつもりはなかった。


 ただ、知りたかった。


 なぜ王太子である彼が、わざわざ身分を隠してまでこの店に来ていたのか。


 なぜ自分の名を知っていたのか。


 なぜ先日、あんなにも自然に「セラン」と呼んだのか。


 ウィリアルドはしばらく答えなかった。


 その沈黙は重かった。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


「君が……普通に笑っている姿を見たかった」


 やがて、彼はそう言った。


「私が?」


「ああ」


「どうしてですか?」


「……分からない」


 答えになっていない。


 けれど、ウィリアルドの声は嘘をついていなかった。


「分からないが、そうしたかった」


 その言葉に、セランの胸がきゅっと締めつけられた。


 この人は、自分のことを見ている。


 ただの食堂の娘としてではなく、何かを探すように。


 そして、その視線はいつも痛そうだった。


「殿下は、変わっていますね」


「そうかもしれない」


「王太子様なのに、嘘があまり上手じゃないです」


 ライナートがわずかに目を伏せた。


 ウィリアルドは少し気まずそうに視線を逸らす。


「努力はしている」


「偶然のふりも、あまり上手じゃありません」


「……それは、少し自覚している」


 その素直な返事に、セランは笑った。


 すると、ウィリアルドの表情がまた揺れた。


 切ないほど、嬉しそうに。


 セランはその顔を見て、胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


 怖い。


 この人は、自分の知らない何かを知っている。


 それでも、離れたいとは思えなかった。


 むしろ、知りたいと思ってしまう。


 この人が見ている自分は、誰なのか。


 この人が苦しそうに隠しているものは、何なのか。


「先日、殿下は私の名前を呼びましたよね」


 セランは静かに言った。


「“セラン”って。すごく自然に」


「……ああ」


「お店の誰かが呼んだから覚えた、という感じではありませんでした」


「そうだな」


「前から、知っていたんですね」


「知っていた」


 ウィリアルドは、今度は逃げなかった。


「初めてこの店に来た時から」


 セランは息を呑んだ。


 初めてこの店に来た時。


 それは、王太子としてではない。


 身分を隠した客として来た時のことだ。


「どうして、そこまで……」


 セランは言いかけて、言葉を失った。


 聞いてはいけない気がした。


 答えを聞けば、今の自分が壊れてしまうような気がした。


 ウィリアルドもまた、言えない何かを抱えているようだった。


 けれど、彼はゆっくりと口を開いた。


「君が誰であっても」


 その声は低く、静かだった。


「今ここにいる君を、傷つけたくない」


 セランは目を見開いた。


「私を?」


「ああ」


「どうして、そんなことを言うんですか」


「分からないと言えば、また君は困るだろうな」


 少しだけ、自嘲するような笑み。


 けれど次の瞬間、ウィリアルドの瞳は真剣になった。


「だが、これだけは本当だ。君が不安になるなら、私は無理に近づかない。君が望まないことはしない」


 セランの胸が揺れた。


 王太子である彼が、平民の自分にそんなことを言う。


 それがどれほど不釣り合いなことなのか、セランにも分かる。


 この人は、手を伸ばせば届く場所にいるようで、本当はとても遠い。


 星霞亭の娘である自分とは、生きる世界が違う。


 それなのに。


「でも……」


 セランは小さく呟いた。


「近づかないって言われたら、それはそれで、少し嫌です」


 言ってから、自分で驚いた。


 ウィリアルドも目を見開く。


 セランは慌てて視線を落とした。


「ごめんなさい。変なことを言いました」


「いや」


 ウィリアルドの声が、少し震えていた。


「変ではない」


 その一言が、セランの胸に落ちた。


 何かが、静かに通じた気がした。


 名前も、過去も、身分も、何も分からない。


 それでも、今この瞬間、自分はこの人に会いたいと思っている。


 この人もまた、自分に会いに来てくれた。


 偶然などではなく。


 不器用な言い訳を重ねてまで。


「殿下」


「何だ」


「私、まだ分かりません。あなたが何を知っているのかも、どうしてそんな目で私を見るのかも」


「ああ」


「でも……あなたが悪い人じゃないことは、分かる気がします」


 ウィリアルドは、息を止めた。


 その言葉だけで、救われたような顔をした。


「それだけで十分だ」


 彼はそう言った。


「今は、それだけでいい」


***


 その後、セランは料理を運んだ。


 湯気の立つスープと焼きたてのパン。


 いつもの星霞亭の料理。


 けれど今日は、いつもより手元が落ち着かなかった。


 皿を置こうとした瞬間、足元が少しもつれる。


「あっ」


 盆が傾いた。


 ウィリアルドが咄嗟に手を伸ばし、セランの腕を支える。


 ライナートも素早く盆を押さえ、皿が落ちるのを防いだ。


 ほんの一瞬のことだった。


 けれど、ウィリアルドの手が触れた場所から、セランの胸に熱が広がった。


 同時に、遠い霧の向こうで何かが揺れた。


 風。


 花びら。


 誰かの声。


 けれど、形にはならない。


 言葉にもならない。


 記憶は戻らない。


 ただ、胸だけが痛かった。


「大丈夫か」


 ウィリアルドの声が近い。


 セランはゆっくりと顔を上げた。


 緑の瞳が、自分を見つめている。


 心配そうに。


 切なそうに。


 どうしようもなく大切なものを見るように。


「……大丈夫です」


 セランは答えた。


 けれど、腕を支える手の温もりから、なぜか離れがたかった。


 そんな自分に気づいて、慌てて身を引く。


「すみません。助けていただいて」


「怪我がないならいい」


 ミールがすぐに近づいてくる。


「セラン、大丈夫かい?」


「うん。ちょっとつまずいただけ」


「今日はもう奥で休みな。朝から様子がおかしいよ」


「でも、店が」


「店よりあんたの方が大事に決まってるだろ」


 ミールの声は少し強かった。


 セージも厨房から顔を出す。


「休め。これはお父さん命令だ」


「……分かった」


 セランは小さく頷いた。


 奥へ下がる前に、もう一度だけウィリアルドを見た。


 その視線に気づいたウィリアルドも、彼女を見る。


 言葉はなかった。


 けれど、何かが確かに重なった。


 セランはまだ記憶を取り戻していない。


 彼が何者なのか、何を知っているのか、本当の意味では分からない。


 それでも、心が先に知ってしまった。


 この人を遠ざけたくない。


 この人に、もう一度会いたい。


 そう思っている自分がいることを。


***


 セランが店の奥へ下がったあと、ウィリアルドはしばらく何も言えなかった。


 ライナートが低く声をかける。


「殿下」


「分かっている」


 ウィリアルドは答えた。


「焦ってはならない」


「はい」


「彼女を、私の都合で壊してはならない」


「その通りです」


 ウィリアルドは拳を握りしめる。


 記憶は戻っていない。


 だが、彼にはもう確信があった。


 セランはクラリスだ。


 姿だけではない。


 声も、仕草も、人を見る時の優しさも、そして自分の心が彼女を求める理由も。


 すべてが告げている。


 彼女は生きている。


 だが、それを世界が信じるとは限らない。


 セランは今、星霞亭の娘だ。


 平民として生きている。


 王太子である自分が近づけば、彼女は傷つくかもしれない。


 クラリスだと証明できなければ、彼女はただの平民の娘として、王太子に近づいた女と見なされる。


 そして、そんな彼女を追い詰める者は必ず現れる。


 それでも。


 ウィリアルドは、店の奥へ消えたセランの姿を思い浮かべた。


 彼女が身を引こうとする未来が、なぜか見えた。


 自分は平民だから。


 殿下の隣には立てないから。


 そう言って、笑って離れようとするセランの姿が。


「……離さない」


 ウィリアルドは、誰にも聞こえないほど低く呟いた。


 ライナートだけが、その声を聞いていた。


 ウィリアルドの瞳には、王太子としての迷いではなく、一人の青年としての決意が宿っていた。


「たとえ彼女が何も思い出さなくても」


 彼は静かに続けた。


「私は、彼女を守る」


***


 その夜、リアナは自室で一人、窓の外を見つめていた。


 星霞亭。


 あの名を思い出すだけで、胸の奥が冷たくなる。


 あの日、星霞亭の前で見た少女。


 金糸のような髪。


 透き通った青い瞳。


 何も知らない顔で、自分を見つめ返した少女。


 違う。


 あれはクラリスではない。


 似ていただけ。


 二年前、クラリスは死んだ。


 そうでなければならない。


 何度もそう言い聞かせた。


 けれど、扉の向こうから入ってきたメイリアの言葉が、その脆い言い訳を崩した。


「お嬢様」


「何?」


「ウィリアルド様が、本日も星霞亭へ向かわれたとのことです」


 リアナの指先が震えた。


「……ウィリアルド様が?」


「はい。視察という名目ではありますが」


 メイリアはそこで言葉を濁した。


 リアナは唇を噛む。


 見間違いだと思いたかった。


 あの少女がクラリスであるはずがないと、信じたかった。


 けれど、ウィリアルドまであの店へ向かっているのなら。


 彼もまた、あの少女の中にクラリスを見ているのではないか。


 それとも、クラリスだと気づいていないまま、あの少女に惹かれているのか。


 どちらにしても、リアナには耐えがたかった。


「嫌……」


 零れた声は、あまりにも弱かった。


「あの子が、戻ってくるなんて」


 言ってしまってから、リアナは息を呑んだ。


 戻ってくる。


 その言葉を選んだ時点で、自分はもう、あの少女をただの他人だとは思えていない。


 リアナは震える手で扇を握りしめた。


 メイリアは今、自分の侍女だ。


 けれど、かつてはクラリスのそばにいた人間でもある。


 もしメイリアがあの少女を見れば、何かに気づいてしまうかもしれない。


 だから、言えなかった。


 星霞亭に、クラリスに似た少女がいる。


 その一言だけは、絶対に。


「……調べて」


 リアナは低く言った。


 メイリアが顔を上げる。


「何を、でございますか?」


「星霞亭よ」


「星霞亭……でございますか」


 メイリアの表情に、かすかな疑問が浮かぶ。


 リアナは扇を握る手に力を込めた。


 あの子のことを調べて。


 いつからあの店にいるの。


 どこで見つかったの。


 本当は、誰なの。


 喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。


「ウィリアルド様が、なぜあの店へ向かわれるのか知りたいの」


 リアナは、できるだけ平静な声を作った。


「店の評判、出入りしている者、殿下と関わりがありそうな者……それとなく確認して」


「承知いたしました」


 メイリアは頭を下げた。


 だが、その瞳には、かすかな戸惑いが残っていた。


 リアナは気づいていた。


 メイリアが聡いことを。


 だからこそ、これ以上は言えなかった。


 ウィリアルドの心が、またクラリスへ戻ってしまう。


 いや、戻るのではない。


 最初からずっと、そこにあったのだ。


 自分がどれほど隣に立とうとしても、彼の心の奥にはいつもクラリスがいた。


 そして今、そのクラリスに似た少女が現れた。


 記憶を失い、平民として生きている少女。


 それでも、ウィリアルドの心を揺らす少女。


 扉が閉まる。


 リアナは一人、部屋に残された。


 窓の外には、王都の灯りが滲んでいる。


 その向こうに、星霞亭がある。


 ウィリアルドが向かった場所。


 あの少女がいる場所。


 リアナは震える唇で呟いた。


「どうして……今さら現れるの」


 その声は、誰にも届かなかった。


 けれどこの夜、止まっていたはずの運命が、確かにもう一度動き出していた。

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