第三十三章:とまらない言い訳
「南通りを、もう一度確認する」
朝の王宮。
執務室の窓から差し込む光は柔らかく、机上に広げられた王都の地図を淡く照らしていた。
ウィリアルドは地図の上に置いた指を、ゆっくりと南通りへ滑らせる。
その先には、星霞亭があった。
ライナートは、主君の横顔を静かに見つめていた。
「南通りは、先日も視察されたばかりです」
「ああ」
「荷馬車の往来についても、すでに報告書にまとめております」
「市場周辺の混雑は、日によって変わる」
「それも先日、確認済みです」
ウィリアルドの筆が止まった。
逃げ道を一つずつ塞がれていくような沈黙が、執務室に落ちる。
ライナートは、責めるでもなく、ただ淡々と続けた。
「星霞亭の前を通る経路にされたのは、公務上、どうしても必要なことでしょうか」
ウィリアルドは答えなかった。
その沈黙こそが、答えだった。
やがて彼は、地図から目を離さないまま、低く言った。
「……理由なら、作れる」
王太子として、決して褒められた言葉ではなかった。
だが、ライナートは咎めなかった。
二年前、クラリスを失ってから、ウィリアルドは何ひとつ自分のために望まなかった。
王太子として笑い、王太子として学び、王太子として民の前に立った。
その主君が初めて、理屈にならない願いを隠しきれずにいる。
もう一度、あの少女に会いたい。
セラン。
星霞亭で働く、記憶を失った少女。
クラリスにあまりにも似た娘。
すでに彼女とは何度か顔を合わせている。
短い言葉も交わした。
そのたびに、ウィリアルドの胸は壊れそうになる。
彼女の金糸のような髪を見るたび、幼い日のクラリスがよみがえる。
透き通った青い瞳に見つめられるたび、失ったはずの時間が動き出す。
けれど、彼女は自分を知らない。
自分を王太子として見上げる。
どこか不思議そうに、どこか懐かしそうに。
その曖昧な揺らぎが、ウィリアルドをさらに引き寄せていた。
「承知しました」
ライナートは静かに頭を下げた。
「では、南通りの確認事項を整えます」
「……すまない」
「謝罪は不要です」
ライナートは、少しだけ声を低めた。
「ただし、人目のある場で踏み込みすぎませぬよう」
ウィリアルドは答えなかった。
答えられなかった。
自分でも分かっていた。
南通りへ行くのは、王太子としてではない。
星霞亭の前を通るのは、民の暮らしを確認するためだけではない。
セランに会いたい。
ただ、それだけだった。
***
同じ頃、ルーデンドルフ邸にも、その報せは届いていた。
「王太子殿下が、本日、南通りを再度ご視察されるそうです」
メイリアの言葉に、リアナは手にしていた髪飾りを落としかけた。
「……南通りを?」
「はい。市場周辺の混雑と、商人からの陳情確認とのことです」
リアナはゆっくりと椅子に腰を下ろした。
その理由が完全な嘘ではないことくらい、彼女にも分かる。
南通りは人の往来が多く、商人からの小さな陳情もあるだろう。
けれど、最近視察したばかりの場所だ。
今日でなければならない理由などない。
理由は、ひとつしかなかった。
星霞亭。
あの少女。
ウィリアルドは、またあの娘に会いに行くのだ。
「熱心なことね」
リアナは笑おうとした。
「民の暮らしを大切になさる、立派な王太子殿下だわ」
言葉は整っていた。
だが、声はひどく乾いていた。
メイリアは、そんな主人をじっと見つめる。
「お嬢様は、あの少女を恐れておいでです」
「違うわ」
「では、なぜ星霞亭に近づくなとお命じになったのですか」
リアナは答えられなかった。
メイリアはかつて、クラリス付きの侍女だった。
事故の後、責任を問われかけた彼女を庇い、ルーデンドルフ家へ引き取ったのはリアナだった。
だからこそ、メイリアには知られたくなかった。
もし、彼女がセランを近くで見れば。
もし、あの青い瞳と声に気づけば。
封じたはずの二年前が、音を立てて崩れる。
「メイリア」
「はい」
「今日は、私のそばにいて」
「……命令でしょうか」
「そうよ」
リアナは強く言った。
「外へは出ないで」
メイリアは静かに頭を下げる。
「承知いたしました」
けれど、その瞳にはもう疑念が宿っていた。
リアナが恐れているのは、星霞亭の少女なのか。
それとも、その少女によって暴かれる何かなのか。
答えはまだ分からない。
だが、何かが隠されていることだけは、メイリアにも分かっていた。
***
星霞亭では、いつも通りの昼が始まっていた。
厨房からは温かな湯気が上がり、焼きたてのパンの香りが店内に広がっている。
ミールは客席の布を整え、セージは大鍋をかき混ぜていた。
セランは店先に、小さな白い花を飾っていた。
星霞草に似た花だった。
最近、この花を見ると胸が痛む。
懐かしいような。
悲しいような。
どこか遠い場所から呼ばれているような。
「セラン、またその花か」
背後から声がして振り返ると、リオンが酒樽を担いで立っていた。
「おはよう、リオン」
「前はそんなに花なんて気にしてなかっただろ」
「そうかしら」
「そうだよ。最近、変だ」
リオンは樽を下ろしながら、少しだけ眉を寄せた。
「ぼんやりしてることも増えた」
「心配してくれてるの?」
「悪いかよ」
「悪くないわ。ありがとう」
セランが素直に微笑むと、リオンは照れたように視線を逸らした。
そのとき、店先を通る客たちの声が耳に入った。
「王太子殿下、また南通りに来られるらしいぞ」
「また? この前も来たばかりじゃないか」
「市場の荷馬車がどうとか言ってたが……ずいぶん熱心だな」
セランの手が止まった。
王太子殿下。
その響きだけで、胸の奥が小さく跳ねる。
ウィリアルド。
彼とは、もう何度か顔を合わせている。
初めて言葉を交わした日から、セランは彼の視線が忘れられなかった。
彼は、自分を見るたびに一瞬だけ表情を失う。
王太子として穏やかに振る舞っていても、その奥にある深い痛みが、ふとした瞬間に見える。
まるで、自分を通して別の誰かを見ているように。
それが怖い。
けれど、目を逸らせない。
彼の声を聞くと胸が痛む。
彼の瞳を見ると、泣きたくなる。
そして彼が去ると、追いかけたくなる。
理由など、分からないのに。
「セラン?」
リオンの声で我に返る。
「王太子が来るって聞いて、嬉しそうだったぞ」
「そんなこと……」
言いかけて、セランは口を閉ざした。
否定できなかった。
また会えるかもしれない。
そう思った瞬間、自分でも驚くほど胸が高鳴っていたから。
リオンは、その沈黙を見て小さく息を吐いた。
「……そっか」
その声の寂しさに、セランは気づかなかった。
***
昼を少し過ぎた頃、南通りがざわめき始めた。
大きな行列ではない。
それでも、王家の紋章をつけた馬車と数名の護衛が姿を見せると、人々は自然と道の端へ下がった。
ウィリアルドは馬車から降り、商人たちの話に耳を傾けていた。
あくまで視察だった。
民に王太子の姿を見せ、暮らしを確かめるための公務。
だが、それが口実であることを、ウィリアルド自身も、ライナートも分かっていた。
それでも、彼は王太子として振る舞った。
荷運びの若者には労いの言葉をかけ、店先で困っている商人には足を止め、泣き出した子どもには膝を折って声をかける。
その姿を、セランは星霞亭の店先から見つめていた。
高貴だから惹かれるのではない。
美しいから目を奪われるのでもない。
人の痛みに自然と手を伸ばせる人だから。
そのことに気づいた瞬間、セランの胸の奥が静かに温かくなった。
ウィリアルドが、星霞亭の方へ視線を向ける。
目が合った。
ほんの一瞬。
けれど、それだけで二人の間の空気が変わった。
ウィリアルドの瞳が揺れる。
セランも息を呑む。
彼はすぐに視線を戻した。
王太子としての務めを果たすために。
それなのに、セランには分かってしまった。
今、彼も同じように揺れたのだと。
そのとき、通りの端で荷馬車の車輪が石に乗り上げた。
積まれていた木箱が大きく傾く。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
セランのそばにいた幼い男の子が、驚いて動けなくなる。
考えるより先に、セランはその子を抱き寄せた。
次の瞬間、木箱が崩れ落ちる。
衝撃に、セランの身体がよろめいた。
倒れる。
そう思った瞬間、強い腕が彼女を支えた。
「セラン!」
耳元で、押し殺した声がした。
ウィリアルドだった。
彼の腕が、セランの背を支えている。
近い。
あまりにも近い。
セランは顔を上げた。
緑の瞳が、目の前にあった。
その瞳に映っていたのは、王太子としての冷静さではなかった。
大切なものを失いかけた人の、切実な恐怖だった。
「お怪我は」
ウィリアルドの声に、セランの胸が震えた。
夢の中で聞く声と同じだった。
暗い崖の下。
散った白い花。
遠くから自分を呼び続ける声。
——クラリス。
セランの瞳に涙が滲む。
「どうして……」
小さく呟いた。
ウィリアルドの腕が、わずかに強くなる。
「何がだ」
「殿下のお声を聞くと、胸が痛くなるんです」
言ってしまった。
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
通りのざわめきが遠のく。
ウィリアルドは息を呑んだ。
その一言は、彼の理性を揺さぶるには十分だった。
クラリス。
喉まで出かかった名を、必死に押し殺す。
彼女は記憶を失っている。
無理に呼び戻してはいけない。
今の彼女を壊してはいけない。
分かっている。
それでも、腕の中にある温もりが、彼をどうしようもなく引き戻す。
「セラン」
彼は、今の彼女の名を呼んだ。
その声は優しかった。
けれど、どこか泣きそうだった。
セランは目を伏せる。
「私は……殿下に、以前どこかでお会いしたことがありますか」
ウィリアルドは答えられなかった。
ある。
何度も会っている。
幼い頃から、君は私の隣にいた。
君の笑顔も、涙も、怒った顔も知っている。
そう言いたかった。
だが、言えなかった。
もし言えば、彼女の今の穏やかな日々を壊してしまう。
もし違っていたら、この少女に残酷な期待を背負わせてしまう。
ウィリアルドは、かすれた声で答えた。
「……分からない」
嘘だった。
けれど、今の彼に言える唯一の言葉だった。
セランは少しだけ寂しそうに笑った。
「そう、ですよね」
その顔を見た瞬間、ウィリアルドの胸が裂けるように痛んだ。
違う。
知らないわけではない。
忘れたことなど、一度もない。
だが、ライナートが近づいてくる。
「殿下。人目が集まっております」
現実が戻ってきた。
王太子が町娘を抱き留めている。
その事実だけで、噂には十分だった。
ウィリアルドは、ゆっくりとセランから手を離した。
温もりが消えた瞬間、セランの胸に小さな喪失感が広がる。
触れていたのは、ほんのわずかな時間だった。
それなのに、大切なものを失ったような気がした。
「助けていただき、ありがとうございました」
セランは深く頭を下げた。
ウィリアルドはしばらく彼女を見つめてから、静かに言った。
「無事でよかった」
その一言は、王太子としての礼儀ではなかった。
本当に、心から安堵している声だった。
セランは顔を上げる。
二人の視線が、もう一度重なる。
近づけば傷つく。
近づけば何かが壊れる。
それでも、目を逸らせない。
どうしようもなく惹かれている。
二人とも、もうそれを否定できなかった。
「セラン!」
リオンが駆け寄ってきた。
彼はセランの肩を掴み、ウィリアルドとの間に入るように立つ。
「大丈夫か」
「うん……大丈夫」
リオンはセランの顔を見た。
その表情を見た瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。
自分には一度も向けられたことのない顔だった。
不安げで、切なげで、それでいて、誰かを求めている顔。
リオンは分かってしまった。
セランの心が、今、自分の届かない場所へ向かっていることを。
ウィリアルドもまた、リオンを見た。
セランを守るように立つ青年。
彼女の失われた二年間のそばにいたのは、自分ではない。
その事実が、思いがけないほど苦しかった。
「殿下」
ライナートが促す。
ウィリアルドは頷いた。
去る直前、彼はもう一度だけセランを見た。
「無理はしないように」
「……はい」
セランは小さく答える。
ウィリアルドは背を向けた。
その背中を見た瞬間、セランは無意識に一歩踏み出す。
行かないで。
胸の奥で、声がした。
けれど、リオンの手がセランの肩に置かれている。
セランは立ち止まった。
ウィリアルドは振り返らなかった。
振り返れば、戻ってしまうと分かっていたから。
***
その夜。
王宮へ戻る馬車の中で、ウィリアルドは長く黙り込んでいた。
向かいに座るライナートは、主君の沈黙を待っていた。
やがて、ウィリアルドが口を開く。
「彼女は、私の声を聞くと胸が痛くなると言った」
「はい」
「記憶が、戻りかけているのだろうか」
「可能性はございます。ですが、急ぐべきではありません」
ライナートは慎重に答えた。
「彼女が本当にクラリス様であればなおさら、無理に思い出させることは危険です」
「分かっている」
ウィリアルドは目を閉じた。
分かっている。
それでも、抱き留めた瞬間、離したくなかった。
二年前に失ったはずの人が、腕の中にいた。
その温もりを、もう二度と手放したくなかった。
「ライナート」
「はい」
「星霞亭の少女の素性を、静かに確認してくれ」
ライナートは、わずかに目を細めた。
「ヴェルド夫妻との関係も、でしょうか」
「ああ」
ウィリアルドは窓の外へ視線を向けた。
夜の王都に、ぽつぽつと灯りがともり始めている。
「実の親子であるなら、それでいい。だが、そうでないなら……いつ、どのようにあの店に迎えられたのかを知りたい」
「二年前の事故との関係を、お調べになるのですね」
ウィリアルドはすぐには答えなかった。
沈黙のあと、低く告げる。
「まだ、そうと決めたわけではない」
そう言いながらも、その声はかすかに震えていた。
「ただ、知らなければならない」
「承知しました。彼女にも店の者にも不審を抱かせぬよう、慎重に確認いたします」
ライナートは深く頭を下げた。
***
その報せは、すぐにルーデンドルフ邸へも届いた。
「殿下が、星霞亭の少女をお助けになった?」
リアナの声は、ひどく乾いていた。
メイリアは静かに頷く。
「はい。荷崩れの際、少女を支えられたと」
リアナの手から茶器が滑り落ちた。
白い陶器が床に砕け、鋭い音が部屋に響く。
ただ見ただけではない。
触れた。
ウィリアルドが、セランに触れた。
リアナの顔から血の気が引いていく。
心は、記憶より先に思い出す。
それを、リアナは誰より恐れていた。
「まだ……だめ」
唇が震える。
「まだ、近づけてはいけない」
メイリアはその言葉を聞き逃さなかった。
「お嬢様」
リアナははっと顔を上げる。
だが、もう遅かった。
メイリアの瞳には、はっきりとした疑念が宿っていた。
「あの少女は、いったい何者なのですか」
沈黙が落ちた。
燭台の火が、ゆらゆらと壁に影を揺らす。
リアナは答えられなかった。
***
その頃、星霞亭の裏庭では、セランが一人、夜空を見上げていた。
ウィリアルドに支えられた腕の感触が、まだ残っている。
殿下のお声を聞くと、胸が痛くなる。
自分で言った言葉を思い出し、頬が熱くなる。
恥ずかしい。
けれど、嘘ではなかった。
あの人を見ると苦しい。
声を聞くと泣きたくなる。
離れると追いかけたくなる。
これは、恋なのか。
記憶なのか。
それとも、失った自分自身が、彼を通して戻ろうとしているのか。
「……もう一度、会いたい」
セランは小さく呟いた。
その声は、夜風に溶けて消えた。
けれど、心に生まれた想いは消えなかった。
記憶を失った少女。
彼女を失ったまま生きてきた王太子。
真実を恐れる令嬢。
そして、そばで見守ることしかできない青年。
それぞれの想いが絡まり合いながら、二年前の嘘へ近づいていく。
次にセランがウィリアルドの声を聞くとき。
彼女の中で眠る名は、もう沈黙してはいられない。




