第三十二章:動き出した刻
夕暮れが、王都エルヴェリアの南通りを淡い茜色に染めていた。
石畳の道には、仕事を終えた職人や買い物帰りの女たちが行き交い、店先からは焼きたてのパンと煮込み料理の香りが漂っている。昼間の賑わいが少しずつ夜へと溶けていく、いつもと変わらぬ王都の夕景。
その中で、ただ一人だけ、時間を止められたように立ち尽くしている令嬢がいた。
リアナ・ルーデンドルフ。
彼女は星霞亭の前で、目を見開いたまま動けずにいた。
視線の先には、一人の少女。
金糸のような長い髪が、夕陽を受けて柔らかく輝いている。透き通った青い瞳は、何も知らない無垢な色をたたえ、リアナを不思議そうに見つめ返していた。
その顔を見た瞬間、リアナの喉がひゅっと鳴った。
――クラリス。
声にはならなかった。
けれど、その名は胸の奥で鋭く響いた。
ありえない。
そんなはずがない。
クラリスは二年前、馬車ごと崖から落ちた。深い谷底へ消え、残されたのは血痕と、裂けたドレスの切れ端と、散った花だけだった。
遺体は見つからなかった。
それでも、誰もが死を受け入れた。
受け入れるしかなかった。
なぜなら、あの崖から落ちて生きているはずがないから。
なのに、目の前の少女は生きている。
呼吸をしている。
夕暮れの光の中で、まるで何事もなかったかのように、そこに立っている。
セランは、固まったまま自分を見つめる貴族らしき令嬢に戸惑っていた。
上質なドレス。整えられた髪。美しい立ち姿。けれど、その顔色はあまりに青ざめている。
具合でも悪いのだろうか。
それとも、自分が何か失礼なことをしてしまったのだろうか。
セランは慌てて背筋を伸ばし、できる限り丁寧に声をかけた。
「あの……どうかされましたか?」
その声が、リアナの耳に届いた瞬間。
胸の奥で、封じ込めていた過去が音を立てて崩れた。
懐かしい声ではない。
同じ声のはずもない。
けれど、その柔らかな響きが、かつて学園で隣にいた少女の面影をあまりにも鮮明に呼び起こした。
リアナは一歩、後ずさる。
頭の中では、何度も何度も自分に言い聞かせていた。
違う。
クラリスではない。
似ているだけ。
この世には、似た顔の者などいくらでもいる。
そうでなければならない。
そうでなければ、自分の罪も、父の罪も、二年前に葬ったはずのすべてが、もう一度この世に蘇ってしまう。
セランは、リアナの異様な様子にますます不安を覚えた。
「あの……本日はお休みの日でして……もし、お店に何かご用でしたら――」
そう言いながら、ほんの一歩だけ近づこうとした。
その瞬間、リアナの瞳が大きく揺れた。
――なぜ、生きているの?
胸の中で叫んだその問いが、理性を押し流した。
リアナは身を翻した。
「あ……!」
セランが思わず声を上げる。
だが、リアナは振り返らなかった。
夕暮れの人波を縫うように、逃げるように駆け出していく。
セランは店先に取り残され、呆然とその背中を見送った。
胸の奥に、理由の分からないざわめきが残る。
あの令嬢は、自分を見て怯えていた。
けれど、それはセランという人間を見ていたのではないように思えた。
まるで、自分の向こう側にいる誰かを見ていたような。
セランは無意識に胸元を押さえた。
その瞬間、頭の奥に一瞬だけ、白い光が走った。
揺れる馬車。
散る花びら。
誰かの叫び声。
――クラ……
「……え?」
セランは小さく息を呑んだ。
今、何かを思い出しかけた気がした。
けれど次の瞬間には、霧のように消えていた。
残されたのは、胸を締めつけるような痛みだけ。
「セラン? どうしたんだい?」
店の奥からミールの声が聞こえた。
セランははっとして振り返る。
「ううん……何でもない」
そう答えたものの、指先はかすかに震えていた。
なぜだろう。
あの令嬢を見た瞬間から、心の奥に閉ざされていた何かが、音もなく揺れ始めていた。
***
リアナは、護衛と侍女メイリアが待つ場所へ飛び込むように戻った。
息は乱れ、頬は血の気を失っている。
いつもの優雅さも、気品も、そこにはなかった。
「リアナ様?」
メイリアが驚いて駆け寄る。
リアナはその腕を掴み、震える声で命じた。
「馬車を……すぐに出して」
「ですが、まだ――」
「早く!」
その声は、命令というより悲鳴に近かった。
メイリアは一瞬、目を見開いた。
仕えて二年ほどになるが、リアナがここまで取り乱す姿を見たことはない。どれほど苦しい立場に置かれても、どれほどウィリアルドに距離を置かれても、彼女は人前では決して崩れなかった。
その主人が、今は何か恐ろしいものに追われるように震えている。
メイリアはすぐに表情を引き締めた。
「馬車を。急いでください」
護衛たちがただならぬ様子を察し、すぐに車輌を動かす。
リアナは馬車に滑り込むように乗り込み、座席に腰を下ろすなり、両手で金具を握りしめた。白くなるほど力の入った指先が、細かく震えている。
メイリアも続いて乗り込み、扉を閉めた。
「ルーデンドルフ邸へ。できるだけ早く」
馬車が走り出した。
車輪が石畳を叩く音が、狭い車内に響く。
リアナは何も言わない。
ただ、見開かれた瞳で足元を見つめていた。
メイリアはそっと羽織をリアナの肩にかける。
「リアナ様……お身体が冷えております。どうか、少し落ち着いてくださいませ」
手元の布バッグから、外出用に持たせていた温かなハーブティーを取り出す。小さなカップへ注ぐと、柔らかな湯気が立ちのぼった。
「少しだけでも、お飲みください」
リアナはゆっくりと手を伸ばした。
冷え切った指先がカップに触れる。
だが、その温かさでさえ、胸の奥に張りついた恐怖を溶かすことはできなかった。
脳裏から離れない。
金糸のような髪。
透き通った青い瞳。
そして、何も知らない顔で向けられた声。
――どうかされましたか?
どうかしているのは、自分の方だ。
リアナは唇を噛みしめた。
「うそ……」
かすれた声が漏れる。
「まさか……なんで……」
メイリアは何のことか分からないまま、ただ主人の肩に手を添えた。
馬車の外では、夕闇が街を包み始めている。窓の向こうを流れる街灯の光が、リアナの頬を一瞬だけ照らし、すぐに闇へ消えていく。
やがてリアナは、消え入りそうな声で呟いた。
「……私、どうしたらいいの」
その一言に、メイリアは胸を突かれた。
いつもの主人なら、そんな弱音は吐かない。
リアナ・ルーデンドルフは、宰相の娘として、王太子の婚約者候補として、常に美しく、強くあろうとしてきた。
その彼女が、今はまるで迷子の少女のように震えている。
メイリアには事情が分からない。
けれど、分からないからこそ、何も言えなかった。
ただ、そっと寄り添う。
「大丈夫でございます。私がそばにおります」
リアナは返事をしなかった。
けれど、その肩は小刻みに震え続けていた。
メイリアは窓の外へ視線を向ける。
遠くなっていく南通り。
小さな食堂。
店先に立っていた、金髪の少女らしき人影。
あの少女が何者かは分からない。
だが、主人をここまで怯えさせた何かが、あそこにはある。
怒りよりも先に、メイリアの胸には鋭い警戒が芽生えていた。
***
ルーデンドルフ邸へ戻る頃には、夜の帳が完全に下りていた。
リアナは使用人たちの挨拶にもほとんど反応せず、そのまま自室へ戻った。
メイリアはすぐに温かな湯を用意させ、リアナの髪をほどき、冷えた身体を丁寧に温めた。
「今日はもう、何もお考えにならずお休みくださいませ」
何度も優しく声をかけたが、リアナは一言も発しなかった。
湯に浸かって身体の力は抜けていく。
だが、心だけは固く凍りついたままだった。
寝衣に着替えさせ、髪を乾かし、寝台のそばにリアナの好きなハーブティーを置く。
「よろしければ、お飲みになってください。何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」
メイリアは深く一礼し、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞いてから、リアナはようやく寝具に身を沈めた。
部屋は静かだった。
静かすぎて、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえる。
リアナはシーツを握りしめた。
今日見たものを、何度も反芻する。
かつて親友だった少女。
いや、親友と呼ぶ資格など、自分にはもうない。
自分が消したはずの存在。
存在してはならない人物。
その影が、王都の片隅で、生きて立っていた。
「……違う」
リアナは小さく呟いた。
「あれは、クラリスじゃない」
そう口にした瞬間、その言葉の頼りなさに胸が軋む。
あの崖から落ちて、生きているはずがない。
もし生きていたなら、なぜ今まで姿を現さなかったのか。
なぜ自分に復讐しに来ないのか。
なぜ王宮へ行き、ウィリアルドの前に立たないのか。
なぜ、生きている証を見せに来ないのか。
矛盾はいくつもある。
だから、別人の可能性の方が高い。
頭では分かっている。
けれど、心が納得しない。
あの瞳。
あの髪。
あの雰囲気。
あまりにも似すぎていた。
リアナは目を閉じた。
だが、瞼の裏に浮かぶのは、あの少女の顔ではなかった。
ウィリアルドの横顔だった。
最近、彼は学園を休むことが増えていた。
王太子としての務め。
視察。
王都の見回り。
そう聞かされていた。
けれど、もし彼が星霞亭へ通っていたのだとしたら。
あの少女に会うために、足を運んでいたのだとしたら。
胸の奥に、嫉妬とも恐怖ともつかない黒い感情が広がっていく。
ウィリアルドは今も、クラリスだけを見ている。
リアナがどれだけそばにいても。
どれほど彼を支えようとしても。
彼は一度も、リアナを名前で呼ばなかった。
――ルーデンドルフ嬢。
いつも、その呼び方だった。
婚約者候補となっても、距離は縮まらない。
彼の中で、名前を呼ぶことは特別なのだ。
そして、その特別は、今も亡きクラリスのためだけに残されている。
リアナは胸元のリボンを握りしめた。
指先に力が入り、布がくしゃりと歪む。
「たとえ……別人でも」
震える声で呟いた。
「あまりにも、似すぎている」
逃げてはいけない。
知らなければならない。
あの少女が何者なのか。
クラリスなのか。
ただ似ているだけの娘なのか。
そして、ウィリアルドがあの店へ通う理由が、本当に彼女なのか。
リアナはゆっくりと顔を上げた。
恐怖は消えていない。
けれど、その奥に別の感情が生まれ始めていた。
焦り。
嫉妬。
そして、失いたくないという執着。
「もう一度、あの店に行く」
自分に言い聞かせるように呟く。
「そして確かめるわ」
リアナは唇を噛み、目を細めた。
「あの子が、“クラリス”という名に反応するかどうかを」
***
その夜。
星霞亭の小さな部屋で、セランは眠りについていた。
けれど、その眠りは浅かった。
夢を見ていた。
暗い道。
揺れる馬車。
腕の中で大切に抱えている花束。
誰かが自分の名を呼んでいる。
遠くから。
必死に。
泣きそうな声で。
――クラリス!
その瞬間、馬車が大きく傾いた。
花びらが宙に舞う。
身体が投げ出される。
冷たい風が頬を切り、視界がぐるりと回る。
誰かの声が、耳元で砕けた。
――生きて。
「……っ!」
セランは息を呑んで目を覚ました。
部屋は暗い。
窓の外には静かな夜が広がっている。
夢だった。
そう分かっているのに、胸の鼓動が収まらない。
頬に触れると、指先が濡れた。
泣いていた。
「今の……何……?」
セランは震える声で呟いた。
覚えていない。
何も思い出せない。
なのに、胸が痛い。
誰かを探していたような。
誰かに、どうしても会わなければならないような。
そんな切ない痛みが、胸の奥に残っていた。
セランは寝台の上で膝を抱えた。
夢の中で呼ばれた名を、ゆっくりと唇に乗せる。
「クラ……リス……?」
その名を呟いた瞬間、胸の奥が小さく震えた。
***
翌朝。
リアナはほとんど眠れぬまま朝を迎えた。
窓の隙間から差し込む朝焼けは、いつもより少し赤みを帯びて見える。
瞼は重く、鏡に映る顔は青白い。
それでも、身支度を整え終える頃には、昨夜のような取り乱した様子は消えていた。
少なくとも、表面上は。
自室で朝食をとりながら、リアナは無言のままパンを口に運んだ。
味はしない。
けれど、食べなければ倒れる。
倒れれば、学園へ行けない。
学園へ行けなければ、ウィリアルドに会えない。
傍らに控えるメイリアが、心配そうに声をかけた。
「リアナ様、本日は学園をお休みになられてもよろしいのではありませんか。お顔の色が優れません」
リアナは手を止めた。
ほんの一瞬、昨夜見た少女の顔が脳裏をよぎる。
そして、その奥にウィリアルドの横顔が重なった。
「……行くわ」
静かな声だった。
けれど、迷いはなかった。
「ウィリアルド様とお会いできる可能性があるのは、朝くらいだもの」
メイリアは何か言いかけ、口を閉ざした。
主人の目に、昨夜とは違う光が戻っていることに気づいたからだ。
それは安堵できる光ではない。
何かを決めた者の、危うい強さだった。
「……かしこまりました。ですが、どうかご無理はなさいませんように」
「分かっているわ」
リアナはそう答えたが、その声はどこか遠かった。
***
学園への登校路には、朝の澄んだ空気が満ちていた。
貴族の子女たちを乗せた馬車が門前に並び、制服姿の生徒たちが談笑しながら校舎へ向かっていく。
リアナはその中を、いつも通り優雅に歩いた。
背筋を伸ばし、表情を整える。
誰にも、昨夜の動揺を悟られてはならない。
ルーデンドルフ公爵家の娘として。
王太子の婚約者候補として。
彼女は常に、完璧でなければならなかった。
けれど胸の内では、何度も同じ問いが巡っていた。
ウィリアルド様は、あの子を知っているのか。
あの店へ通う理由は、やはりあの少女なのか。
もし、あの少女がクラリスなら。
ウィリアルド様は、気づいているのか。
数日前の会話が蘇る。
――何かお手伝いできることがあれば、遠慮なくお申し付けください。
――ありがとう。でもこれは、僕が自分で成さねばならぬ務めだから。
――……そうですか。
――これからも、休むことが増えるだろう。
――ええ、分かりました。
あの時、ウィリアルドの声は穏やかだった。
けれど、どこか遠かった。
リアナに向けられているようで、決してリアナを見ていない声だった。
彼は、何かを探している。
あるいは、失ったものの影を追っている。
その影が、王都の南通りにある小さな食堂で、金色の髪を揺らして立っているのだとしたら。
リアナは唇を引き結んだ。
校門をくぐった、その時だった。
前方の回廊に、ウィリアルドの姿が見えた。
隣にはライナートがいる。
リアナの胸が、一瞬だけ高鳴った。
だが次の瞬間、足が止まる。
ウィリアルドの表情が、学園で見せる穏やかな王太子の顔ではなかったからだ。
どこか焦りを含んだ、真剣な横顔。
彼はライナートに低い声で告げていた。
「今日の午後、もう一度星霞亭へ行く」
リアナの息が止まった。
ライナートがわずかに眉を寄せる。
「殿下、昨日も向かわれたばかりです。あまり頻繁に通われては――」
「分かっている」
ウィリアルドは静かに答えた。
けれど、その声には抑えきれない想いがにじんでいた。
「だが、確かめたいことがある」
リアナは柱の陰で、動けなくなった。
確かめたいこと。
その言葉が、胸に突き刺さる。
ウィリアルド様も、気づき始めている。
あの少女に。
クラリスの面影に。
そして、もし彼が本当に気づいてしまったら。
リアナの手から、すべてがこぼれ落ちる。
王太子の隣に立つ未来も。
ようやく手に入れかけた居場所も。
罪を隠したまま生きていく道も。
すべて。
ウィリアルドとライナートの足音が遠ざかっていく。
リアナはその場に立ち尽くしたまま、震える指先を握りしめた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
昨夜までの怯えは、まだ消えていない。
けれど今、その恐怖の上に、ひとつの決意が重なっていた。
今日の午後。
ウィリアルドが星霞亭へ行く。
ならば、自分も行くしかない。
その前に。
彼より先に、あの少女の正体を確かめなければならない。
リアナは小さく息を吐いた。
「……クラリス」
誰にも聞こえないほど小さく、その名を呟く。
その名は、二年前に葬ったはずの名前。
けれど今、再び運命の扉を叩いている。
リアナはまっすぐ前を見つめた。
二年前に止まったはずの刻が、再び動き出す。
そしてその針は、もう誰にも止められない場所へ向かっていた。




