第十八章:すれ違う影
その朝、星霞亭の厨房には、どこか緊張した空気が漂っていた。
「セラン、これ忘れないでね。帽子はしっかり深くかぶるんだよ」
「はいはい、お母さん。行ってきます」
「”はい”は一回」
「もう…」
セランはエプロンを脱ぎ、入り口に掛けていた薄手の上着を羽織った。
いつものように籠を持って外へ出ようとしたその時――
「……これも履いていきな」
そう言って差し出されたのは、落ち着いた色味のズボンだった。
「えっ、ズボン? これ、私のじゃ……」
「用意しておいたのさ。ほら、あの声が聞こえてから心配でね……」
「……これじゃあ、まるで男の子みたいじゃない」
「そのほうがいいのさ。目立たないってことが大事なんだよ」
セランは観念してズボンに履き替えた。
帽子を目深にかぶり、リオンが来るのを待ちながら小さくため息をついた。
「なんか納得いかない……」
「大丈夫、似合ってるさ。さ、行っておいで」
ちょうど扉が開き、リオンが現れた。
「おはよう……って、セラン? なんか……男みたいだな」
「……気にしないで」
「でも、なんか安心する」
セランは小さく頷いて、リオンと共に街へと向かった。
***
その頃、王都の街中では。
ライナート・グレイアスは、王家直属の近衛騎士でありながら、今は一人の影として、王都の路地を歩いていた。
(今日で五日目……思ったより、ずっと手こずっている)
陽光を遮る建物の影の中、彼は静かに人々の流れを観察していた。
(目立つ金髪。庶民の中に混じれば、すぐに見つかると思っていたが……)
だが、どの市場でも、どの店でも、そんな客は来ていないと口を揃えて言った。
「うちは昔から来てる顔ぶれだけですからねぇ」
「星霞亭の子ならよく来ますよ、可愛い子でね。……けど、あの子はただの食堂の娘さんですよ」
(……星霞亭。噂には聞いたことがあるな)
ある日、
ライナートは市の外れの八百屋で、ちょうど買い物をしているふたり組の若者を見かけた。
ひとりは籠を持ち、帽子を目深にかぶっている。
もうひとりは、酒樽を運ぶような太い腕をしていた。
「すみません」
そう声をかけたのは、思いつきだった。
「ここらで最近、金色の髪をした少女を見かけたことはありますか?」
リオンが一瞬驚いた顔をして、すぐに答えた。
「金髪……あー、そういう人は知らないですね」
帽子の奥からこちらを見たもう一人は、何も言わずに軽く頭を下げて、すぐに後ろへ隠れた。
(兄妹か? ……いや、男の子にしては華奢だが)
ズボン姿、帽子、そして距離。
それらが、彼女を見逃す要因となっていた。
(兄弟……だったのか? いや、待て。まさか、あれが……?)
一抹の違和感を覚えつつも、はっきりとした手がかりがないまま、時間は過ぎていった。
***
その日の夜、セランは店に戻ってからしばらくして、ヴェルド夫妻と話をした。
「リオンが言っていたけど…今日、金髪の少女を探している人がいたんだって?」
「うん、なんかこの前から聞き込みしてるらしくって」
セランがめずらしく暗い表情を見せている。
「何かされたのかい?」
「リオンがさりげなく庇ってくれたし、大丈夫だったよ。
でも、私何かしちゃったのかな…」
「もしかしたら綺麗な髪だからって、お貴族様に目をつけられたのかもしれないね」
「ええ、やだよ!私ここで働いていたいもん」
「私たちの可愛い娘を、貴族なんか渡してやるものかい」
ヴェルド夫妻は神妙な面持ちで、溜息をついた。
「リオンがいる時は、買い出ししてもいいけど、他は私がいくしかなさそうだね」
「でも、お母さん腰痛いんでしょ?」
「最近、楽させてもらったおかげか、大分よくなったよ。
それに娘の為ならなんともないさね」
「お母さん…」
セランを抱き寄せ、髪をなでる。
翌日から、セランの外出時は一層慎重なものになった。
***
ライナートは再び路地に向かう前に――
エルヴェリアの正門でリアナに出くわした。
「おはようございます、ライナート様」
「リアナ嬢。おはようございます」
「最近、お姿を見かけませんでしたが……どこかへ?」
「少々、個人的に殿下より任を賜っておりまして」
リアナはにっこりと笑った。
「……殿下のために、動いているのですね。
変わらぬ忠義、感服いたします」
「光栄です」
「……もし、殿下が何かお悩みであるなら、
どうか私にも教えていただけませんか?」
「……そのときは、必ず」
礼をして去っていくライナートの背を見送りながら、
リアナは静かに目を細めた。
(こんな頻繁にウィリアルド様から離れるなんて
やっぱり、何かある……)
リアナは胸の奥にかすかなざわめきを感じながら、それ以上問いかけることができなかった。
***
その日の午後、王宮の執務室にて。
「……殿下、申し訳ありません。もう少し時間をいただけませんか?」
ライナートの低い声に、ウィリアルドはゆっくりと頷いた。
「構わない。午後からの予定は調整しておく。君の調査が進むよう、できる限りの配慮をするつもりだ」
「……感謝いたします。ですが、ひとつ、申し上げておきたいことが」
「何だ?」
「リアナ様が……少し、様子を気にされているご様子でした」
ウィリアルドの表情が、わずかに曇る。
「リアナが……? そうか、君が僕の側を離れるのは、確かに珍しいことだからな」
「はい。彼女は鋭い方です。殿下が何かをお隠しになっているのでは、と案じているように思えました」
「……それでも、クラリスのためだ、必要なことだと思っている、
だが、無理はするなよ」
ウィリアルドのその言葉には、迷いがなかった。
「はっ。ありがとうございます。引き続き、慎重に行動いたします」
ライナートは一礼し、再び王都の路地へと向かった。
***
許可を得たライナートは、前に視線を感じた南路地の一角に腰を下ろした。
時計の針が、昼の鐘を示す。
(あの路地……たしか、あの時の兄妹がいた場所)
張り込みを続けるが、今日も目当ての人物は現れなかった。
昼を回り、そろそろ引き上げようかと思ったとき。
(星霞亭……よく話も聞くし、ここも気になっていたな)
彼はふと歩き出し、人気の食堂へと向かっていった。
通りを曲がり、あたたかな香りが漂う小さな木造の店の前に立つ。
「……腹ごしらえも悪くないな」
そう呟いて、彼は扉を押し開けた。
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