第十七章:視察の後
ディアクレス家での夕食を終え、自室に戻ったリアナは、扉を開けた瞬間に足を止めた。
窓辺のテーブルの上に、見慣れぬ花束が置かれていた。
「……これは?」
メイドがそっと近づき、微笑みながら頭を下げる。
「リアナお嬢様、こちらは王太子殿下よりお届けものです。視察先からのご使者がお持ちくださいました」
リアナの胸が、ほんの少しだけ高鳴る。
テーブルに置かれていたのは、深紅のバラの花束だった。よく手入れされた大輪の花々が、夜の部屋に鮮やかな彩りを添えている。
(バラ……)
彼女はそっとその茎に触れ、添えられた小さなカードを手に取った。
《視察初日、無事に終えました。
朝の見送り、感謝しています。
王太子 ウィリアルド・カディス》
たった数行。
それでも、そこに込められた想いに、リアナの胸は温かくなった。
「……ウィリアルド様……」
視察に向かう朝、彼は名前を呼んではくれなかった。
けれど、礼を交わし、微笑みを返してくれた。
それだけでも、彼女にとっては十分だった――そう思おうとしていた。
けれど今、目の前に届いたこの花は、それだけではなかったことを教えてくれる。
自分のことを、思い出してくれた。
見送りの言葉に、何かを感じてくれた。
そう思えることが、たまらなく嬉しかった。
「……ありがとう、ウィリアルド様……」
そっと花束を抱きしめた。
バラの香りが、胸いっぱいに広がっていく。
それはまるで、春の陽射しのように、心の奥をあたためてくれた。
(これからも、ほんの少しずつでいい。
あなたの隣に、近づいていけたら――)
***
視察から戻った夜遅く、ウィリアルドはディアクレス家の南庭を訪れていた。
白い墓標の前に立つと、風が緩やかに金糸色の花びらを揺らし、静寂が周囲を包み込んだ。
墓前には新しい
王城の庭園で育てている星霞草が添えられていた。
ウィリアルドはしばらく黙して立ち尽くし、やがてゆっくりと膝をついた。
「……今日、君の姿を見た気がした。いや、見たんだ。……けれど――」
その言葉は風に紛れ、墓前の静寂に吸い込まれていった。
「……どうして、出てきてくれない」
「ウィリアルド?」
背後から穏やかな声がして、彼はそっと振り返る。
イザベル・ディアクレスが、変わらぬ優しい笑みをたたえてそこにいた。
「……イザベル様」
「今日も、来てくださってありがとう。クラリスも、喜んでいますわ、
でも視察の帰りでしょう?無理は禁物よ」
「……すみません。なんだか、来ずにはいられなかったのです」
イザベルは彼の隣にそっと膝をつき、墓前の星霞草にそっと触れた。
「春が来ましたね。あの子は、春が大好きでした」
「はい……」
「さっきまでリアナが来ていたのよ」
「ルーデンドルフ嬢が!?」
「優しい子よね、私のことも気遣ってくれているし、
…あなたのことも心配してた」
「…はい」
「顔見せて安心させてあげなさい」
「…はい」
しばしの沈黙が流れた後、イザベルがそっと視線を向けた。
「ウィリアルド。……あの子のこと、忘れないでいてくれてありがとう」
「でも、気負い過ぎてはダメよ、
私はあの子の分まであなた達に幸せになってもらいたいの」
「……」
ウィリアルドは、目を伏せ、深く息を吐いた。
「……ありがとうございます」
***
エルヴェリア学園の朝。澄んだ鐘の音が中庭に響き、登校する生徒たちのざわめきが緑に包まれていた。
ウィリアルド・カディスは、今日も変わらぬ威厳を纏いながら校門をくぐる。その隣には、品よく制服を着こなしたリアナ・ルーデンドルフが並んで歩いていた。
「今朝は少し冷えますわね、ウィリアルド様」
「そうだね。日差しはあるが、まだ春先の空気だ」
「……あの、先日は素敵な花束、ありがとうございました」
リアナが恥じらいを含んだ声で言うと、ウィリアルドは軽く頷いた。
「視察の初日が無事に終わった報告と、朝早くに見送りに来てくれた礼のつもりだった。
少しでも気持ちが伝わっていれば、嬉しい」
「ええ、とても……驚きましたけれど、嬉しかったです」
ふと、リアナが辺りを見回しながら小さく呟いた。
「……今日は、ライナート様がご一緒ではないのですね」
「……ああ、朝の間だけしばらく別件で動いてもらっている」
ふと、リアナが辺りを見回しながら小さく呟いた。
曖昧に返すウィリアルドの言葉に、それ以上の問いは差し控えたが、
リアナの胸の内には、わずかな疑念が浮かんでいた。
(あの方が殿下の側にいないことなど、これまでなかったのに)
今まで順調にきていたリアナの周りに少し嫌な風が吹き始めていた。
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