第十六章:それぞれの刻
今日と明日はできる限り書いていこうと思います!
その頃、星霞亭の厨房では、息を切らせてセランが戻ってきていた。
「ただいま、お母さん!お父さん!」
「おかえり、セラン。遅かったな」
「大丈夫だったかい?人通り、すごかったろう?」
セランは少し息を整えながら頷いた。
「うん……でも、なんか、誰かが叫んでたの。
ちょっと怖くて、急いで帰ってきちゃった」
その言葉に、ヴェルド夫妻の顔がさっと曇った。
「叫び声? それは物騒だねぇ……」
「お前に何かあったらと思うと、背筋が凍るよ……」
「視察中だったから王太子様の護衛の声かなって思ったけど、
あんなに必死な感じの声、普通じゃなかったと思う」
「たとえそうでも、女の子一人じゃ危ない世の中さね」
「……これからの買い出し、考え直す時期かもしれないな」
ヴェルド夫妻が考え込んでいると
そのとき、セラン目当てで食事に来ていたリオンが、後ろからおずおずと声をかけた。
「……あの、俺、時間ある日は……一緒に行こうか、って……その……」
「まぁ、リオン!」
ヴェルド夫妻がぱっと顔を明るくし、リオンの肩をぽんぽんと叩く。
「頼もしいこと言ってくれるじゃないか!」
「でも、毎日は無理だろ? 学校もあるし、仕入れの時間もまちまちだから……」
「うん、だからできる限りにはなるけど……」
セランは、ぽかんとしたあと、ふっと笑い声をこぼした。
「もう、みんな大げさだよ~。ちょっと声が聞こえただけで、何もなかったってば!」
ヴェルド夫妻が首を横に振り、断固として認めない。
「念には念を入れておくれ。
セランの髪は目立つのかね。帽子で隠すとかどう?」
女将さんの提案に親父さんが納得し、付け加える。
「だったら……さらにスカーフも巻いたほうがいいかもな? それとも、男の子の格好でもした方がいいか?」
流石にセランが止めにかかる。
「お父さん、それはさすがにやりすぎだよ!スカーフは季節によっては目立つし、
なんで私が男装しなきゃいけないの……」
「じゃあ、どうするんだい。金の髪なんて、そうそう見かけるもんじゃないからなぁ」
「わかったってば。とりあえず明日からは帽子をして髪をしまうようにするよ」
「…それにズボンも履けば…ちょっとは目立たなくなるかね」
「…まったく、何の変装だか……」
家族のような、どこかコントのようなやり取りに、リオンも思わず笑っていた。
これ以上はキリがないのでセランが話を打ち切る。
エプロンをつけ直し、明るい声で言った。
「とりあえずその話はおしまい!
さ、夜の営業に備えて動こっか。今日もお客さんいっぱい来るよ!」
ヴェルド夫妻は顔を見合わせて微笑んだ。
セランが厨房へと戻ろうとしたその時。
ふと、何かが胸の奥で揺れた。
(……あの声……)
叫び声の記憶が、不意に心の中で蘇る。
何かを強く、必死に求めるような声。
どこか、懐かしいような――
遠い昔に、自分も呼ばれたことがあるような、そんな響きだった。
セランは振り返らず、ただ小さく首を振って、厨房へと歩みを進めた。
(気のせいだよね、きっと……)
***
その頃――
エルヴェリア学園の一角では、午後の授業を終えたリアナ・ルーデンドルフが、静かに馬車に揺られていた。
目的地は、ディアクレス家の南庭にある、小さな墓所。
青々とした芝の上に、白い墓標がひとつ、そっと佇んでいる。
《クラリス・ディアクレス 光のように在りしひと》
花瓶には新しい星霞草が供えられていた。
リアナはしばし、その前に立ち、軽く頭を垂れる。
「……久しぶりね、クラリス、
ウィリアルド様とは一緒に来てたけど、一人で来るのは初めてね」
風が吹き、金糸の髪をなびかせていた少女の面影が、彼女の脳裏をかすめる。
「ウィリアルド様が……名前で呼んではくれなかったけど、
少しだけ、私を見てくれた気がするの。
……ほんの少し、ほんの少しだけでもね」
手を組み、瞳を伏せる。
「あなたが残していった場所……あなたが、いなくなったからこそ、
私が立っている場所。
……きっと、間違ってはいないと、思いたいの」
言葉に出した瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走る。
けれど、それでも彼女は言葉を続けた。
「……安心して。あなたのいた場所は、私が引き継ぐから」
その声が震えていたのは、風のせいだったかもしれない。
「リアナ?」
「イザベルおば様、もうびっくりさせないでください」
振り返ると、クラリスの面影あるディアクレス家の令夫人――イザベル・ディアクレスが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
「ふふっ、ごめんなさいね、驚かすつもりはなかったんだけど…
お墓参りにきてくれて、ありがとう。クラリスも、きっと喜んでいるわ」
リアナは、クラリスのことを決して好いていたわけではなかった。
けれど――ディアクレス夫妻のことは、心から好きだった。
クラリスがいなくなってからというもの、彼女は幾度となくウィリアルドと共にこの墓を訪れ、
打ちひしがれていた夫妻を励ましてきた。
気がつけば、夫妻からはまるで本当の娘のように接されるようになっていた。
「いえ……私のほうこそ、お邪魔をして……」
「何を言っているの、あなたも私の娘みたいなものなんだから、いつでもいらっしゃい、
よかったら、一緒に夕食を食べていかない?」
リアナは驚きつつも、微笑んで頷いた。
「喜んで。お時間をいただけるなら、ぜひ」
「よかった!じゃあさっそく家の者に支度をさせるわね」
(……私に愛情をくれる。クラリスがいた頃より、ずっと――)
リアナの母親は、彼女が生まれた時にすでに他界していた。
それゆえ、彼女の心には、幼い頃から空白のような寂しさがあった。
――誰かに、娘として求められたい。愛されたい。
だから、ディアクレス夫妻の温もりは、リアナにとって何よりも甘やかなものだった。
クラリスが残した傷跡の隙間に、少しずつ入り込むように――
彼女は、確かに“そこ”に存在するようになっていった。
夫人が静かに歩き去っていく。
その背中を見つめながら、リアナはゆっくりと振り返った。
クラリスの墓が、夕日に照らされている。
その姿を見ながら、彼女は心のどこかで、確かに感じていた。
(ありがとう、クラリス、死んでくれて)
優しい笑顔の奥に、ひっそりと、確かな炎として燃えていた。




