第十一章 夢と、風の噂
星霞亭の夜は、灯りの色も柔らかく、どこか懐かしい香りがする。
昼の賑わいが嘘のように静まり返り、
湯気の消えた厨房では、鍋や器が整然と棚に収められていた。
セランは、片付けの最後にテーブルの拭き上げをしていた。
窓の外には月が昇り、淡く優しい光を宿している。
「今日もがんばったね、セラン」
お母さんがそう言って、湯呑に温かい茶を注いでくれる。
「ありがとう、お母さん。
今日もいっぱいお客さん入ったね!」
その笑顔に、夫婦はいつもどこか胸を締めつけられる。
もしかしたら、いつかこの笑顔を手放さなくてはならないかもしれない……
だが今は、それを言葉にせず、いつものように微笑み返すだけだった。
***
その夜。
セランは布団に入りながら、遠くで犬が吠える声を聞いていた。
目を閉じると、今日のお客さんたちの顔が浮かぶ。
笑い声、料理の香り――
その全てが、彼女にとって「ここが今の居場所」だと教えてくれていた。
けれど――その夜は、何かが少しだけ違った。
***
夢の中。
濃い霧の中を、誰かの影が走っている。
声は聞こえない。けれど、確かに「誰かを求めている」感覚があった。
霧の向こうに、淡い緑の光が揺れている。
草原だろうか? 花の香りがする。どこか懐かしい匂いだ。
そして――
「……出てきて」
そう言った気がした。
声は微かで、やさしく、けれど心の奥を震わせる響きだった。
セランは夢の中で足を止める。振り返っても誰もいない。
ただ、名前のような音だけが、霧の中に消えていった。
「……誰?」
誰かを知っていた気がする。
けれど、誰なのか思い出せない。
***
「セラン?起きなさい、朝よ」
「……う、ん……」
朝の光にまぶたを開けると、窓から風がそよいでいた。
どこか、胸がざわついている。
(へんな夢……でも、あの声、なんだったんだろう)
たまに見るようなあの夢、
あまり記憶には残らないのに、心にだけは、確かに痕を残していた。
***
昼時、星霞亭はいつものように賑わっていた。
リオンもいつもどおり、黙って樽を運んで、こっそりスープを頼み美味しそうに食べて帰っていった。
そんな中、商人の一人がふと口にした。
「聞いたかい?王太子殿下が王都をぐるっと視察なさるらしいぜ。三日後だとよ」
「えっ、ほんと?」
「ほら、なんだっけ。なんとかカディス様だっけ」
「馬鹿ね、ウィリアルド様だよ。王太子殿下なんだから」
厨房でその話を聞きながら、セランは、
なぜだか知らないけど、胸が小さく鳴るのを感じた。
「……ウィリアルド殿下……」
聞き覚えのないはずの名前なのに、
まるで心のどこかが、小さく揺れたような気がした。
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