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そうしてセシアが順調に社交界に馴染み始めた頃の、ある伯爵家主催の夜会。
婚約したばかりということで、マーカスは例年よりも多くの夜会にセシアを伴って出席するようにしていた。
セシアに場数を踏ませることが最大の目的だが、単純に優秀で美貌の婚約者を自慢したい、という欲求も当然ある。彼女はマーカスの期待に十分に応えていて、今となっては控えめながら自ら意見を言うことさえあった。
彼女はこれまで生意気だ、と言われ続けた自覚もある為かなり大人しい猫を被っていてそれが落ち着いた女性という演出に繋がっていて好評である。
「セシア」
名を呼ぶと、誰かと話していても彼女はすぐに振り向いて嬉しそうにはにかむ。可愛らしくて旋毛にキスを落とすと、セシアは真っ赤になった。
「殿下、皆が見ている前ではお止めください……」
「うん、続きは誰も見ていないところでしよう」
ニヤリと笑ってマーカスがそう言うと、彼女はムッとしたように睨みつけてきたがまだ顔が赤いので可愛いだけだ。
愛されている自覚を持ったセシアは、まるで内側から輝いているかのように眩しかった。可愛いので見せびらかしたいが隠しておきたくもなってしまい、マーカスは初めての葛藤を味わう。
しかし、その日の夜会は少し妙だった。
時折視線を感じるのだ。セシアの長年のイジメられっ子としての勘が、これはよくない視線だと感じる。
大抵の貴族は好意的な視線なのだが、ふと気づくとサッと逸らされるものに何か含みを感じずにはいられない。彼女は扇で口元を隠し、婚約者に甘えるフリをしてマーカスに唇を近づけた。
「殿下、気になりませんか」
「……視線か」
当然彼も気付いていて、セシアを引き寄せながらちらりと周囲に視線を遣る。
二人はそのままダンスホールに向かい、ワルツの輪に参加した。内緒話をするにはダンスをしながらなのが最適なのは、執行官時代の知恵だ。
「……一人二人ではありませんね」
「そうだな。特定の誰か、というよりはあちこちに伝播していっているように感じるな」
くるりとターンすると、セシアは頷く。人数を絞ろうにも、どんどん視線の主が移動していくので、不特定多数、という結果しか導くことが出来ない。
「……誘い出しますか?」
セシアの瞳がキラリと輝くのを見て、マーカスは苦笑した。
「いや、直接何かを仕掛けて来るようではないから、しばらく泳がせよう」
「先手必勝では?」
彼女は不服そうだ。生まれや育ちが勿論影響しているのだろうが、元来セシアは喧嘩っ早い。
それすらも可愛く感じるのだから、恋というものは妄信的なものだとマーカスは認識を深めた。
結局その日はそのままチラチラと視線を遣ってくる者からの接触はなく、二人は気にしつつも夜会から辞することにした。
マーカスにエスコートされながら賑やかなホールを抜け、廊下を歩き外へと向かう。ふと、セシアが首を巡らせると、夜会には使用されていない棟へと続く廊下に一人の女性が立っているのが見えた。
そちらには灯りがと灯されておらずかなり距離がある為、女性が長い金髪であること以外は特徴が分からない。
なのに何故か、ふいに彼女がニヤリと笑ったのが、分かった。
「……何、あの人」
セシアが思わず声を出すと、マーカスがそれに気づいて足を止める。
「どうした」
「殿下。あの、向こうに女性が…………あれ?」
彼に訊ねられて目を離したのは一瞬。セシアがマーカスと共に再度薄暗い廊下の方を見た時には、その場には誰も見当たらなかった。
「女性?メイドならば客に姿を見せないように、使用人通路に入ったのかもしれないな」
貴族の屋敷のあちこちには使用人用の通路が存在し、それらは主人や客に姿を見せないように仕事をこなすことに使われる。初めてこの屋敷に来たセシアから見て、忽然と人が消えたように見えても不思議はない。
が、
「…………ドレス姿で、金髪でした」
「うん?」
マーカスは眉を顰める。
大勢の招待客が行き交う屋敷の中だ。ドレス姿の女性一人、気にする方が過敏だと普通なら思うだろうけれど、彼はセシアの勘の良さを評価している。
二人は付き添いの従僕や護衛と共にそちらに向かい、廊下に灯りを点けて確認してみたがその女性の姿はなかった。屋敷の従僕によると、使用人通路は勿論この廊下にもあるがそれを知る使用人達の中に金髪の女性はいないという。
「……ごめんなさい、殿下。私が少し……神経質になっているだけかもしれません」
「お前の感覚は信用している。だが、まぁ確かにこれ以上はどうしようもないな」
セシアが詫びると、マーカスは首を振って応えた。
改めて外に向かう廊下をマーカスと連れ立って歩きながら、セシアは何故かどうしようもなく件の女性が気になっていた。
その後も夜会や茶会で視線を感じるといったことは続き、何人かは見知った顔もあったが彼らに共通点はない。その一方でセシアがあの夜見た女性は、再び現れることはなかった。
好調とはいえセシアはまだ不安定な立場である為、マーカスは念の為救援を頼むことにした。
「……で、その救援がこちらですか」
数日後。夜会前にマーカスの執務室に呼ばれて赴いたセシアは、僅かに固い表情で救援の人員を見遣った。
「何だよ、なんか不満そうだなセシア」
そう言ったのは騎士の正装に身を包んだフェリクスで、その隣に立っていたドレス姿の女性がぎょっとして慌てて彼の足をピンヒールで踏んづけた。
「いってぇ!!」
「馬鹿先輩!この方、王子妃になる方ですよ!?」
金の長い髪を華やかなリボンで結った彼女をセシアは初めて見るが、フェリクスを先輩と呼んだところを見ると以前キースの言っていた今年入った新人の女性執行官なのだろう。
「はじめまして、セシア様。私はエイダ・エイダンと申します」
綺麗なカーテシーにセシアは頷いてみせた。確か平民出身だとも聞いているので、髪の色は魔法で染めているのだろう。
エメロードの貴族は金髪の者が多く、国王や王妃、王太子なども勿論美しい金髪だ。
だが一方で他国からの移住者や貿易で訪れる者も大勢いる為、マーカスのように異国の血を引く者の鮮やかな髪色も珍しくはなかった。
平民になるともっと様々な色彩を持つ者がいるが、その中でセシアの黒髪は珍しい。黒は色として強すぎてセリーヌと偽っていた時は色粉などでは隠し切れなくて、魔法で髪の色を変えていたのだ。
「……よろしくね、エイダ」
今までのセシアならば、敬称は不要だと告げたりもっと親しく話しただろう。けれど今の彼女は既に男爵であり、今後王子妃になる身。
元同僚に貴族として振る舞うことは気まずかったが、相応の振る舞いをしなくてはならない。
そう考えると、以前レインに言われた“二課はもうセシアの居場所ではない”という言葉に改めて胸が痛くなった。
「セシア」
ふわりと手を握られてセシアは顔を上げる。マーカスが優しい瞳で見つめてくれていたので、彼女の心は随分と慰められた。
「……よろしくお願いします。フェリクス、エイダ」
セシアが落ち着いてそう返すと、エイダは心得たとばかりに頷いたがフェリクスは変な顔をした。
彼女の殊勝な様子が、喧嘩仲間のフェリクスにはどうにも居心地悪いのだ。




