遠い尾張
梅の花がほころび始めるころある噂が流れてきた。
尾張の守が危ないらしい。あるいはもう死んだとか。
織田信秀が死んだ。
そんな噂が次郎法師のもとにも流れてきた。
「織田信秀って誰です?」
お花はそう次郎法師に尋ねる。
薙刀の稽古の後、周囲の男たちの深刻な顔を思い出していた。
「私もよくは知らないのだが、どうも今川ではこれが好機と思っているらしい」
「でも尾張って遠いですよねえ」
井伊谷近辺からろくに出たことのない次郎法師とお花にとっては、尾張は遠すぎる国だった。
「次郎法師様、春とはいえ、まだ冷えます、汗をおぬぐいになってください」
お花は次郎法師に手拭いを差し出した。
しかし、南溪法師のもとに、直平や直盛が集まり、深刻な顔で話し合っている。
織田信秀、国人から、大名へと出世した数少ない成功例だった。
信秀に代替わりしてから、徐々に織田は力をつけ始め、今川をも脅かすほどになっている。
実際、幾度かの挑発行為を行っており、その一つがかの有名は松平竹千代誘拐事件だ。
今川預かりになるはずだった、松平竹千代を連れ去り、織田家の人質にしてしまった。
その他、駿河湾の交易の妨害など、織田にかかわるもめごとは推挙にいとまがない。
その織田信秀が死ぬ。
「どうやらいろいろと企んでいるようだな」
織田家は子沢山の家系だ。
信秀自身も男子だけで十数人の子供を持つ。そのため跡目問題が勃発しているのだ。
長男と、正妻腹の三男。そして弟達、それらが覇権を争い、尾張は血で染まるのではないかというのが大方の予想だ。
最有力とされる三男がとてつもない愚か者だという噂もあり、これから確実に尾張は荒れる。
「今川が終わりに気を取られ、こちらにまで手をまわさなくなる可能性も高いが」
直平は難しい顔をして、地図を見ていた。
「おそらく、今川は尾張を取りに行くでしょうな」
直盛も顔をしかめる。
今はまだいい、しかし、このまま終わりが今川の手に落ちれば、今川はさらなる飛躍を遂げるだろう。
「もう少し、生きていてほしかったが」
直平はそう言いつつため息をついた。
いずれにしろ、遠く離れた尾張のことなどと三人には言えない。
しかし、その尾張の騒ぎが、どのような形で井伊にかかわってくるのかはまだわからないが、ろくでもないことになる木がした。
その予想は当たるが、その時までにはまだ時間がかかる。
その間、今川は跡目を継いだ三男信長に対し、反旗を翻すように親族を買収や唆しを続けてきた。
その時はまだ平穏だった。少なくとも井伊の領内では。
形だけの平穏な時間がただ過ぎていく。




