虎御前
埃一つなく磨き上げられた廊下、華麗な襖絵、見事な欄間。
相も変わらず豪華絢爛な城だ。
以前来た時と何も変わらない。
城は変わらなくとも、人は変わる。
次郎法師あらため次郎は直垂姿で廊下を歩く。
かつて尼僧の姿で父の後ろ姿を見送った。あの時いた人達はほとんどが逝ってしまった。
しばしの追憶とともに次郎法師はため息をつく。
そして大きく息を吸った。
小野を出し抜いて駿河に参った。それは井伊家の家臣団が一丸となってのだまし討ち、それを乗り越えて次郎は駿河の城にいた。
男髷に揺った髪を侍烏帽子で覆い、地味な色の直垂姿は小柄な男と見える。
元々の地味な顔の作りもあるが、まったく違和感はない。
そのことにも何とはなしに複雑なものを感じた。
次郎が通された部屋で待つことしばし、氏真が現れた。
以前、見かけた時よりも当たり前だが老けて、少しだけやつれていた。
そしてさらに変わったのが傍らの寿桂尼だった。
一回り縮んで、年齢だけではない衰えを感じさせる。かつて若い女だった次郎よりもろう炊けて見えたその姿は見る影もない。
胡坐をかいた姿勢のまま次郎は一礼する。
「井伊次郎にございます」
次郎は一言宣言した。
「何のたわごとだ」
氏真は吐き捨てるようにわめく。
「おや、出家されていた井伊家の直系が、還俗し、家督を継がれるのです、それのどこがおかしいのですか」
背後の家臣たちが口々に言う。
「しかし、女であるぞ」
氏真の言葉に鈴木が答えた。
「ならば、越後の虎御前はどうなされる?」
越後の虎御前、元は長尾の家の当主であったが、上杉の養子分となり、現在は上杉輝虎を名乗る。
その名を出されれば、氏真は引っ込まざるを得ない。
かつて、膠着した川中島の戦いを今川の仲裁でおさめたことがあった。
その際、現れた、長尾景虎(上杉謙信の旧名)は竹田と今川の家臣の前にさっそうと現れた。
赤い辻が花染めの小袖には金糸銀糸の刺繍が施され、艶やかな垂らし髪、唇と頬に紅を差し。当時、二十歳を少々過ぎたばかりの幼顔の女人。
それが長尾の当主と知ったとき、その有様を見た今川義元はのちにこう語ったという。
人の顔色があそこまで劇的に変わるのをはじめてみたと。
武田の家臣団は最初は青白くなったその顔は、たちまち屈辱に深紅に染まった。
女首は恥さらしという言葉がある。戦場に女が現れることは珍しいことではないが、わざわざその首を欠くなど恥以外の何物ではないという意味だが、むろんそれは建前だ。
女だてらに戦場に赴くとあれば、男に負けない武勇と、男が到底及びもつかない残虐性を兼ね備えた存在だ。
そんな存在と戦って手柄にならないなどはなはだしく大損害だ。そのため女武者とみれば逃げるものが多い。
ともあれ、うちとっても恥とされる女に率いられた軍を打ち破れなかった。これほどの恥はない。
翻って、越後勢にしてみれば、女であっても武田と互角に戦える存在だと印象付けた。もはや女が当主であることは隠す必要のないことだ。
そして女を打ち破れない武田と武田の同盟者である今川に印象付けたのだ。
越後の虎御前の名は竹田をおもんばかって極力口に出さないことになっている。その名を出したのだ。
「前例がございます以上、この方を否定できるのですか」
現在武田との関係が微妙になっている今、越後の上杉は氏真にとって気になる存在だ。その当主虎御前と同じと言われれば断ることができない。
そのことも把握して次郎を井伊の当主に押し込もうというのだ。
いきなり上杉謙信が女ですが、実はあれ、井伊直虎って長尾景虎をパクったんじゃないのと思ったのが元ネタなんです。




