毒婦
天幕の中、井伊直平は過去のかなたをを振り返っていた。
織田は異常だ。信秀と信長、たかが親子二代で、ここまでのし上がれるものかと思う。
今川ですら、ここまで来るのに、三代かかった。
戦国の世とはいえ、始まりは、絶対権力を誇っていた室町幕府の弱体化とそれに伴う暴動のようなものだった。
ただ目先の利を奪い合うだけの百年。
百年かかって少しずつ、世の中は変わっていった。
そして直平の知らない世界が今まさに幕を開けようとしている。
「いったい、何が起ころうとしているのか」
これまでの経験に頼れないということが直平には恐ろしかった。
いきなり慌てふためいた部下がやってくる。
「大変です、火災が起こりました」
いきなり言われたことに頭がついていかない。
「火災とは何のことだ」
「いきなり火の手が上がって」
聞いていても埒が明かないと天幕を出る。
火の手は確かに上がっていた。それも想像よりはるかに激しく。
「いったい何が起こったのじゃ」
狼狽する直平に思わぬ声が聞こえた。
「井伊が謀反じゃ」
「井伊が火をつけたぞ」
その声を信じられない思いで直平は聞いていた。
氏真は、軍勢を率い、井伊直平のもとに向かった。
直親の例もある、井伊に対する信頼など、氏真にはなかった。
氏真は、早々に井伊の軍勢をつぶせと、命じた。
友軍であったはずの今川軍が、自らに押し寄せてくるのを直平は信じられない思いで見ていた。
委員軍勢はあまりに少なく多勢に無勢。勝敗は見えていた。
「打ち払え」
氏真の言葉はあまりに絶望的だった。
直平の脳裏にほんの少しだけ、この状況下で、友軍を襲う氏真の愚かさを憂う気持ちがわいた。しかし今は自分たちの命のほうが重要だ。
この状況下でいかに生き残るか。
結局、考えても無駄だったが。
飯尾連龍も、氏真が井伊を襲ったとの報を受け、そっとほくそ笑んだ。
「うまくいったな」
傍らの妻を見る、お田鶴もにっこりと笑って、夫にそっとにじり寄ってきた。
「ええ、これですべてがうまくいきます」
するりと懐に入った妻を抱き寄せる。
「ええ、貴方」
お田鶴が隠し持っていた懐剣が、胸を貫いた時、それを信じられない目で見ていた
「貴方が織田に着こうとしたこと、氏真様に報告させていただきます」
お田鶴はあでやかに笑う。
「ええ、許されることではありませんね、織田に着こうなど」
お田鶴の表情に、隠しきれない憎しみが映る。
それは、織田に対してか、夫に対してか、すでに自分でもわからなくなっていた。
「この城は私がいただきましょう、どうぞご安心を」
床に倒れた夫を見下ろして、お田鶴は笑った。




