吊り橋谷 4
「――黒、上っ!」
谷川の奏でる水音を切り裂いて告げられた警告。背に宿したカラスの翼を広げ急制止をかければ、その鼻先を黒い何かが横切った。
「あーあ、奇襲失敗、か」
気怠げな声で、けれどあまり落胆した様子もなく言い放ったのは女――吊り橋にいた二人組の片割れ。相変わらずの表情の乏しさ、旅人風の身なり等その姿はさして変わっていないが、大きく変わっている点が一つ。
背に生えた、闇色の両翼。
「……コウモリ?」
「正解よ。カラスの兄さん」
ぽつりとこぼれた言葉に皮肉げに返し、両手に持ったナイフを投擲。
「――っ!」
「え、ちょ、わわわっ?!」
襲い来るナイフを翼を動かしかわす。両手が塞がっているこの状況で、たたき落とすなどできるはずもない。
「あの人、さっきの女の人よね? 飛べたのっ?! ていうか、何でっ」
風が疑問の言葉をあげるが、コウモリ女は答えることなく皮膜の翼をはためかせる。
「わっ、また来たぁ!」
「――くっ」
闇の中、迷うことなく迫るコウモリ女をどうにかかわす。こちらの脇をかすめ去り、前方で羽を広げ方向転換――岩壁に挟まれた谷は薄暗い上、さして広さのある空間ではないというのに、その動きは迷いがない。下手に飛び回りでもすれば岩壁に衝突しかねないというのに……
暗闇も狭さもものともしない、流石はコウモリの《変化》といったところか。
「……そのまま相手の動きに警戒してくれ」
「え? あ、うん――で、でも、あたしも飛んだ方が黒も身軽に動けるし、それに武器だって使えるし、飛んだ方が」
少しでも距離を取ろうときびすを返す中、風がそんな声を上げる。
確かに、両腕が塞がった現状では逃げの一択しか選べないが――
「……だめだ」
「なんで?!」
「……飛べるのか。この闇の中で」
苛立ちを隠そうともしない風にそう言葉を向ければ、図星を付かれたのだろう、押し黙る。
コウモリ女の動きに気づき、警告の声こそあげる事のできた風だが、その実この闇の中では相手の姿が見えているのか怪しいところである。
というのも、鳥目という言葉が示すよう|《空人》(シエロ)には鳥目――つまり闇の中で視界の利かない者が多い。
風の《変化》はハト。多くの|《空人》(シエロ)の例に漏れず、闇の中での飛行をしない獣を身に宿す。その影響は《変化》していない状態でも多かれ少なかれ現れる。
恐らくだが、彼女は今、周囲の様子をあまり把握できないのではないだろうか。奇襲に気付くことが出来たのは、相手が俺の死角から――頭上から襲ってきたからであり、それがたまたま明るかったからというだけの理由ではないのか。
「それは……そうだけど。なら、黒だって同じでしょ? だって、黒も|《空人》(シエロ)じゃない」
「……問題ない」
言葉の勢いこそ緩めたものの、納得できないのだろう食い下がる風にそう返す。
先ほど多くの|《空人》(シエロ)は鳥目だと言ったが、いくつか例外は存在する。例えば夜行性の鳥類を宿す者などは夜間飛行も問題なく、他にもコウモリ女がそうであるように暗い洞窟を住処とするコウモリを宿している場合もまたしかり。
そして俺も、そんな例外に数えられる獣を宿す一人。
人里や街の中などで見かけることが多いカラスだが、その本来の生息域は薄暗い森の中だ。季節によって虫、木の実、小動物や死骸など様々なものを薄闇の中から見つけだし食料とする。
故に、フクロウやコウモリのように真の闇こそ得意としていないが――鬱蒼とした森程度の薄暗さなら、飛行に支障をきたさない。
幸いにも日が高いところにあるのだろう、谷間にはある程度の日光が差し込んでいる。勿論十分に闇を払うほどではないが、宿す獣の性質に加え日頃から夜間に活動をしている俺からすれば、十分な視野を確保可能な状況だ。
「ちょこまかと、ただの鳥の癖によく逃げる!」
こちらの動きが予想外だったのだろう。苛立たしげな口調。
フクロウやコウモリが闇の中で動き回れることは有名だが、カラスはあまり知られてない。そのことが幸いしての形だが――はたして、それだけでどこまで行けるか。
「……行くぞ」
「へ? え、ちょ――」
合図もそこそこに、背中の翼で気流を捉える。急な加速に風が抗議の声を上げるが、生憎構っていられるほどの余裕はない。
こちらの加速に合わせ、コウモリ女もまた速度を上げる。やはりというべきか、一人と二人とでは速度が違う。やがて距離を積めたコウモリ女は手に持ったナイフを投擲するが、風の指示に従いこまめに体勢を変えることでやり過ごす。
当てることはあきらめたか、それでも進路妨害のため投擲を止めないコウモリ女を撒くように、谷底から付き出す岩の間を縫うように進路を変更。谷底を流れる急流により、長年かけて削られたであろう岩達はさながら深い森を構成する樹の幹のように乱立する。こうも障害物が多くては投げナイフもあまり役には立たないだろう。
もっとも、その分要求される飛行技術はいわずもかな。次々と迫る岩に一度でも衝突すれば、それだけで重傷を負うのは明らかだ。
しかしコウモリ女の飛行能力もさること、迷うことなく危険地帯へ滑り込む。ひらりひらりと岩を避け、迫り来る気配にたまらず岩を蹴って方向転換。障害物のない上空へと飛び出る。
当然のように反転し、同じく危険地帯を飛び出したコウモリ女は再び速度を上げる。その機敏さ、反応の早さは常闇の洞窟を塒とする獣の面目躍如といったところか。
対するこちらはカラス。障害物の多い森の中で飛ぶことを得意としているとはいえ、正直コウモリよりも小回りは利かない。
――このまま逃げきれるか? だが……
機敏な動きに目を見張るものもあるが、おいそれと後れを取るほどではない。それに相手の《変化》はコウモリ。流石の機敏さを持つ反面、持久力ではこちらに分がある、はず。
だがそれだけで安心など、到底出来ない。
谷に入った襲撃者がコウモリ女だけとは限らない。それに逃走先で待ち伏せなどされている可能性も否定できはしない。
考えすぎだとも思えるが、しかし谷から見上げた空にずらりと並ぶ弓を引く者達の姿を目にしている以上、不安は尽きない。符術という手札を切ることが出来ないのも、下手に使えば更なる的を呼び寄せかねない危険性からだった。
「――黒!」
思考を断ち切ったのは、耳元で上がる風の悲鳴。同時に、背に走るかすかな痛み。どうやらあれこれ考えを巡らせることに予想以上に思考を割いていたのだろう、わずかに速度を落とした隙を見逃さず、一気に詰めに入った……というところだろうか。
「いい加減、諦めたら?」
「諦めるってなによ! 訳わかんないっ! だいたいあなたね、何でこんなコトするのよ!」
さながら獲物を追いつめる狩人のよう、どこか優越感を滲ませるコウモリ女に対し、風は果敢に吠える。
突然橋を落とされ、追い打ちをかけるように悪意に晒されているというのに怯え一つも感じさせないその姿は、何とも頼もしい限りだ。
「理由が判ってない……? あぁ、そういえばそんな予想も……」
「ちょっと! 何の事よ?」
「別に。必要ないでしょ、どうせここで終わるもの」
風の言葉に訝しげに首を傾げていた姿を一転、コウモリ女はそう言い捨てると更に速度を上げる。追いつかれまいと速度を上げ――違和感。僅かな痺れが翼の動きを阻害する。
――まさか、先ほどの?
じわり、と嫌な予感がわき上がる。気のせいか、翼にまとわりついた重みが増したような気さえしてくる。こちらの焦りに気づいたかのよう、悠然と追すがるコウモリ女に、嫌な予想は肯定された。
先ほどの投擲武器に、毒が塗られていたのだろう。今はまだ飛行することも出来るが、どのような毒が塗られていたかによってはもはや一刻の猶予もない――
風に自力で飛んでもらい、反撃に出る? ――この闇に放り出してはたして飛ぶことが出来るのか? 格好の的を作ってしまうだけではないのか?
毒が回らぬ内に逃げ切る? ――速度差がない現状、振り切るどころか追いつかれない用にするのが精々だというのに?
焦りが思考を回すものの、これといった打開策を見いだす事が出来ない。無力感を噛みしめながら、ならばせめて風だけでも逃がすべく動こうとした、その矢先、
――そのまま、真っ直ぐ飛んで!――
「――っ?!」
何処からか、声。
谷川のうねりや風鳴りの響く中、聞こえてきた確かな言葉。咄嗟に風へ視線を向けたが、彼女も声を聞いたらしく戸惑いを露わにしていた。
「え、あれ、今のって……?」
意味ある言葉は、つまりは第三者の声という事。しかし背後に迫るコウモリ女以外、この場に人の姿は無い。様々な音が混ざり合う谷間において、人の声などよほど近くなければたやすくかき消されてしまうというのに。
一体何処から? 疑問に首を傾げる間も声は指示を繰り返す。耳元に直接、いやまるで頭の中に直接たたき込まれているようにすら思える声。そしてその声音はけして聞き覚えのないものではなく――
闇の中目を凝らせば、前方に再び岩が付き出す危険地帯が映る。指示に従うのなら、再びあの危険地帯へと突入することになる。
翼の重さが増す中、機敏な動きを要求される障害物の多い場所に入り込むなど自殺行為もいいところだ。しかし障害物が多いということは、最悪それが足場になるということでもある。
万が一《変化》を維持できなくなったとしても、真っ逆さまに落下するのではなく、多少足場も有れば川への転落も遅らせられるだろう。勿論着地できず――という事も十二分にあり得るのだが。
最悪そこで《変化》を解き、風を逃がす時間を稼ぐ程度は出来るかも知れない。
意を決し、危険地帯へ向け速度を上げる。とはいえ重さの増した翼では加速することは難しく、滑空を利用した加速でしかないのだが。
「また面倒なところに逃げ込む気? その程度、通用しないと学ばないの」
背に向けられる、呆れたような言葉。コウモリ女は言い捨てると、翼をすぼめて同じように加速。獲物を追い詰める狩人のように、その声には呆れと共に愉悦も浮かぶ。
闇の中、限られた空間という、己が持つ《変化》を生かすに十分な環境。手負いの上、他者を抱えたまま逃げる標的。圧倒的に優位である状況が、嗜虐心をかき立てているのだろう。
「ほぅら、そんな状態の羽じゃ、自滅して終わり――え?」
圧倒的優越感を滲ませていた声はしかし、戸惑いに変わる。
「なん、で。ぶつかったは――」
そして続く言葉は半ばで断ち切られる。
谷間を吹き抜ける風音に混じり、聞こえてくるのはナニカが硬いものへと衝突した鈍い音。
「え……」
「……何があった?」
後方の警戒に当たっていた風が呆然とした声を漏らすも、危険地帯を飛ぶことに集中している俺には事態の推移が掴めない。いや、コウモリ女の声が不自然に途切れたことや風の様子からするに、目に見える驚異が取り除かれたのだろうと予測することは出来るのだが――
「えっと……あの、さっきの人が追っかけてきてたのは判る……よね?」
「……ああ」
「そのね……なんか自分からそこらにある岩の一つにぶつかってった」
「……は?」
風の口から語られる状況は、しかしそう易々と理解できるわけではなくて――
「いや、うんその反応は判るけど……解るけど。あたし、嘘なんてぜんぜんこれっぽっちも言ってないわよ?」
「……それは、判るのだが」
こちらの反応に半ばふてくされたよう、気まずさを感じさせる声で風。勿論彼女を疑うつもりは微塵もない。そもそも、こんな状況で嘘を付く理由が無いだろう。……誰かなら、冗談の一つくらいは言いそうだが。
ともあれ、飛び続けながらあれこれ考えるには場所が悪い。岩の一つに足を下ろし、周囲に他の追跡者がいないか気配を探る。幸いにして他者の気配は感じられない。
しばらく息を付くことが出来そうだと安堵すると同時に、コウモリ女の身に降りかかった異常にどうしても思考は向かう。単に飛行制御をミスしただけと言うには、あまりにも不自然だ。現にコウモリ女は別の危険地帯で不規則に並ぶ岩を華麗にかわし、むしろこちらとの距離を詰めるほど見事な空中機動能力を見せたのだから。
――何がどうなっている? それに、先の声は……
そんな内心を見透かしたよう、何処からとも無く再びあの声が届いた。




