吊り橋谷 5
暗い谷の中、黒に抱えられたまま川に近づく。
吊り橋が落ちた直後、何でか知らないけれどコウモリの《変化》を持つ女の人に散々追い回されたあたしと黒はどうにか逃げ切って――というかコウモリの人が勝手に岩に衝突して? ひとまず事なきを得たんだけど。
ともかく、何がなんだか判らなくて首を傾げるあたしたちに、またあの声が聞こえてきた。
もうね、びっくりなんて話じゃない。どこかに隠れてるんじゃないかって気配を探ってみたけれど、あたしも黒も気配を全く感じられない。近くの岩陰に隠れている、なんて事はなさそうだった。
そもそもコウモリの人から逃げている最中にも聞こえてきたわけだから、近くに居るなんてことないんだろって判っちゃいるけれど……ねぇ?
だいたい、周りは風の音や川の音で五月蠅いのに、どうしてあの声だけははっきりと聞き取ることが出来るのか。そこからしてさっぱりわかんないんだから。
とにかく、またあの声が聞こえてきたのよね。耳元で直接囁かれているみたいな、頭の中に直接呼びかけているような……それでいて、水の中から呼びかけているような不思議なくぐもりのある声が。
で、その声は下に降りてきてって、そんなことを言ったのよねー。
普通ならそんな怪しさ満点の声、信用なんてしないと思う。それに今は状況が状況だし、ね。
けどあんまりにも緊迫感のない声だから、疑う気持ちもあっさり吹き飛ばされたって言うか……もう、ね。声はこっちの状況が判っているみたいだし、もしかしたらコウモリの人が何でああなったのかとか、判っているのかなって期待もあった。
そんな訳で、今ゆっくりと谷川に向かって降下しているんだけど……
「ねえ、黒……あたしも一応飛べるし、もうだいぶ下の方にも来たわけだし、急がなくていいんでしょ? 飛ぶわよ、自分で」
そう、あたしは未だ黒に抱えてもらった状態でいるのよね。自分で飛ぶって言っても聞いてくれない。
……そりゃ、あたしも鳥目だから、だからあんまり暗いところで飛ぶのは得意じゃないけど……それなら、同じ|《空人》(シエロ)の黒だって、そうよね?
あ、でもフクロウとか夜に飛ぶ鳥もいるし……さっきのコウモリの人だって|《空人》(シエロ)だけどこの暗い谷川を普通に飛んでたし……あれ? 単に|《空人》(シエロ)だからって暗いところが苦手な訳じゃないのかしら?
今まであんまり考えもしなかったことに思い至って、あれこれ頭を悩ませるあたしをよそに黒は降下を続ける。もう諦めて周囲の景色に目を向けることにした。
暗い谷は何処に底があるのか判らないくらい深く続いていたけれど、もう底の方にきたみたい。谷底を流れる流れの速い川が、かすかに届く光を反射して水しぶきをあげている。上を見れば空は遠く。視界は谷の両側にある壁にすっかり覆い隠されて、空の青は細い筋くらいを残す程度だった。
こんなに深かったんだ……
改めて、谷の深さを知ると同時に、吊り橋と一緒に落ちたはずの狼たちのことが心配になってくる。コウモリの人に追い回されてる間はそんな余裕無かったけれど……これだけ深い場所に落ちたら、いくら下が川でも無事じゃすまないんじゃ……
……怖い考えは止めよう。怖がってばっかりなんて、そんなのダメよ。嫌な予感って、憎らしいくらいに的中するんだから。
頭を降って、弱気な思考を追い払う。それに、きっと大丈夫だって思える理由があたし達にはあるんだ。
だって、あの声は――
「……そろそろだ」
「え? あ、ほんとだもう川がだいぶ近い……って、流れ早いわね……」
いつの間にか谷川のすぐ上まで降りてきていたみたいで、人一人分くらいの空間をあけて足下に激しい水の流れが見える。水のうねりがたてる音が大きくて、こうして黒と話すだけでも聞き取るのがやっとだ。
「ねえ、これって……狼達、大丈夫なの?」
「………」
つい、不安になってこぼれてしまった言葉に、黒は何も答えない。……って、ここは嘘でも良いから安心させてほしかったわ……
「とにかくっ! 探すにしても降りられる場所があるかどうか……よね」
――おーい、こっちこっち――
着陸地点を探すあたし達の耳に、例の声がまた届く。相変わらず緊張感の欠片もない声は、見知った相手の声で、
「海? あんた何処にいるのよ?」
――こっちだってばー。ああ、行きすぎたそのまま下だよ下!――
そう、くぐもっている感じがあったり妙な響きがあったりはするものの、その声は海の声そのものだったんだから。
しばらくの間、何処から響いて来るとも判らない海の声に指示されるまま、どうにかこうにか安全な岩場に誘導されたあたし達はそこに降り立つ。すぐ脇には谷川の急流が流れているけれど、どうやらこの付近は大きな岩が寄り集まってしっかりとした足場になっているみたいで、激しい流れにもびくともしない。
――ようやく来たぁ。ねー、こっちだってば、ちょっと手を貸してよ――
暗い岩場をゆっくり進むあたし達に、痺れを切らしたように発破をかける。うん、これは海だ。絶対海。幻聴にしたってこんなリアルに作ってくるとか、無いわー。
しばらく岩場を進むと、大きな岩の陰になって少しだけ流れが緩くなった水辺に見知った海の姿を見つけた。
――遅いよ、もぅ。僕待ちくたびれちゃったよ――
「この声……やっぱり海、あんただったの? でも、何かいつもと違うんだけど」
――んー、まあイロイロとね――
相変わらず耳元で直接話しかけられているような声にそう文句を向ければ、海はいつものように悪戯っぽく笑う。そんな海の姿は、けど普段通りという訳じゃなくて《変化》したものなんだろう。
水面に出ている胸から上は普段のそのままだし、顔つきだって特別変わっていない。けれど水の中にある腰から下は今ごろ普段とは全く別のものに変わっているんだろう。現に、退屈だって言うみたいに鱗がない青くて長べったい尻尾がばしゃりと水面を叩いた。
狼達の言うところによると、海の《変化》はイルカって言う海に住んでいる生き物なんだそうな。あたしは現物を見たことはないけれど、水の中にいるのに魚じゃなくてイヌやネコと同じ分類だとか何とか……はっきり言って、よく解らない。
まあ、クマだって場合によっては泳ぐし、ね? きっとそういう生き物も居るんでしょ。
――それよりも二人ともー、手を貸してよー。僕一人じゃ重くて支えてるので精一杯なんだってば――
「だから何が――って、狼?!」
見れば海の横に見慣れた頭が浮かんでいる。水に濡れてすっかりぺしゃんこになった癖毛、赤いハチマキ――言われるまでもない、狼だ。
「ちょ、ちょっと狼、それどうしたのよ?!」
――んー、たぶん落ちるときに橋桁とか頭にぶつけちゃったんじゃないかな。運悪く――
「運悪くって……ああもうとにかく引っ張り上げるわよ!」
――だからさっきからそう言ってるじゃないか――
ぐったりと動かない狼の姿に慌てるあたし達に、海はどこか呆れた調子で声をかけてくるけれど構ってなんかいられない。黒と一緒に狼を引き上げて横に寝かせる。ついでに怪我がないかざっと見てみたけれど、ずぶ濡れな以外は特に怪我らしい怪我も見つけられない。これだけ激しい流れに落ちてこれって、かなり運が良いんじゃ……
あ……でも気絶してるって事は頭打ったんだっけ? それじゃ運がいいとはいえないわよね。
狼の様子を確かめるあたし達の横で、海は一度川に潜って勢いをつけて陸地に上がる。振りまかれた水しぶきがこっちにかかる事なんてお構いなしね……
着地するまでの少しの時間で《変化》を解いて、柔らかそうなイルカの尾を人の足へと戻した海は、ネコみたいにすとんと着地した。
「あれ……海? あんた、晶と一緒じゃないの?」
そう、狼を引っ張ってきたくらいだからてっきり晶も一緒だと思ったけれど、川から上がったのは海だけだった。暗闇の中でも綺麗な太陽みたいな金髪は、何処にもない。
あたしの問いかけに海は少しだけ動きを止めて、答えを口にしないまま水を吸って重くなった服を絞る。
「ちょっと、無視?! っていうかさっきの声って何なの? いやそれよりもあの女の人、何であたし達を追っかけてきたりなんかして――どうなってるのよ、一体!?」
あんまりな海の態度につい、それまでの数々の理不尽な状況も相まって責め立てるような口調で詰め寄ってしまう。
――周りが五月蠅いところだからね、伝達手段に少し細工を。コウモリ女がああなったのは、その応用みたいなもの、かな――
「は? それって……」
――説明はちゃんとするよ。今は、まずはちゃんと安全が確保できる場所に移動した方がいいと思うけど?――
八つ当たりのようなあたしの言葉に対する返答は、至極真っ当なものだった。……ただ、いつもは何かとからかってくる海がこんな事を言うのに面食らってしまって、この時のあたしは違和感を感じることも言い返すことも出来なかった。
ぐっと押し黙るあたしを置いて、海はきょろきょろと周囲を見回すと、やがて何か見つけたのかしっかりとした足取りで歩き始める。
あたしも黒も、呆気に取られる一方でいつまでもここにいるわけにはいかないのは判っている。顔を見合わせて、気絶したままの狼を背負って海の後を追った。




