吊り橋谷 2
いったい何が起こったのか。めまぐるしく変わる光景に、あたしの頭はパンク寸前だった。
長話になりそうだったから、とりあえず移動した方がいいんじゃないかと言ったその時、まず動いたのは誰だったんだろう?
渓谷から吹き上げてくる強風を切り裂くように響いた甲高い金属音、何かを殴る鈍い音、後ろから聞こえてきたぐぐもった呻き声――
重なるように響いたいくつもの音。驚いて音のした方を見たあたしの目に映ったのは、たたらを踏む狼の背中、さっき狼に引き上げられた女の人がナイフを手に何かを弾いた姿。そして――駆け出す海の姿。
いつもの雰囲気とは全然違って、一瞬別人にすら見えた海が数歩進んだと思ったら、急に視界がゆれる。何が、と異常の原因を探せば、橋の向こう――丁度吊り橋の終わりで、いつの間にそこにいたのか軽装に身を包んだ男の人が橋桁を支えるロープにナイフを突き立てていて――って、
何やってるのよっ?! 言葉が出るよりも早く、吊り橋を支えていたロープが限界を迎える。ぶちり、とひときわ不吉な音を立てて、子供の腕くらいもあるロープが弾け飛んだ。
さっきよりもひどい揺れが、あたしを襲う。
ううん、もう、これは揺れって言うかそういうものじゃ――橋桁と一緒に空中に放り出された視界端に、さっきまで見ていたのとは反対の方向、つまりあたしたちが渡ってきた方にも同じような格好の男が居すのが見えた。こっちはなぜか肩を押さえながら、でもやっぱり吊り橋のロープを切っただろう姿を、谷底に落ちていくあたしにもどうにか確認できた。
「わあああぁぁぁぁ――っ?!」
吊り橋だったがれきと一緒に落下するあたしに、谷風が容赦なく襲いかかる。空を飛んでいるときとは違う、不気味な唸りが体を揺らす。
突然のことに完全にパニックを起こしたあたしは、為すすべもなく落下して――そんな矢先、落ちていた体が何かに支えられて、自由落下は終わりを告げる。
「……無事か?」
「え、あ……黒?」
恐る恐る目を開けたあたしの視界に映ったのは、見慣れた黒の姿。谷風に煽られる長い黒髪越しに見えるのは、背中から生えた一対の黒い翼。
普段はしない、黒の《変化》。夜空みたいに深い深い暗色をしたカラスの羽。
あたしはよくは知らないんだけれど、何でも狼たちの話によると黒い翼に対して、人によってはすっごく嫌な気分になるんだって。それで、そういう嫌な思いをさせないためにーって黒は普段、人の目のあるところでは《変化》しないようにしてるらしいのよ。
実際、あたしも初めて会った時もいろいろあって――
「……風?」
「あ、うんゴメンっ。っていうか顔近い――って、それより何がどうなって?! そうだ狼達! 黒、あたしは自分で飛ぶから他の皆をどうにかしないと!」
そう、すっかり気が動転してて忘れちゃってたけど、あたしの《変化》はハトの|《空人》(シエロ)。当然空を飛べる。
当たり前のことなのにすっかり頭からすっぽぬけちゃうなんて、ほんっと情けない!
「………」
「黒?」
だけどそんなあたしに対して、黒は首を振った。
「……あれを見ろ」
「あれ、って……?」
促されるままに空を見上げる。いつの間にかずいぶん深いところまで落ちちゃったみたいで、空が遠い。両側からせり出した谷のせいで視界も狭いし、飛んでいるはずなのにすごい圧迫感。
青く切り取られた空の縁、谷の両側に何人か人が居るように見えて……って、
「え、あれって弓?! 近くで猟してて騒ぎに気づいた……って、何でこっちに向けてるの?!」
そう、谷の両側から谷底を覗いている人の影がちらほらと影絵みたいに見えて、でもその人たちの手には弓が握られているのが見えて……
……吊り橋を落として猟をするの……? で、あたしたちもしかしてそれに巻き込まれちゃったとか??
自分で考えて、それはないって思う。いやうん、あたしだってトラバサミとかの罠を仕掛けたら人が引っかかったこともあったけど……うん、それとこれとは何か、ぜんっぜん違うような気がするし。
「……それが判れば、苦労はしない。ただ、狙われているのは確かだろう」
「え、あたし達が?! 何で!?」
あたしの質問に黒は首を振った。
「……残念ながら。……ともかく風、おまえは《変化》するな」
「何でよ! だって――」
「……おまえの《変化》はハトだろう? ハトの羽は……この闇では、目立つ」
「う……」
正論、だった。
とにかく、理由は全く持ってこれっぽっちも判らないけれど、あたしたちは狙われてるってコト……よね? だったら、黒の言うことはもっともだって、いくらあたしが鈍くても判る。
あたしだって猟師の端くれ。夜に弓を引いた経験だってある。そういう時、一番厄介なのは黒みたいに真っ黒な毛並みを持つ獣だった。あたしの羽みたいに中途半端なネズミ色の毛皮をした獣だと、茂みの中に隠れていてもこっちに近づいてくるまでの間に狙いを定めて矢を射かけることは難しくなかった。
でも――頭ではそうだって、危ないって判っていても、納得はできない。
「……幸い、下は川だ。海は|《海人》(オセアノ)、狼も……あの二人ならそう簡単にどうこうなるまい。……晶も、どちらかが付いているのならば無事である可能性も上がる」
「それに不用意に近付けば、二次災害になるだけだ」と呟く黒の言葉にかぶせるよう、落下した吊り橋の破片が川に落ちたのか、盛大な水しぶきの音が谷間に響く。
確かに、そうだ。そもそも空中で捕まえるだなんて、それこそあたしがこうして黒に助けてもらったことだってよっぽど幸運だったって判る。まだまだ吊り橋の破片が落下しているし、それを避けながら飛ぶのだって難しい。
だけど、自分で何かができないことにどうしても納得ができなくて悔しくて――
「――黒、上っ!」
悶々とする思考を断ち切ったのは、見上げる空を背にした一つの陰だった。




