8話 厄介な温もり
「ふぁ……、ん……」
日が昇り始めた早朝。目を覚ますと、慣れない温もりに全身を包まれていた。
柔らかいベッドに、着心地の良い寝巻き。疲れもあったのか、思っていたよりずっと深く寝入っていたらしい。
西翼側の双塔——使用人の区画に用意された一室。私の昨日からの新しい住居だ。
(何かあれば起きたと思うけど、本当に何もなかったんだ。それにしても……)
城の朝は、異様に静かだ。石造りの壁が音を吸い込むのか、目を覚まして最初に聞こえるのが自分の呼吸。
潜入者としては正直、気味が悪い。昨日までの日常だった、あの汚いねぐらでの目覚めとは異質なものだった。
傍を見ると、枕元に置いた剣がやけに遠く感じる。少し手を伸ばせば届く位置にあるのに、まるで武器そのものが不似合いだと離れていくような錯覚を覚えた。
他の装備もアルトが返してくれたけど、今はどれも同じように距離を感じてしまう。
(慣れるな。ここは、殺しに来た場所だ)
ここは快適に飼い慣らされる場じゃない。あいつの命を奪うために潜り込んだ戦場だ。
名残惜しい誘惑を振り切って、目元を擦りながら体を起こす。冷たい床に足を下ろして、眠気で鈍った思考を払おうとした瞬間——。
ぐう、と。あまりにも場違いで、切実な音が、静寂を破って腹の底から鳴り響いた。
(……お腹すいたな)
思えば、昨晩は食べるどころじゃなかった。アルトに部屋を与えられて、おそるおそるベッドに潜ってみたところまでは覚えているけど……そこからの記憶が無い。
これは罠だ。あっという間に抗えない眠気に襲われて、気付けば朝だった。なんて恐ろしい、そして素晴らしいものだろう。
「……違う! 違うから!」
こんなのはズルい。これは高度な懐柔策だ!
お腹が空いてるから余計なことを考えるんだ。そうに決まってる。それに全部アルトの思惑通りだと思うと、なんだか情けなくなる。
とにかく空腹を満たしてから動きを考えよう。アルトが指定した時間まで余裕もある。潜入調査の記憶を辿って、まずは食糧庫を目指すことにした。
◇ ◇ ◇
「うわ、すご……」
寝巻きのまま食糧庫に忍び込む。指輪もあるし、アルトが言うからには大丈夫だと思うけど、堂々と入るのはつい癖で避けてしまった。
前に潜入した時、通気口の中から見た時も匂いがすごかったけど、改めて目にすると圧巻だ。肉や魚の燻製、籠に入った果物、数十種類のパンも、様々な食べ物が所狭しと吊るされたり、並べられたりしている。
村の備蓄倉庫とは段違いの広さで、どの方向を見ても常に目を奪われてしまう。
(っと、見入ってる場合じゃない。さっさと食べて出よう)
肉でも持ち帰りたいところだけど、まずは腹ごしらえだ。狙いは手近な果物に絞ろう。……これだけあったら、ひとつやふたつ減ったところでバレはしないでしょ。
籠に手を突っ込んで、掌よりも大きい真っ赤な果実を手に取る。このまま丸齧りしたら美味しいに違いない。
いただきま——。
「その果実はまだ熟していない。手をつけるな」
「ひゃいっ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。背後から、低くて温度のない声が降ってくる。
反射的に果物を放り出して飛び退こうとしたけれど、それより早く冷たい指先に手首を掴まれた。
この城の主である魔王、カリス・スペルビア。この場に最も不似合いな男が、食材の入った籠を持って立っていた。
「雇い入れたことはアルトから聞いたが、初日から盗み食いとは不躾な勇者だ」
「う、うるさい! 誰だってお腹くらい空くでしょ!」
というか、なんでこんな朝早くに魔王が食糧庫にいるの?
確かに湯浴みの時間はもっと早いけど、前に観察した時は、もっと遅い時間に朝食を持ち帰っていたはずなのに。
「使用人として働くなら、相応に振る舞え。食事は時間になれば支給される」
いや、あんたを殺しに来た身でもあるんだけど……という反論は、この場ではしないでおこう。
今は使用人でもある。ここに居座るためにもルールは守るべきだ。……朝ごはんの説明が無かったことは、後でアルトに文句を言ってやる。
魔王はそれだけ告げると、手慣れた動きで食材を吟味し始めた。
食材の入った籠といい、この目利き……もしかして、自分で作るつもり? だから早い時間にいたの?
(……これはチャンスかも)
魔王の生活圏に入り込んだ恩恵、と言っていいのかもしれない。これまで奇襲一辺倒だったけど、早速新たな手段を使える場面が訪れた。
袖の中に忍ばせた、親指ほどの小瓶を指先で探る。非常時のために調合した、無味無臭の劇毒が入っている。
「えーっと、自分で作るの?」
「ああ。そのつもりだ」
「なら、私が代わりに朝ごはん作るよ! この前、助けられたお礼!」
「……お前が?」
「こう見えても自炊には慣れてるし、今はちゃんと清潔だから大丈夫。任せて!」
魔王が怪訝そうに眉を寄せるけど、勢いで無視。その隙にこいつが選んだ野菜を奪い取り、隣室の簡易的な調理場に駆け込む。
背中越しに視線を感じる。緊張で指先が震えそうになるのを必死に抑えて、私は野菜を切るフリをしながら、小瓶の栓を音を立てないように抜いた。
(助けられたのは事実だし、少し気が引けるけど。こいつにまともな方法は通用しない。だったら……!)
無色透明で、加熱しても効果は変わらない。これなら直接襲うよりよっぽど簡単だ。
置いてある鍋を手に取って、取り出した小瓶を傾ける。やるなら今——!
「言っておくが、毒殺は考えても無駄だ」
予想外の一言に手が止まる。ただ、淡々と事実を告げるような声に振り返ると、いつの間にか魔王がすぐそこに立っていた。
瓶を隠す間もなく、魔王の視線がそれを捉える。溜め息をつくと鍋を手に取り、底に付着物が無いかを確認し始めた。
「な、なんで分かったの」
「慣れている。毒を盛られた回数など、思い出すことも手間なほどだ」
それでも生きている。ということは、今まで全て未遂で済ませてきたってこと?
魔王は小瓶を私の手から取り上げると、中身を確認するように光にかざし、小さく鼻を鳴らした。
「マンドラゴラを要とした、植物系の劇毒か。よく調合したが、オレには通用しない」
「……見ただけで分かるんだ」
「安価で効果的、かつ足もつきにくい。毒殺において最も厄介な類だからな。……オレの母もこれで死んでいる」
(え……?)
その一言に、思わず息を呑んだ。
魔王の……お母さん? 考えたことも無かった。こいつにもそんな存在がいたなんて。
知る必要も無かったのに、知ってしまうと居心地が悪い。どう受け止めればいいのか分からなくて、うまく言葉が出て来ない。
「王族にはつきものだ。オレを殺すと息巻いているお前が、それを気にしてどうする」
あくまで淡々と、断ずるような口調でそう言って、魔王は小瓶を私に返した。
同情なんてできない。私だって魔族に両親を殺されてる一人だ。なのに親指ほどの小瓶が、やけに重く感じる。
「やはり自分で作る。どけ」
そんな私を押し退けて、魔王はそのまま鍋を取り上げると野菜を切り始めた。
包丁の扱いに淀みがない。野菜を刻む音が小気味良く、正確なリズムで調理場に響く。
「あんた、料理もできるの?」
「必要だからな」
短く答えて、次々と食材を処理していく魔王。
野菜を切り、卵を割り、スープの火加減を見る。まるで何年も突き詰めたように、すべての所作が速やかに進んでいく。
バターが溶ける音に、ハーブの爽やかな香り。煮込まれた野菜の甘い匂い。それらが混ざり合って五感を刺激してくる。私の胃袋はもうとっくに限界だった。
やがて流しの脇に置かれた簡素な机に、彩り溢れる朝食が並べられていく。オムレツ、スープ、パンに果物……待って、明らかに多くない?
「一人分じゃないよね、これ」
「使用人を飢えさせる趣味はない。先ほどから腹が鳴っている」
「っ……そ、それは」
「食わんのなら、他の者に下げさせるだけだ」
全ての疑問を一刀両断して椅子にかける魔王。デリカシーの欠片もない言葉で沸騰しそうになるけど、目の前に置かれた朝食には本能で抗えなかった。
黄金色のオムレツは、ナイフを入れた瞬間にとろりと半熟の卵が溢れ出す。透き通ったスープからは、刻まれた野菜の旨味が香りに乗って漂ってくる。
どうせ捨てられるくらいなら、私が食べるくらい許されるはず。警戒しつつも、ゆっくりスプーンでスープを口に運んだ。
「…………っ、美味しい」
悔しいけれど、今まで食べたどんな料理よりも美味しい。口に出すつもりはなかったのに、思わず呟いてしまったほどに。
素材の味が引き立っていて、喉を通るたびに冷え切っていた体が芯から温まっていく。
魔王は何も言わない。ただ、自分の食事を黙々と続けている。
(なんで私、暗殺対象と一緒に朝ごはん食べてるの……?)
敵同士。それも、殺すか殺されるかの関係だ。まだ初日なのに、どうしてこんな状況になってるんだろう。
なのに、この一瞬だけはただの食事の時間が流れている。不思議で、そして恐ろしいほどに穏やかな空気だ。私達の関係なんて感じさせないほどに。
「……ねえ」
「食事中は喋るな」
「〜〜っ、なら一言だけ!」
だからかもしれない。ふと抱いた疑問を、何故か口にせずにはいられなかった。
「あんた、毎日こうなの? 自分で作って、ひとりで食べてるの?」
「ああ。オレは誰も信用していない」
「なら、今日は……」
「二言目だ。後にしろ」
どうやら、頑として語るつもりは無いらしい。どこか悔しさを感じながらも、私はそのままスープを飲み干すしかなかった。
やがて魔王も最後の一口を飲み終えると、ナプキンで口を拭って席を立つ。
「で、アルトはお前をどこに配置すると言った?」
「……そ、掃除だけど。文句ある?」
聞くなり一瞬だけ身を引いたあと、値踏みするような目で私を見て、魔王は目を細める。
「清潔を知るには丁度良いな。埃の一つも残せば、お前の部屋のシーツを没収する」
「いや、私の睡眠環境を人質に取るな!」
「適任だ、と言っている。せいぜい励め」
冷たい風が吹き抜けるように、魔王は去っていった。
残されたのは、綺麗に空になった皿と、胃の奥にある温かさ。
そして——。
「……なんだよ、聞きそびれたじゃん」
◇ ◇ ◇
指定の時間。昨日もらった服に着替えて裏庭へ行くと、アルトが笑顔で迎えてくれた。
「おはよう、リンちゃん。今から更衣室に向かうけど……様子が変だね。何かあったかい?」
「うっさい。なんでもない」
勇者が魔王と朝食なんて……挙句の果てに、美味しいだなんて思ってしまった。
言い知れない感情が、心の中に残っている。あいつは誰も信用してないって言ったのに、どうして今日は私と一緒に食べていたんだろう。
そもそも、なんで私はそれを聞けずに悔しいと思ったの?
「……わけわかんない」
初日から迷っても仕方ない。そう割り切って、私は歩き出したアルトの後ろについた。




