6話 心強い味方?
——また、この夢だ。
白く霞む霧の中。深い森の奥で、私は見上げるほど巨大な樹の下にいた。
どうやって辿り着いたのかすら思い出せない。空を覆っていた流星が、私の意識だけを連れ去ったのかもしれない。
八歳の記憶は、ここだけが曖昧なままだった。許されるのは、こうして夢の中でその光景を見ることだけだ。
大樹の根元には鈍い光を纏う杭のようなものが生えている。
それは触れてはいけないようにも見えて、それでいて私を呼んでいるようにも見えた。
『これ、結局なんなんだろう』
毎回そうだ。当時と同じように、わからないまま体が勝手に動く。
吸い寄せられるように手を伸ばし、その冷たい輝きに指先が触れた瞬間——。
「……っ!」
跳ね起きると、視界を埋めたのは見慣れたボロ屋根だった。どうやら深く寝入っていたらしい。
日は昇りきっている。路地裏の湿った空気が、私の意識を強制的に現在へと引き戻す。
(また、あの夢……)
光に触れた掌を、じっと見つめる。正直、この力についてもわからないことばかりだ。
一度見たことはすぐに理解できて、自分のものにできる。能力が足りない場合は再現できないけど、扱える技術自体はすぐ身につく。
上手くは言えないけど、レベルが上がっていくような……そんな感覚だ。どちらかといえば魔族側に近い、得体の知れない力だとすら思う。
(でも、昔の勇者と同じような力なんだよね)
だからこそ勇者を名乗って立ち上がれたし、魔王を討つこともできると考えていた。
実際は、あいつが規格外過ぎて負け続きだけど。……それに今は、そもそも力以前の問題に直面している。
『——今後、不潔な姿でオレの前に現れるな』
あれから五日。何度か潜入を試みたけど、あの出禁宣告は脅しではなかったらしい。
自ら警戒網を敷いたのか、あるいは部下が忖度したのか。自身の存在こそ最大の抑止力、と言わんばかりに緩かった昼間の警備が、目に見えて厳重になっていた。
まるであいつの機嫌をとるような、執拗なまでの巡回。振り回される部下達も必死なのかもしれない。
(興味が湧いたとか言ってたくせに。どんだけ潔癖症なのあいつ)
よほど私の生活環境が気に入らなかったらしい。あんな顔をした魔王は初めて見た。
面白いものは見れたけど、その代償がこれは流石に重過ぎる。これでは魔王を討つどころか、王都のゴミとして処理されるだけだ。
これまで襲撃できていたのも、あいつの温情だと思い知らされるし。今の状態は……なんというか、凄く惨めだ。
「穢れを持ち込むな。なんて言ったって……どうすればいいのさ」
装備を新調する金もなければ、風呂のついた宿に泊まる余裕もない。それに年頃の女としても屈辱だ。
そりゃ私だって、入れるなら毎日お風呂に入りたい。魔王の強さじゃなく、清潔感という壁に阻まれるなんて……!
「あーもう、悔しいっ!…………、はぁ……」
ガラクタ部屋で一人、膝を抱えて溜息をつく。叫んだところで腹の虫が鳴るか、埃が舞うだけだ。
ボロ屋根の継ぎ目にある隙間から、ほんの一欠片だけ城の尖塔が見えた。あそこには湯水のようにお湯が湧く風呂も、ふかふかの寝床もあるんだろう。……あいつ、ほんのりいい匂いしたし。
大きく溜息を吐き出した、その時だった。
「——案外、真面目なんだね。もっと力押しで解決するタイプかと思ってたよ」
「っ!?」
反射的に飛び退いて、壁にかけてある剣を手に取る。
外れかかった扉の奥。いつの間にか、路地の入口に立つ影が一つ……気配として認識する前に、そこに居た。
「誰……?」
おそるおそる扉を開けると、薄汚れた路地裏には不似合いな男が立っていた。
白に近い、淡い色の外套。端正な顔立ちに、金色の長い髪……その存在だけが切り抜かれた絵画のように浮いている。
彼は困ったように眉を下げ、ふわりと場違いに穏やかな笑みを浮かべた。
「そんなに怖い顔をしないで。お近づきの印にお菓子でも持ってくればよかったかな?」
「質問に答えて。誰なの?」
「君のファン、かな。ずっと応援してたんだ」
「応援……人違いでしょ」
「いいや、君だよ。人間の勇者……リンちゃん、って呼べばいいかな?」
「——っ!」
名前を呼ばれた。心臓が嫌な音を立てる。
こいつは危険だ。いつから、私のことをずっと見ていたの?
剣先を向けたまま、一歩、間合いを取る。
「ごめんごめん、怒らないで。君がこんなところで埃を被ってるのは、勿体無いと思ってね。……君の刃は、いつか彼に届くかもしれない」
彼……って、魔王のこと?
会話を続けていても、目的が全く読めない。男は楽しそうに目を細めると、懐から小さな銀の指輪を取り出した。
装飾のない、地味な銀色。けれど漏れ出す魔力の揺らぎは、それが高精度な魔道具であることを示している。
「君の詰みを解消するプレゼントだよ。認識阻害の指輪……私が少しばかりのまじないをかけておいた。これがあれば、少なくとも門前払いはなくなるはずだ」
喉がひくりと鳴った。
まずい。この提案は猛毒だ。あいつが強すぎる、という一点を除けば、それ以外の障害は殆ど消える。
でも……だからこそ、出来過ぎている。
「なんで私に協力するの? 何がしたいのか読めないんだけど」
「……そうだね。強いていうなら、君は諦めが悪かった。絶望に慣れることも、正しさに絶望することもなく、ただ抗い続けている」
言葉の意味を測ろうとして、失敗した。
善意にしては重すぎる。
悪意にしては、あまりに温かい。
ただ、何も信じられる要素の無いこの男が、初めて自分を晒したような気がした。
「そういう人は応援したくなる。それに、彼の不機嫌に困ってる者も多いからね」
「……何それ。あんたやっぱり魔族じゃないの?」
身なりも話の内容も、明らかに魔族側だ。なのに、あいつとは真逆のことを言っている。
わからないままに問いかけると、男は悪戯が見つかった子供のように笑みを浮かべた。
「さて、どうだろうね。……じゃあ、そろそろ時間だ」
ふっ、と男が息を漏らすと、路地の奥から風が吹き抜ける。
次の瞬間、その姿は陽炎のように揺らいだ。
「ちょっ、名前!」
「大丈夫、きっとすぐに会える。……ああ、まじないは完璧ではないからね。気をつけるといい」
「待っ——!」
伸ばした手は空を切り、男の姿は最初からそこに存在しなかったみたいに消えていた。
その場に落ちて残された、鈍く光る銀の指輪だけが現実であったことを証明している。
「……なんなんだよ、ほんとに」
残った指輪をじっと見つめる。
怪しい。怪しすぎる。けれど、このまま路地裏で腐っていくのを待つくらいなら、毒だろうが喰らってやる。魔王に絆されて飼い慣らされるなんて、あってたまるか!
私は意を決してそれを拾い上げると、指に滑り込ませた。
その瞬間だった。指輪から柔らかな光が溢れ、私の全身を包み込む。
ボロボロだった服の泥汚れが、塗り替えられるように消えていく。ごわついていた髪は指通り滑らかになり、光が収まる頃には、着飾ったように綺麗になっていた。
「え、えっ……!? な、なにこれ!」
認識阻害って、こういうこと!?
なるほど……これなら、いけるかも! 少なくとも不潔判定はされないはず!
ここ数日踏み躙られていた、乙女の自尊心が戻ってきたような気がした。
「……見てなよ魔王。これでも汚いって言えるかな!」
◇ ◇ ◇
数時間後。私は再び城の奥へと忍び込んでいた。
驚いたことに、あれほど厳重だった警備の目が面白いほどに逸れていく。まるで私がそこにある石ころであるかのように、誰も視線を寄越さない。
これなら正面から入っても平気だろう。忍び込んだ執務室には、相変わらず書類に目を通す魔王の姿があった。
(……いた。今日こそ仕留めてやる)
柱の陰に身を潜めて、音を消して近づく。
これだけ気配が薄くなっていれば、奇襲だって……!
機会を窺い、背後から一気に間合いを詰めた。
(死ね! 潔癖魔王!)
渾身の一撃が無防備な背中へと迫る。
勝った。そう確信した瞬間——身体が宙に浮いた。
「なっ!?」
見えない手に襟元を掴まれるような浮遊感。足は床を離れて虚しくバタついて、私の奇襲はあまりにも呆気なく中断される。
ようやく振り返った魔王の瞳は、驚きよりも先に不快感。そして、わずかな呆れを湛えていた。
「動くな。床が汚れる」
「は!? 今、何て!?」
「言葉の通りだ。汚い体でそれ以上寄るな」
「ちょっと、ひどすぎ——わわっ!?」
言い返す暇もなかった。魔王が苛立たしげに指を動かした瞬間、私の体は見えない力によって、汚物を掃き出すように部屋の隅へと追いやられる。
「認識を逸らせば本質が消えるとでも思ったか?」
「えっ、だって……綺麗になったでしょ? この前よりずっと——」
「カビ臭、返り血、路地裏の埃。落とすこともなく、よもや塗り潰す荒業とは度し難い」
脳裏に過ぎる、あの男の去り際の言葉。まじないは完璧ではない。確かにそう言ってた。
よりにもよって、一番やっちゃいけないやつだったなんて……魔王の視線は、そのまま私の指に嵌まった指輪に落ちる。
「……奴か。気に入られたらしいな」
「奴って、あの男のこと?」
「だが、それに甘えて直に乗り込んでくるのは解せん」
「いや、だって! そもそもお風呂に入れる宿に泊まる金なんて——」
「黙れ」
暴れる間もなく、見えない力に掴み上げられて隣室、魔王の私室へと運ばれる。
その更に奥。曇りガラスの扉が開いて、浴室から湿った熱気と湯気が一気に溢れ出した。
「ちょ、ちょっと! 何すんのさ!」
「洗浄だ。それ以外に何がある」
「まだ戦闘中なんだけど!?」
「今終わった」
「待って!? 心の準備とか、せめて服を——」
必死の抗議も全く気にかけていない。
私はそのまま、見えない手によって扉の奥へと放り投げられた。
ドッパァァァン!!
「……ッ! げほっ、ごほっ!!」
着衣のまま、なみなみと湯を湛えた巨大な大理石の浴槽へ叩き込まれた。
あまりの勢いに、頭まで浸かりきりだ。重たくなった服に溺れかけ、水面から這い上がると同時に叫ぶ。
「あんた加減ってものを——!」
「——楽しそうだね。カリス」
湯気の向こう側。浴室の扉の外から、場違いなほど軽やかな声が響く。
先ほど路地裏で消えたはずの男が、魔王の背後で優雅に笑っていた。
「あ、あんたは……!」
「やあ、また会ったね。リンちゃん」
ずぶ濡れの私を見て、男はひらひらと手を振っている。
魔王は心底嫌そうに溜息をつき、男を睨みつけていた。
「お前か。リンに余計な知恵を吹き込んだのは」
「私は彼女が諦めないように背中を押しただけだよ。……ああ、自己紹介が必要か」
置いてきぼりになっている私に、男はまるで舞台役者のような完璧な所作で会釈をした。
「私はアルト・ゲーデル。この国の議会、枢軸院に籍を置く者だ。リンちゃんが良ければ、気軽にアルトって呼んでほしいな」
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