5話 反則
助かった。その事実だけは疑いようがない。
けれど、胸の奥に残ったものは安堵でも感謝でもなかった。
言葉にできない熱が、喉の奥で引っかかって、どうしても飲み込めない。
「なんで、あんたがここにいるの。関係ないって言ったくせに!」
「オレの国を汚すゴミを片付けた。それだけだ」
ようやくこちらを向いた魔王の瞳には、救ったことへの喜びも、悪を断じたことへの高揚もない。淡々と仕事を終えた事務的な冷徹さだけが、青い光の中に感じられた。
「お前こそ、そのなまくら一本で何ができると思っていた。それは勇気ではなく無謀だ」
また正論だ。ぐうの音も出ないほど、あいつの言うことは正しい。
私はサーシャを助けるために飛び出した。けれど、もしあいつが来なければ、今頃サーシャは連れ去られていたかもしれない。
悔しい。こいつに助けられたことが……そして、自分の無力さをこれ以上ない形で突きつけられたことが、涙が出るほどに。
「……っ。分かってるよ、そんなこと……それでも私は、放っておけなかった」
私の中にあったのは、それだけだった。
正義とか、理屈とか、勝算とか、そんなものはどうでもよかった。ただ、泣いている人を見過ごせなくて……気付けば飛び出していた。
至らないところは多い。でも、私にはそれ以外を選べなかっただけ。言葉にはできなくても、この男には感謝せざるを得ない部分が大きすぎる。
「お姉、ちゃん……?」
腕の中から、小さな震えが伝わってくる。私はハッとして、抱きしめていたサーシャの顔を覗き込んだ。
彼女は怯えきった目で私を見上げ、それから魔王の大きな背中を呆然と見つめていた。
「大丈夫だよ、サーシャ。もう恐い奴はいないから」
汚れを拭ってやろうとしたけど、自分の手を見て慌てて引っ込める。
こんな、返り血で赤黒く染まった手で、この子に触れない……サーシャはポロポロと涙を溢れさせながら、私の衣をぎゅっと掴んだ。
「ありがとう……ありがとう、お姉ちゃん。助けてくれて!」
「ううん、私は……何もできなかった。助けてくれたのは、あっちの——」
言いかけて、言葉に詰まる。
あいつは魔王だ。人間を虐げ、世界を歪めている張本人の……はず。
けれど、目の前で声を上げて泣く少女にとっては、間違いなく、地獄から救い出してくれた存在だった。
「とにかく、よかった。本当によかった」
もう一度、サーシャを強く抱きしめる。
あの時、誰にも助けてもらえなかった私がその温もりを守れた。過程に問題があっても、それだけは事実だ。
震える肩から伝わる体温が、少しだけ過去の記憶を解かしてくれたような気がした。
(あとは……)
視線を感じて顔を上げる。魔王は少し離れた場所で足を止めて、こちらを静かに見下ろしていた。
その瞳には、さっきまでとは違う深い光が宿っている。
身構える私を無視して、魔王は小さく鼻を鳴らした。
「不愉快なほどに真っ直ぐだな。お前は」
「……なによ、藪から棒に」
「オレがここにいる理由がわからないと言ったな。……強いて言うなら、お前と同じだ」
「同じ、って……あんたが、私と?」
それが何を指すのか、きっと全ては理解できないと思った。それ以上は語らず、話す気も無いのだろうから。
魔王はゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。一歩、また一歩。その威圧感に気圧され、私は思わずサーシャを庇いながら後ずさった。
やがて目の前で足を止めると、魔王は私の目を見てはっきりと口にした。
「俄然、お前に興味が湧いた。勇者……いや、リン」
その言葉に、思わず面食らった。
興味。こいつの口から出た、初めての肯定に近い響き。
もしかして、少しは私のことを見直してくれたんだろうか。期待なんてしたくないのに、わずかな高揚感が喉を焼く。
「……っ。興味って何よ。お礼なら言わないけど」
「不要だ。後始末はじきに来る衛兵がするだろう」
「衛兵が……って、やばいじゃん! 逃げないと!」
これだけ派手にやった戦闘だ。痕跡が悪い意味で目立ち過ぎるし、残った魔力の残滓も凄まじい。
北の片隅とはいえ、王都の中で魔王が直々に手を下したのだから、すぐに衛兵が駆けつけるだろう。顔を覚えられるわけにはいかない!
「あっ……サーシャ!」
「わ、わたし。お父さんが……」
一人なら逃げられる。でも、同じように隠れ住むサーシャとその父はどうなってしまうのだろう。重傷を負って気絶している父親とサーシャが、逃げられるわけがない。
この王都に隠れ住む人間たちは、厳密には不法居住者だ。見つかればどうなるか——。
「難民、だな?」
「……え?」
唐突な魔王の問いに、サーシャがびくりと肩を震わせた。
「お前達は、この男の取引で連れてこられた難民の親子……そうだな?」
(ま、魔王? ……こいつ、なんのつもり?)
私達が不法な存在だということは知っているはず。
難民。そう言ったの? こいつは。
「国の不始末、つまりオレの不始末だ。奴隷売買などという前時代の遺物を放置したツケを、ただ生きる民に払わせるつもりはない」
「…………」
「この者達は取引の被害者として保護させ、然るべき住居と職を与える。巻き込んだ詫びだ。それで文句はないだろう」
思わず、息を呑んだ。
保護。私がどれだけ願っても、潜入者の身では与えてやれなかった、この親子にとっての本当の救済だ。
なんで……どうして?
「あんた、魔王でしょ。人間なんてどうでもいいんじゃないの?」
「国の全てを背負うのが王の役目だ。ゴミを片付け、淀みを正す……それがオレの正義だと言ったら、お前は笑うか?」
その顔には迷いが無くて、堂々としていて、なによりまっすぐな目でこっちを見ていた。
なにそれ、全然魔王らしくない。理想の王様みたいなこと言って……。
でも、目を見ればわかる。こいつの語る正義は演技でも偽物でもない。わかるからこそ……悔しいけど、その正義はかっこいいと思う。
「……笑わないよ。……ありがとう」
消え入りそうな声で、初めてお礼を口にした。
そして、返事も無いままに衛兵の鎧が擦れる音が聞こえてくる。
私にとっての終わりで、この子達にとっての救済の足音が。
「っ……サーシャ、お父さんと一緒に衛兵さんのところに行くんだよ。もう隠れなくていいからね」
「お姉ちゃん……! ありがとう、大好き!」
サーシャを父親の元に向かわせて、私は闇に紛れてその場を離れた。
屋根を伝って逃げる中、背後の方では衛兵達が救護の準備をしている会話が聞こえてくる。本当に……魔王が約束を守ったんだ。
(……あんなの、反則でしょ)
魔王のくせに。傲慢で冷酷な支配者のくせに。
あの日、誰も助けてくれなかった私にとって、それは一番欲しかった「正解」だった。
部分的にであれ、あいつをかっこいいと思ってしまった自分が情けない。けれど、同時に胸の奥が熱くなるような、奇妙な高揚感が消えなかった。
心臓がざわつく。頭の奥から、あいつの目が離れない。
あの魔王が、私を認めた。興味があると言った。
そして、私もあいつを認めてしまった。部分的にではあるけど。
私は……そんなあいつを、殺さないといけない。
◇ ◇ ◇
転がり込むように、私はねぐらへと帰り着いた。
王都の外れにある路地裏に作り上げた、簡素な一室。拾ったボロ布や戸板で補強しただけのガラクタ部屋だけど、この都市で唯一の安心できる場所。
いつもなら落ち着くはずなのに、今日はなぜか、ここがひどく惨めな場所に思えた。
「疲れたな。色々と」
安物のなまくらを放り出し、寝床に敷いたボロ布に倒れ込む。
明日から、どんな顔をしてあいつを殺しに行けばいいのか。殺意とも言い難い、名前のつかない感情が胸を満たしていく。
「……うん、もう寝よう」
考えるだけ無駄だ。目的は変わらないし、別にあいつに心を許したとかじゃない。
それに今は死ぬほど疲れてるから、すぐ眠れるはずだ。重い瞼を閉じると、意識は深い眠気の中に落ちていった。
「——信じられん。よくもこんな不潔な場所で安眠しようと思えるな」
「……えっ!?」
刹那、全ての眠気が吹き飛んだ。
跳ね起きると、唯一の家具である椅子の側、部屋の隅にあり得ない人影が立っていた。
すっかり見慣れた、そして今、一番会いたくなかった張本人。魔王カリスだ。
「なっ……! な、なんであんたがここにいんの!」
「今回の件で、調査のついでに不法居住区の実態でも見ようと思っていたが……こんな路地裏でお前の住居に出くわすとはな」
乙女の寝床という究極のプライベート空間、安心のパーソナルスペースは、この無粋な男に一瞬でぶち壊された。完膚なきまでに。
一方で魔王は、黒い外套をこれ以上ないほど不服そうに翻して口元を覆い、眉間に深すぎる皺を刻んでいる。
「それより何だ、この空間は。お前はドブネズミの親類か? 浮遊する微細な塵、壁にこびりついたカビ、オレの肺が拒絶反応を起こしている」
魔王が、汚物を見るような目で私を睨みつけている。
いや、空気がおかしい。さっきまでの雰囲気と違いすぎる。興味が湧いたって言ったよね?
圧倒的なまでの威圧感が、急に掃除にうるさい姑みたいな存在感に塗り替えられていく。
「失礼でしょ! 潜入者の隠れ家なんて基本こんなもんだよ!」
「百歩譲って、立地や設備が悪いのは仕方ないと認めよう。わかってもいた。……が、よもやここまでとはな。雑菌の温床か」
「は、はあぁ!? 潜入のために臭い消しのハーブだって使ってるし、塵も落とさないようにこれでも気を使ってる方なんだから!」
「なら床の隅に蠢いているあれも、お前の言う"基本"に含まれるのか?」
魔王の視線の先には、部屋の隅をカサカサと横切った小さな影……ああ、アレか。
正直、私だって好きというわけではない。汚いし、病気を持ち込む可能性もある。でも、潜入においてあんなのは可愛い同居人みたいなものだ。
それより、どこか魔王の様子がおかしい?
「……あんた、もしかして虫が嫌いなの?」
「……嫌い、ではない。学術的に、生物的にはむしろ興味深い。……だが、不潔を好む者がどこにいる」
こいつ、ほんの少しだけ声が震えなかった?
ここ数日で飽きるくらいに、こいつの罵倒と説教は聞いてきた。今の一言には、感じたことのない揺らぎがあった。
世界の頂点。指先一つで魔族を塵にする男が? 魔王の格が、私の中でガラガラと音を立てて崩れていく。……面白いじゃん、こいつ。
「へ、へぇー。無敵の魔王が、たかが虫一匹にビビってるんだ? 意外と可愛いとこあるんだね」
「黙れ。汚いと言っているだけだ」
「いやいや、そうだよねー。まさか魔王があんな小さな虫に……あっ、もう一匹!」
「っ……!?」
指差した方向から咄嗟に離れる魔王。
その光景を見て、思わず笑いが漏れそうになる。今まで散々な言われようだったし、これくらい調子に乗ったっていいはずだ。
「決めたぞ」
でも、そう思っていたのは私だけで……魔王の瞳に冷たい光が戻る。
ただし、今度は冷徹さではなく純粋な嫌悪だった。
「今後、不潔な姿でオレの前に現れるな。そのままなら城の敷居も跨がせん」
「……え?」
あまりに無慈悲で、そして当然の要求が告げられる。
そこで私はようやく思い出した。今の状況において、生殺与奪の権を握っているのは魔王の方だったと。
◇ ◇ ◇
北区4ー1倉庫にて。
衛兵達がサーシャ親子を保護し、拘束された魔族が連れられていく。
その様子を、屋根の上から見下ろす男が一人。月明かりに揺れる白い外套に、一束に纏められた金色の長髪。風に揺れるその背は細身で戦士のそれではない。
だが、その立ち姿には不思議な重みがあった。
「……なるほどね」
誰に聞かせるでもなく、男は小さく息を漏らす。
視線の先には、戦闘の痕跡に生々しい爪痕——魔王が自ら動いたことを証明する光景が広がっている。
「まだ未熟で無謀。しかし……彼が自ら動いた。彼女が動かした」
白手袋に包まれた指先が、顎に触れる。
その横顔は穏やかだった。救われた者達の笑みと涙を見て、わずかにその口元が緩む。
「想像以上だ。期待してるよ、勇者ちゃん」
次の瞬間、男の姿は風に溶けるように消える。まるで最初から、そこに存在しなかったかのように。
やがて王都の夜は、何事もなかったかのように静まり返っていた。




