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26話 我儘

「あなたが、私達の……?」


 喉の奥が、ひりつくように乾いていた。彼女の存在を頭で受け止めるよりも先に、全身を冷たいものが走る。

 初めて会った時から感じていた、理屈の通じない圧迫感。これは……畏れだ。彼女の名乗りを聞いて、その正体がようやく腹に落ちた。


「左様。しかし、最早そのような枠組みも形骸じゃ。彼奴が、全てを変えようとしておるでの」


 ミアはそう言って、机の上の手記を指で軽く撫でる。


「余は自らの時を止め、偽りの歴史を見続けてきた。歯痒い思いをしながら、真実に辿り着く者が現れるまで」

「……七百年、ですか」

「押し付けられた真実で人は動かぬ。ようやく次の勇者が生まれ、例外も例外、もう一人の勇者まで現れおった。あまりに昂り、一度だけ介入してしもうたわ」


 アルトの問いかけに答えながら、ミアは私の方を見てからからと笑う。私を助けてくれたのは、本当にずっと見ていたからなんだ。

 彼女は私達の様子に構わず、ゆっくりと書斎の中を歩き始めた。壁を埋め尽くす古文書の背表紙を懐かしむように一瞥する。


「さて、答え合わせといこうかの。ここには其方らの求めた真実があるが……折角じゃ。歴史に肉を付けてやろう」




 事の発端は、七百年前の人魔戦争。勇者——アッシュ・エドニスが世界樹に刺した聖剣は、それで役割を終えるはず……だった。

 最も強力な蘇生の加護。それだけは聖剣を溢れて、世界樹を通して垂れ流しになった。全人類は外傷による死を克服して、再生する存在になった。


「勇者は歪みの是正に動いたが、時の権力者達に謀殺されてな。世界樹の根元で、余はこの目で見ておった。……聖剣を抜くことも叶わず、志半ばで逝きよったわ」

「謀殺、か。カリスはそのことを?」

「知っておる。故にカリスは、同じ力を持つリンを巻き込まぬよう遠ざけたじゃろう。彼奴にはその聡さがあるが……かつての勇者は悪意を測りきれぬ莫迦者であった故な」


 胸の奥が冷たくなっていく。伝説の裏にあった、歪みの起源——その始まりは、救われた側の醜い独占欲だった。


「救ってもらって、その勇者を殺すなんて……」

「魔王を討つだけの力が有り、蘇生を否定する者など、大衆には脅威でしかなかろう。もっとも、その偉業までは消せなんだ」

「だから、人と魔族の歴史を入れ替えたの?」

「勇者が再び現れれば、加護は今度こそ奪われ得る。なら矛盾する記録を焼き、自らを魔族と名乗れば良い。罪ごと勇者の伝説を手放し、物語を己の種とは無縁の他人事にしたのじゃ」


 人ならざる者に勇者は生まれない。決して勇者が現れない側に伝説を押し付けたことで、人と魔族の歴史は捻れた。

 ほんの一瞬、ミアは指を震わせて手記に触れる。視線をそこに戻すと、さっきまで読んでいたページが、まだそこに開いている。


 ————————————


 魔族と呼ばれる者こそが本来の人間で、人間こそが真なる魔族の末裔。こんな馬鹿馬鹿しい話が真実だとは。

 勇者に守られながら、それすら殺して栄えた者達の血を引いている。だからこそ、オレは魔族の王子でありながら勇者の力を持って生まれた。

 この現世という名の地獄は、人類が救われためでたしの結末だった。


 ————————————


 十歳で真実を知ったカリスの、静かな絶望が並べられている。ページを読み進めると、その更に先——戴冠式の真実も、アルトと歩んだ十年も、世界に対する深い諦観と共に書き綴られていた。


「歴史は勝者が書くもの、とはよく言ったものじゃが……真に恐ろしいのは、書いた嘘を勝者自身が信じることじゃな。自浄すら働かず、誰も疑わぬまま時が過ぎた」


 私達は被害者だと信じていた。村を焼かれ、大事な人を殺されて、常に魔族によって理不尽に奪われていた側だと。

 それ自体は間違ってはいなかった。けど……それと同時に、私達の祖先が世界を支配した加害者だったなんて。

 なのに、私は何度も憎しみをぶつけた。あいつが全ての元凶だと信じて、何度も……!


(今まで、何のために……っ)


 胃がひっくり返るようだった。思わず込み上げた吐き気に、酸味を感じながらもなんとか耐える。

 お父さんとお母さんが殺されたことは、変わらない。あの日の痛みも、憎しみも嘘じゃない。なのに、その宛先だけが足元から崩れていく。

 お父さんを連れ去った魔族も、七百年前は虐げられていた誰かの子孫で。……それこそ、この城で働くマーサのような人達を、今の私は真っ直ぐ見られる?


「理解できない、という顔じゃな」

「……そんな簡単に、受け止められない。世界のことも、自分のことも」


 でも、だったら私の力は何? そんな疑問を見透かすように、ミアが続ける。


「其方は、例外なのじゃろうな」

「例外?」

「十二年前。カリスが放った力に呼応して、聖剣と世界樹が顕現したあの日——偶然巻き込まれた其方は、加護の根源に触れたのじゃろう。世界樹に刺さった聖剣にな」


「覚えがあろう」と、確かめるようにミアが問う。

 あの時に触れた光が聖剣だというのなら、そうなのかもしれない。でも……呼んだのは私じゃない。あれは、カリスの力が呼び出した世界樹だったんだ。


「でも、本当に私が魔族だったら、聖剣の力なんて受け付けないでしょ?」

「魔族は、被虐の中で種として弱り切った。姿形まで人と見分けがつかず、人と誤認され、聖剣の光が拒絶せぬほどに」

「それで私が力を?」

「最も強い加護だけは、体が受け付けなかったようじゃがな。不完全ではあるが、七百年が生んだ例外……それが其方じゃ」


 魔(・)族(・)の(・)勇(・)者(・)。それが真ならざる勇者という言葉の、本当の意味……私は、魔族がずっと踏まれ続けて生まれた存在だった。

 カリスは気付いてたんだ。最初に勇者だと名乗った時から。でも、だったら——。


「全部知ってたのに、なんで何も言ってくれなかったのよ」

「……カリスにとって、君は希望だったんだろう」


 不意に、しばらく黙っていたアルトが呟いた。その手元には、最後に書かれたページで手記が開かれている。

 日付だけが記された空白のページ。私が初めてカリスと対面したあの日。そこから先は何も書かれていなかった。


「君を過去の遺恨に巻き込まないよう、カリスは何も言わなかった。そして君を遠ざけたところを見るに、彼はもう準備を整えている。……急がないと危険だ」


 アルトは手記をパタンと閉じると、ゆっくりと顔を上げた。その目は普段の柔らかいものではなく、何かを決意した者のそれになっている。


「リンちゃん、世界樹の場所は?」

「え……?」

「力を得た時に目が覚めた場所だ。顕現に巻き込まれたのなら、おそらく世界樹はそこに秘匿されている。……カリスは既に行動を始めているだろう。会談は口実で、剣の気配を探りながら移動してるに違いない」


 十二年前、八歳の私が目覚めた場所。そして先日、転移で飛ばされた場所。始まりと終わりが、最初から同じ場所だったなんて……!


「国境の、遥か東。大河沿いにある村……故郷の外れにある林」

「なるほど。その辺りなら行ったことがあるし、土地勘もあるよ」


 アルトは言うなり目を伏せて、迷いのない速度で魔法陣を足元に展開する。転移の術式だ。


「彼は剣の気配を辿れるだろうが、正確な座標までは掴めていないはずだ。まだ先回りできるかもしれない」

「っ……! なら急ごう。一緒に考えれば、あいつだって——」

「リンちゃん」


 遮るような呼びかけだった。

 アルトはこちらに向き直って私を見据える。


「先に言っておく。私は……ここで道を違えるだろう」


 一瞬、その言葉を処理できなかった。

 アルトは私にとって、ただ一人の同胞だ。結界も一緒に解いたし、カリスを死なせたくない気持ちだって共有していたはず。

 なのに、どうして……?


「カリスを助けたいという部分は同じだよ。しかし、世界は急進的な変化についていけない。加護が消えれば、魔族の社会は一瞬で崩壊して……混乱の中で人間が復讐を始めるだろう。かつて私も望んだ側だったから、わかる」

「…………」

「私は、今を繋ぎ止めたまま世界を変えていきたい。先に聖剣に辿り着けば、封印できる可能性だってある」


 反論できなかった。アルトが世界を見て、難民を救う仕組みを作ってきた時間。全部、私が知らない時間だ。

 あいつを死なせたくない気持ちも同じなのに、アルトは世界のバランスを見て、歪みを許容しながら変えていく道を行くと言っている。

 アルトは一度、魔法陣の生成に使っていた手を引くと、こちらに向けて差し出してきた。


「……リンちゃん。私と同じ道を来るつもりはないか?」

「アルト……?」

「壊してから作り直すんじゃない。今あるものを抱えたまま、少しずつ変えていくために……私の考えはあの夜から変わらないよ」


 アルトが人間だと分かった夜——変わらない理想を口にして、同じように差し出される手。あの時は迷わず取った手を、私はぼんやりと見つめていた。

 この城の中で見たもの。保護区の笑い声も、マーサ達も失いたくない。アルトの言う「今あるもの」は、私にとっても大事なものだ。

 でも……理屈は分かっても、納得できるわけじゃない。その手を握り返せないでいると、アルトは苦笑いを浮かべて差し出していた手を引っ込めた。


「返事は、すぐじゃなくてもいいよ。掌返しの世迷言と受けてもらっても構わない。ただ……共に来てくれるのなら。私は君と一緒にカリスを止めることを約束する」


 アルトはそれだけ言って、再び魔法陣に魔力を込めていく。床に描かれた紋様が光を帯び始めた——その時だった。


「待たれよ、アルト・ゲーデル」


 ぽつりと静かな声が割って入る。ミアが、いつの間にか机の脇から私達の方へと歩み出ていた。


「理性的で、かつ野心的。統治者としてはこれ以上ない器じゃが、其方が聖剣に干渉することは叶わぬ」

「……どういう意味でしょう」

「五属性の併用。現代の種に見合わぬ魔力量。間違いなく先祖返りを起こしておる……間接的にでも聖剣に触れれば、こ(・)う(・)な(・)る(・)じゃろう」


 ミアはゆっくりと衣の袖に指を掛けると、躊躇いも見せずに右の袖を肩口まで捲り上げる。露わになったそれを見て、思わず息を呑んだ。


「——っ、それ……!」

「余もかつて、歪みを正そうと試みたのじゃがな。聖剣の火は、余には眩しすぎた」


 指先から二の腕までを覆う、黒く焼け爛れた表皮。引き攣ったまま塞がり切らない無数の傷跡。

 ミアは表情を歪めながらも、まるで大切なものを慈しむように視線を這わせる。


「あれは魔族を焼き祓うもの故、余も手を出せず隠遁せざるを得なかった。其方が干渉すれば同じように焼かれよう」


 ミアは静かにアルトを見据えたまま、線を引くようにそう断言した。場の空気が張り詰める中、アルトの表情がわずかに固まったのがわかる。

 聖剣に手出しできない以上、アルトの計画の一番大きな部分が折れたはずだ。でも少しして、アルトは小さく息を吐くといつもの笑みを浮かべた。


「……触れてから知るよりは、有り難い情報ですね」


 崩れもせず、慌てもせず、ただ強かに言ってみせる。


「私が管理できればと思っていたが、それなら誰にも触らせなければいい。聖剣を抜かせはしない」


 その言葉に私が含まれていることは明白だった。静かに視線を向けられて、自然と目が合う。彼が「先に行く」と告げた瞬間に風が渦巻いて、その姿は書斎から消えた。

 残されたのは薄く乱れた魔力の残滓と、机の上に閉じられたままのカリスの手記。そして、私とミアだけ。ミアは袖を戻しながら静かにこっちを見ていた。


(どっちも正しい。けど……!)


 両手を見下ろすと、指先が小さく震えていた。

 カリスの願いは、歪みを正して終わらない犠牲を無くすこと。

 アルトの願いは、世界の秩序を保って今の犠牲を抑えること。

 二人の主張は正反対だ。誰も傷つかない答えなんて、どこにも用意されていない。


 でも……私はアルトのようには割り切れないし、カリスのような覚悟もない。今の犠牲と未来の犠牲の、どっちも諦めたくない。

 何より、カリスの命だって……全部を望むなんて綺麗事だ。わかってるけど……!


「——何を呆けておる」


 空気を裂くような鋭い声が私を撃った。顔を上げると、ミアが私の眼前に立っている。小さな身体から信じられないほどの圧を放って。


「失いたくないのじゃろう、彼奴を。全てを変えたいのじゃろう?」

「……っ、うん」

「ならば行け。ここで踏み出せねば何も得られんぞ」


 短い言葉。けれど、それまでの達観した語り口とは違う確かな熱を含んでいた。


「我儘で何が悪い。其方がここに辿り着いた時点で、彼奴の計算なぞ狂っておるわ」

「ミア……」

「其方も聖剣の適格者、ならば結末を望む権利くらいあろう。妥協するために、ここまで来たわけではあるまい。世界の理ごと、あの莫迦者の目論見を覆してみせよ!」


 ひとしきり想いを吐き終えたのか、ミアは肩を揺らして息を整えると視線を逸らした。


「……柄にもない。年を取ると焼きが回るのう」


 その自嘲に、胸の奥が温かくなる。ずっと歪みと犠牲を見続けてきたミアが、こんなに不格好な励まし方を選んでくれた。

 どうすればいいのか、答えはまだ無い。けど、何もしない理由にだけはならない。何より……あいつが一人で死ぬのは見過ごせない。それだけは絶対に譲れない。


「世界も変えたい。あいつも、絶対死なせない」


 言葉にすると、震えていた指先に力が戻ってくる。

 ミアが頷いて、その小さな掌をこちらにかざした次の瞬間、感じたことのない量の魔力が私の中に流れ込んでくる。


「っ、これは……!」

「そのままでは飛べんじゃろう。ここまでの転移と結界破りで疲弊しておる。せいぜい役立てるがよい」


 カリスとはまた違う、体の奥深くに馴染む力……どうしようもなく、私の起源は魔族なのだと実感させられる。

 自分のものとは格の違う質の魔力を浴びながら、私はこの人のことを理解できずにいた。どうして、この人は私の味方をするの?


「なんで、ここまでしてくれるの?」

「眷属の凋落を見てきた故な。それに……遠い昔、同じような光景を見たからの」

「遠い昔って、七百年前?」

「あの時、余は間に合わなんだ。じゃからの……今度こそ、欲張りな結末が見たい」


 ミアはそう告げつつ、袖の上から右腕を押さえてなぞった。瞳が、少しだけ揺らいでいるように見える。

 聞きたいことは山ほどあった。けど……今じゃない。とにかく、これであいつのところに行ける。


「……ミア、ありがとう」

「余はカリスの目に、そして其方の心意気に賭けておる。行け、勇者よ」

「うん。行ってくる」


 頭の中にあの場所を思い描く。数日前に飛ばされた林の入り口——十二年前、光に触れた始まりの場所。

 潤沢な魔力の巡りを感じて、今度は正確に目的地へ飛べると確信できた。風に包まれながら、世界樹の下で待つあいつを思い浮かべる。


 カリスが世界を諦めた瞬間——あいつの絶望が、あの光が私を勇者にした。だったら尚更、一人で絶望してるあいつを、私が諦められるわけないじゃん……!

 やり方なんてわからない。他に手段は無いってカリスも言ってたけど……両方勝ち取って、この運命に抗いたい。


「全部……諦めないから」

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