24話 それでも
「っ……あいつ、本当に飛ばすなんて……」
さっきまで、執務室で魔王——カリスに詰め寄っていたはずなのに。あと一歩というところで、私は転移の光に包まれた。
光が引くと、視界いっぱいに広がるのは見慣れた緑の天蓋だった。木々の隙間から差し込む光に、時折鳴く小鳥の声。風に揺れる葉擦れの音だけが世界を満たしている。
その光景には、強烈な既視感があった。懐かしい土の匂いに頬を撫でる風。もしかして……ここは、故郷の村外れにあった林?
十二年前。あの時に目を覚ましたのも、全く同じこの場所だった。まるで、あの日の続きからやり直せとでも言われているかのように。
私の記憶に残る場所に転送されたのかもしれない。だとすると、とんでもない距離を飛ばされたものだ。ここからスペルビアまで、移動だけで数ヶ月かかったのに……。
「——あんた、リンかい? 帰ってきたの?」
不意に背後から声が響いた。聞き馴染んだ声に振り返ると、見覚えのある初老の女性が立ち尽くしている。
「おば、さん……?」
「リン……ああ、本当にリンなんだね……!」
駆け寄ってきた叔母が、震える腕で私を抱きしめる。痩せた肩が、思っていた以上に小さく感じた。
石鹸とハーブの混じった、覚えのある匂い。私が両親を失ってから、何度もこうして抱きしめてくれた人だ。
「あんたが黙ってここを出てから、もうすぐ一年だよ。どこで何してたんだい。てっきり野垂れ死んじまったかと……」
「ごめんなさい。心配かけて」
謝罪の言葉は、思ったより素直に出てきた。なのに、抱きしめ返す腕に力が入らない。
頭ではちゃんと分かっている。心配をかけたこと。無事に帰ってきたこと。叔母の手の温もりが本物だということ。
でも、心はまだ追いついていない。足元から消える感覚に、光の中で掴み損ねた外套の端……ここで叔母に抱きしめられている事実が、どこか遠い出来事のように感じられてしまう。
(戻ってきた、本当に。……ううん、違うか)
はじまりの場所。私はこの場所へ戻された。強制的に、あの舞台から降ろされたんだ。
偽物には相応しい終わり方なのかもしれない。私の……復讐の旅は、終わったんだ。
◇ ◇ ◇
村のみんなは、私の帰還を盛大に祝ってくれた。
鍛冶場の音に、井戸端の声、子供たちの笑顔。まるでスペルビアでの出来事が夢だったかのように、ここは何も変わっていない。私だけが遠い場所から来た異物のように感じられた。
夜には広場で火が焚かれ、村の大人達が持ち寄った酒と食事で、ささやかな宴が開かれた。「よく生きて帰ってきた」「もうどこにも行くな」と、口々にかけられる安堵と労いの言葉。
温かくて、優しい世界。これが思い描いていた凱旋なら、涙が出るほど嬉しいはずの帰郷だったと思う。でも……私の心はまだ遠くを彷徨っていた。膝を抱えて、焚き火の炎をぼんやりと見つめる。
周囲の喧騒から切り離されたように、頭の中では転移する前の一瞬が繰り返されている。どれだけ経っても、網膜の裏に焼き付いて離れない。
『ここから先はオレがやる。お前の姿を見て、気が変わった』
『待って……私、二人でって言ったでしょ!』
必死に伸ばした手は空を切り、外套の端を掠めることしかできなかった。
光に飲まれる直前、カリスが向けたあの表情。長年背負ってきた重圧を初めて下ろしたような、ひどく穏やかで、悲しげな笑顔。
『リン……ありがとう』
胸が焼けるように痛い。一方的に突き放されたという怒りよりも、もっと深く、ぽっかりと何かを抉られたような気分だ。
全身全霊で、復讐心も超えて伝えたのに、あいつはそれを拒絶した。丁寧に折りたたんで突き返すように。よりにもよって、あんな穏やかな笑顔で。
(……そんなに言うなら、好きにしろっての)
奥歯を強く噛み締めながら、そう割り切ろうと思った。
カリスは、自分と引き換えに聖剣を壊すつもりだろう。そうすれば理不尽な再生は消えて、命の価値が平等に戻る。
私が全部を懸けて成し遂げようとした目的は、何もしなくてもあいつが勝手に果たしてくれる。願ったり叶ったりじゃないの。
私は安全な場所で、ただ待っていればいい。自分にそう言い聞かせて、溢れそうになる感情に蓋をした。
◇ ◇ ◇
翌朝。いつぶりだろうか、叔母に頼まれて川辺で洗った洗濯物を干していた。
水を含んだ布の重さが懐かしい。城での掃除も大変だったけど、こういう日常の作業はまた別な感覚だ。
風に揺れるシーツの向こうに、見慣れた村の景色が広がっている。子供たちが走り回り、年寄りが日向で煙草をふかし、犬が眠そうに寝そべっている。
平和だ。この村には、王都にあったあの煌びやかさも、議会の緊張感も何もない。ただ、変わらない日々がある。
(……このまま、ここで暮らせばいいのかな)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
私はカリスに追放された身だし、これ以上あいつに関わる必要も資格もない。他に行く場所も思い浮かばないし、今は何も考えずにこの村の優しさに甘えたかった。
なのに、ざわつきが止まらない。納得できてないまま放り出されて、知っているのに何もできなくて。……言葉にできない喪失感と、どうしようもない現状に挟まれて、胸の奥が軋む。
「——しかし、いつになったらあの忌々しい魔王はくたばるのかねぇ。リンちゃんが無事に帰ってきただけ、まだいいがよぉ……」
畑仕事の休憩中、男の一人が溢した。確か一人娘を奴隷商に奪われて、止めようとした奥さんを目の前で殺された人だ。
冷たい汗が首筋を伝う中、その一言に呼応するように、他の人からも呪詛のような言葉の連鎖が起きる。
「全くだ。血も涙もない悪魔め……奴がいる限り、俺たち人間に安息なんて来やしない」
「またどこかで人間の村が焼かれたって噂だよ。この村もいつまで保つか……」
「くそったれが。あんな化け物がいる限り、魔族が付け上がるだけだ!」
この人たちが言っていることは、私がここを出る前まで信じていたものと何一つ変わらない。
血も涙もない化け物。早く討伐されるべき悪魔。理不尽の象徴。でも、違う。あいつはそんなんじゃ……と、思わず反論しようとして唇を噛んだ。
あいつは、命の重さを知ってる。誰よりもこんな世界を憎んで、暗闇の中を彷徨っていた不器用な王だ。
でも、それを言ったところで誰が信じてくれる?
私だって、城に行くまでは同じことを思っていた。誰かに「魔王はそんなんじゃない」と言われたところで、耳を貸さずに剣を向けただろう。
みんなが憎んでいるのはカリス自身じゃない。歴史と歪みが作り上げた、"絶望の象徴"だ。それを知っているのは、人間の世界ではただ一人、私だけで——。
(結局、なにも出来ないじゃん)
自分で自分に呆れて、小さく溜め息が漏れた。聞きたくなくて、目を背けるようにその場を去る。
何も知らない振りをして、村の生活に紛れ込む。それが今の私にできた唯一のことだった。
◇ ◇ ◇
そんな日々が何日続いただろう。昼下がり、隣町から戻ってきた行商人が、いつもとは違う早足で広場の井戸端に駆け込んできた。
手にはシワだらけの号外。背中の荷物も降ろさないまま、息を切らしている。
「皆、大変だ……スペルビアの動きが、おかしい」
「……っ!?」
周囲で休んでいた村人たちが、何事かと顔を上げる。私もまた、井戸の縁から立ち上がってその輪に近づいた。
行商人が広げた紙面に、村人たちが詰め寄る。文字を読める者が一人、声に出して読み上げ始めた。
「難民の保護強化、それに伴う居住区の再編……地方領主の粛清開始……近隣諸国への、奴隷解放の最後通牒……狂ったのか?」
「いや、保護なんて名目だけの奴隷だろ。あの魔王、自分の国に労働力を集中させようとしてるんだ」
「最後通牒って、戦争でもやろうってのか?」
「居住の再編……まだ俺たちを追いやるつもりかよ」
ざわめきが広がる。子供たちが意味も分からないまま、大人の顔色を見て黙り込む。井戸端のおばあちゃんが胸の前で印を結ぶ。
その輪の内側で、私だけが息を止めていた。不安が村中に伝播していく中、頭の芯が冷たく冴え渡っていく。
(明らかに、おかしい)
カリスがそんな見境のない真似をするはずがない。あいつの行動には理由がある。
どうして、こんな世界中をめちゃくちゃにするようなことを——。
『オレの全てをもって、あれを砕く』
脳裏に蘇る、あの日の言葉。その瞬間、背筋が凍った。
(っ……違う。あいつ、終わらせる気なんだ!)
気付けば走り出していた。呼び止める男の声も、後ろから追ってくる叔母の声も、まともに聞き取れないままに駆ける。
自分の部屋に飛び込むなり、隅に放り出していた荷物を引っ掴んで、あいつが握らせた短刀を腰の帯に縛り付ける。
やっぱり、私の居場所はここじゃない。ここで動かなかったら、多分一生後悔して過ごすことになる。部屋を飛び出して、後にしようと思った矢先——入り口に立つ叔母を前に足が止まった。
「どこへ行くんだい、リン」
声が震えていた。片手に古びた水差しを抱えたまま、私の格好を見て口を半開きにしている。帯に縛り付けた短刀に、掴んだままの外套。明らかにまた出ていくのだと分かる姿だ。言い訳なんてしようが無い。
叔母は私を捨てなかった人だ。両親を失った私を引き取って、得体の知れない力を宿した後も、十年以上面倒を見てくれた。
出ていく時に何も告げなかった私を、それでも待っていてくれた人に、また背を向けるんだ。本当の理由すら言えないまま。
「私、行かないと……ごめんなさい」
カリスは思っているような魔王じゃない。世界の常識が間違っている。
あいつが本物で、私は偽物の勇者だなんて……みんなが憎んでいるものの中身が、本当はどんな顔をしているかなんて話せない。上手く伝わる形にできない。
「あの時も、あんたは何も言わずに出て行ったね」
「……うん」
「でも、今回は違うみたいだね。顔を見りゃわかるよ」
私が弁明するより先に、叔母はどこか諦めたように小さな笑みを浮かべる。
「あの時は、あたしらが恨みで背中を押しちまった。……今度は、誰のためだい?」
誰のため、か。
昔の私なら、みんなのためにって答えただろう。両親のために、虐げられた人達のために、世界のために。心からそう思っていたから。
でも、今は——。
「自分のため。あと……力になりたい人が、一人いる」
偽りのない望み。崇高でもなんでもない理由に、叔母は茶化さなかった。呆れもしなかった。ただ、抱えていた水差しをゆっくり床に置いて、両手で私の頬に触れる。
掌が乾いていて、少しだけ冷たい。そのまま少しだけそうした後に、叔母は脇に退いた。扉の前から一歩、私が出ていける幅を空けるように。
「行っといで」
「……ありがとう。行ってきます」
振り返らずに、今度は自分自身の意思で、私は外へと踏み出した。
私は偽物だ。選ばれた勇者じゃないし、他ならぬ本物に舞台から降ろされた。あいつの計画に都合が良かっただけで、関わる資格なんて最初から無かったかもしれない。
戻ったところで、何ができるのかも分からない。あいつの思い描いた結末に、大した影響なんて与えられない。
でも、それでも——何が起こっているのかも知らないまま、あいつが一人で死ぬのを黙って見過ごすなんて、そんなの納得できない。
人を散々振り回して、あれだけ私を揺さぶっておいて、あんな表情で……自分だけで世界を変える?
ふざけんな。あんたの思い通りになんてさせない。だったら最後まで偽物らしく、あんたの予想を裏切ってやる。
「待ってなさい、カリス……!」
魔力を練り上げて、到着地のイメージを浮かべながら術式を組み上げる。行き先はもちろん、あいつがいるフレッツの王城。
距離がある分、成功するかは確実じゃないけど……風に包まれて視界が滲む中、あいつの顔を強く思い浮かべながら転移の術式を発動させた。




