22話 勇者
ずっと疑問だった。
この歪みは、どうすれば正せるのか。
諦観していた。
一人の意思で変わるほど、単純な話ではないと。
常に思っていた。
こんな常識なら、壊してしまいたいと。
『カリス。私の宝物……生まれてきてくれて、ありがとう』
慈愛と祝福に満ちた声。最も古い記憶だった。
他のどんな世辞や礼賛を受けても、心には残らなかった。どれも利害の絡まない言葉とは思えず、陳腐に聞こえたからだ。
母が授けたその言葉は、それらと比べると妙に心地が良かった。
『お前さえいれば、スペルビアの統治も万全だ』
力を見れば、父は満足げにそう口にした。他の者も、口を揃えて同じことを言う。……が、心底どうでもよかった。
父は後継として、周囲の者は未来の君主として、力だけを見ている。その裏に薄汚い政治闘争が絡んでいることも隠さずに。
この城という名の箱庭は、汚泥を煮詰めた底のような居心地だった。
六つの頃、母が死んだ。
死因は食事に混ぜられた劇毒——暗殺だ。
王妃という立場故か。あるいは、力を増すオレへの牽制か。父の政敵によるものだろう。
ただ、死んだ存在は戻らない。どんなに善い者でも必ず死ぬ。そう学んだ、はずだった。
主犯を捕らえて斬り伏せても、血肉が時を遡り再生する。何度やっても同じように、男は蘇りながら許しを乞い続ける。
その姿に抱いた、不快感と嫌悪感。母以外の死に初めて触れながら、同時に理解できなかった。
『なんだ、それは……お前のようなクズは死なないのに、母は何故死んだ?』
この悍ましい力を、自分だけは使うまいと決めたのは、この瞬間だ。薄気味悪いそれに頼らず生き延びるため、あらゆる死を遠ざける日々が始まった。
それから四年後、十になる頃。剣でヴィンセントを上回ると、自分が異質な存在だという自覚も生まれつつあった。
あらゆる事象を読み解く力。それに適応する成長。そして最も得意とする光の力。封印した再生と合わせて、それらは古い文献の勇者と合致する。
だが、決定的な矛盾がある。
歴史上の勇者は人間。聖剣もまた、人間にしか触れられない神器であると伝わっている。ならば、魔族であるはずのオレは何だ?
違和感のままに、冒険譚を読み漁る。人間が魔王を倒すという部分は自虐的だが、勇者がもたらした「めでたしの結末」には興味があった。
城の書庫から、ソーンズ家の書庫へ。そして地下の書斎の封印を解き……そこでオレは真実に辿り着いた。
この世界は、巨大な歪みの上に成り立っている。
めでたしの先にあった、捻れた歴史。
これが望まれた理想だというのなら反吐が出る。
戴冠の日、魔王として生きることを決めた瞬間——使う資格など無くなった勇者の力を、皮肉好きな神に示してみせた。
この力を生まれ持ったことに、そして母の死に、意味はあったのだろうか。勇者とは理不尽な停滞を打破し、変えるものではないのか?
内から変えるには時間も足りず、根本の解決には至らない。とはいえ、歪みの元凶を壊せば、オレは民の命を切り捨てることになる。
古い冒険譚に綴られる御伽話。その続きが成されることは無いと思っていた。変わらない世界で、魔王として君臨し続けることにも慣れてきたある日——お前が現れて勇者を名乗った、あの日までは。
『私は、勇者として……あんたを殺して、世界を変えるために来たの』
聞いた瞬間、何かが軋んだ。どういうわけか聖剣に触れ、本来ならあり得ない外付けの加護を得た少女。その理不尽を憎む瞳には、ひどく見覚えがある。
そして同時に思ってしまった。もし、本当に世界を変えたいと願うのなら。自分の意思で進み続け、現実を知って尚も進むのなら……お前に託してみたい、と。
◇ ◇ ◇
陽の光が、闇を照らすように窓から差し込む。午前のものとは思えないほど鋭く、机の上に広がった書類を白く焼いている。
床に転がった金属音と、背後の細く乱れた呼吸が、事実を雄弁に物語っていた。オレの目論見は失敗に終わったのだと。憎しみに駆られ、真実を追って来た少女は最後の一歩で止まった。
「お前はオレを殺すために、今日ここまで来たはずだろう」
「……無理、だよ……あんたが、どんな奴か知っちゃったから……!」
最後の言葉は嗚咽に飲まれた。だが、その善性を鑑みれば必然であったかもしれない。
立ち上がって振り返ると、目尻を赤くしたリンが、唇を噛みしめてこちらを睨んでいる。琥珀の瞳……その奥に見える憎しみの色は、消えてはいない。
「憎いのだろう。なら、何故迷う」
「親を奪った魔族も、こんな世界も、憎いに決まってる。でも……殺せって言われて、はいそうですかって殺せるわけないでしょ!」
「ここで殺せないのなら、お前は何の為にここに来た」
「だったら教えてよ! あんたが隠してることも、どういう考えなのかも全部……何も知らないまま、あんたの都合だけで人殺しにさせないで!」
切実で、痛々しい叫び。堰を切ったようにリンは続ける。濃緋色の髪を震わせ、俯きながらも、その気迫が衰える気配は無かった。
「あんたが聞いてたような魔王じゃないのは分かった。魔族にも色んな人がいて、ちゃんと社会があるっていうのも……悔しいけど、この国はちゃんと秩序で成立してる」
「…………」
「でも、あんたが変えたいのは世界なんでしょ。世界を変えることは無理って諦めながらも、せめて自分の国だけでも変えてきて……だから、それを壊そうとしたヒューイを許せなかった。違う?」
「……ああ、そうだ」
返す言葉もない。肯定を吐き出した瞬間、喉の奥に苦い鉄の味がした。
最善ではないと知りながら、王として秩序を選び続けてきた。崩壊の中で滅ぶよりは、せめて救える範囲だけでも救い、緩やかに生きる方がいいと自分に言い聞かせて。
穏健な改革と言えば聞こえはいいが、滅びを遅めているだけに過ぎない。世界はゆっくりと腐っていく……死を忘れた者だけが栄え、他の命はこのまま疲弊していく。それが王としての限界だった。
お前も同じだろう、リン。たった一人がそう望んだところで、この世界を変えることなど——。
「教えてよ」
「……何?」
思考を遮られ、思わず顔を上げる。リンは濡れた頬を拭うこともせずに立ち上がり、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「私は、こんな世界を変えたい。あんたを殺せば変わると思って、そうするつもりだったけど……今はそれだけじゃ駄目だってわかったから」
凛とした声が、静まり返った執務室に響く。
短刀は床に転がったまま。丸腰でありながら、リンは一歩も退かずに立っていた。
「あんたが本気になれば、きっとできるんだろうけど……事情があるんでしょ。なら私がやるから、全部教えて」
「正気か。オレは魔王だぞ?」
「そんなのどうでもいいし、あんたが何者かなんて関係ない。あんたは誰よりこの歪みを憎んでいる。……私は本物の勇者じゃないかもしれないけど、そこだけはあんたと同じだから」
リンが息を呑む。彼女自身、次に出てくる言葉に驚いているような顔だった。
「……それでも無理なら、二人でやろうよ」
二人で——その一言が、奇妙にゆっくりと響いた。
窓の外の鳥の声も、いつの間にか聞こえない。ただ、リンの言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。
「カリス?」
その声で、自分が呼吸を止めていたことに気付いた。
胸の奥で、何かが軋む音がする。長年そこに在り続けた、重く冷たい塊のようなもの。それがひび割れていく。
オレとリンは、同じだと思っていた。
大切なものを奪われ、理不尽な理に絶望し、勇者の力を持ちながら、出口のない暗闇を彷徨う同類なのだと。
だからこそ、魔王ではないお前なら、オレを殺す正解を選んでくれると信じていた。勇者として、代わりに自分の意思で世界を変えてくれるだろうと。
だが、違う。
オレが動かないことを正当化していたのに対して、リンは諦めなかった。ただ、奪われた者として、傷ついた者として、泥を這いずりながらここまで来た。
そんな彼女が、オレすら投げ出した変革をまだ掴もうとしている。しかも一緒に、と。
(お前は、諦めないのか? オレのことを……そちら側に、引き戻そうというのか?)
かつて、魔王となる際に捨てたはずのもの。殻の内に残っていたそれが、再び脈動するのを感じた。
囲っていた壁が崩れていく。その壁の向こうに、ずっと埋めてきたものがあった。責任、あるいは秩序と呼んでいたものの正体。先が見えないまま、無責任に変えることが——。
「……怖かった、のか」
認めてしまうと、呆気ないほど腑に落ちた。同時に、喉の奥から覚えのない音が漏れている。それが自分の笑いだと気付いた時、オレ自身が一番驚いた。
「ク、ハハ……」
「な、何がおかしいのさ」
「……リン。やはりお前は、オレが認めた勇者だ」
力も、地位も持っているはずのオレが、たった一人の意志にこれほどまで打ちのめされている。それが不思議と悪い気はしない。
床に転がった短刀を拾い上げ、リンの手に握らせる。刃に映る自分の顔は、初めて見る顔だった。リンの指が、確かめるように柄に力を込める。
「オレの望みは、理不尽な命の格差を消し去ることだ。命の価値を捻じ曲げる加護、その力が狂わせた境界を、元ある形に戻したい」
「……やっと、喋ってくれた。ありのままの世界って、そういう意味だったんだ」
「加護は本来、聖剣の担い手だけが持つはずだった。だが聖剣が返された際、生命の起源である世界樹を通して、加護は民へと広がり……そして、この歪みが生まれた」
聞くうちに、リンの顔から血の気が引いていく。この娘は聖剣に触れて加護を宿したはずだ。勇者の力で顕現するそれにどう触れたかは不明だが、心当たりがあるのだろう。
「歪みを断つには、世界樹から聖剣を抜く必要がある。二度と同じことを起こさんためにも、破壊する他にない」
「破壊って、どうやって」
「女神とやらが消えた以上、世界を覆うだけの加護と同格の力で相殺するしかない。つまり聖剣の適格者——オレの全てをもって、あれを砕く」
リンの瞳が、大きく見開かれる。
魔王でありながら勇者などと、信じ難いだろう。お前が勇者だと名乗った時、オレも同じ思いだった。
「……あんたが、本物の勇者?」
「勇者として自ら消えるか、魔王の責任を全うするか。オレは選べずにいた。……だが、そこにもう一人の適格者としてお前が現れた」
「だからあの時、私を……っ、待って。待ってよ。それ、つまり……」
一拍、空白が落ちる。伝えるべき言葉は、とうに用意してあった。何度も口の中で転がし、いつかはそうする必要があると。
だが、この少女に向けて口にするものとして、それが本当に正しいのか。一瞬の躊躇が生まれるが……押し殺して口にする。最初から決めていたことだ。
「お前はオレを除き、唯一聖剣に干渉できる。お前にオレを殺させ、遺した全ての魔力で聖剣を破壊させる。……魔王は再び勇者に討たれたという物語を作り、名実共に勇者となったお前に後を託す。それがオレの計画だった」
沈黙が場を支配する。窓の外で鳴く、鳥の声だけが戻ってきた。
リンは何かを言おうとしてはやめて、立ち尽くしている。やがて絞り出された声は小さく、低かった。
「私が、ここに来てから……最初から、ずっとそのつもりだったの?」
「復讐者として、オレを狙う勇者が現れた。おあつらえむきだろう」
「だから私を疑わなかったんだ、勇者だって。……あんた、一度も否定しなかったよね」
「お前の言葉で確信に変わった。その力は誰より知っていたからな」
千載一遇の好機だと、そう思った。よもや勇者がもう一人、魔王であるオレを討つなどと言い出したのだから。
「他に方法は無いの? ちゃんと、ちゃんと探したの?」
「十年以上、探し続けた結果だ」
「……っ!」
リンの肩が落ちる。唇を噛み、俯いたまま揺れる瞳には、怒りと絶望、そして諦めないという意志が混じっていた。
やはり、抗うのだな。それが憎み続けたオレの為であろうと……お前は本当に、誰よりも勇者らしい。
確かにオレは、お前に託すつもりだった。それが全てを押し付ける甘えだとしても、王の道を踏み外さずに世界を正す唯一の手段だと。
だが、お前のせいで決めていたことが揺らいだ。"この先にある真実"を受け止めるのは、オレだけでいい。
「……お前は、前だけ見ていろ」
一歩引き、リンの足元に魔力を奔らせる。
床に描かれた幾何学模様が、光を放って彼女を包み込んだ。本人も理解できないまま、その体は浮き上がり透けていく。
「えっ……何、これ!」
「ここから先はオレがやる。お前の姿を見て、気が変わった」
「待って……私、二人でって言ったでしょ! 一人で抱え込まないでよっ!」
その叫びに、思わず目を細める。そんな言葉を、お前が向けてくる日が来るとは思わなかった。
この世で唯一、オレと望みを共有できる少女が、憎しみを経て辿り着いた答え。かつて母から授かった言葉よりも、それは重く突き刺さった。
だからこそ、お前を最後の選択に立たせるわけにはいかない。これ以上、何も背負わせはしない。
"かつての勇者が辿った結末"も、今のお前なら避けられる。アルトや他の者を頼って、歪みの消えた世界で生きてくれ。
「リン……ありがとう」
「カリス——!」
伸ばされた手が、外套の端を掠める。悲鳴にも似た声と共に、光が弾けた。
最後に見えた、濡れたままの琥珀の瞳。視界を満たした白が消えた時、そこには静寂だけが残っていた。
「……すまないな」
ひとりでに、呟きが溢れる。
ここまで振り回しておいて、身勝手なのは分かっている。だが、初めて自分の我儘を通してみたくなった。
選択から逃げてきたのはオレだ。あの真っ直ぐな瞳に、その答えまで押し付けることなどできようものか。
「——あのような申し出を無碍にするなど。其方、よもや一人で背負うつもりか」
影の中から、気配が一つ浮き上がる。
闇に溶ける、黒と紫を基調とした衣。幼さを残す外見と相反する、老獪さを秘めた真紅の瞳。そして、額より伸びる漆黒の角。
そんな異形、もうこの世には一人しか残っていない。
「覗き見か。趣味の悪い老婆だ」
「くふふっ、良いじゃろう。余の立場を考えればこれくらい。……本当に良いのじゃな?」
「構わん。元よりオレの役目だろう」
「……愚かじゃな。勇者という人種は、いつの世も極端な物言いをしよる」
少女の形をした異物は深く息を吐くと、そう言い残して影へと沈んでいく。確かにオレは愚者なのだろうな。
かつての勇者が、世界樹に突き立てた聖剣。それを引き抜けば、民は不死の夢を奪われる。混乱、怒り、絶望——全てが噴出し、オレは大罪の魔王として呪われることになる。
だが、それで構わない。
理不尽な命の不平等も、根から断たれて消える。それが、勇者の魂を埋め殺してきた魔王の、最後の仕事だ。
今更、胸を張れるものではない。それでも……幼いあの日に諦めた少年と、ようやく目を合わせられる気がした。
「見ていろ、リン。この歪み、オレが破壊する」




