21話 名前
夜の医務室は、世界から切り離されたように静まり返っていた。
窓から差し込む月明かりが、白い石の床を四角く切り取っている。私はベッドの上で膝を抱えて、そこで揺れる自分の影をぼんやりと見つめていた。
『オレを殺してみろ、勇者リン』
滴り落ちた血。自分で剣を滑らせた掌。そう告げてこっちを見ていた、透き通った目。
殺せって何? ここまで来て、全部を背負った顔で私に殺せって。
「……意味わかんないっての」
ひとりでに漏れ出た声が、石造りの壁に吸い込まれていく。膝に顔を埋めようとした、その時……コン、と扉が控えめに叩かれた。
「起きているかい、リンちゃん」
「……アルト?」
入るなり頭を下げたアルトは、夜着に薄手の羽織りものという軽装だった。いつもの飄々とした佇まいはそのままなのに、どこか顔に疲労の色が滲んでいる。
「すまない。私がヒューイを容疑者から除外して、君を危険な目に遭わせた」
「ううん。火を付けたのは私だし、飛び込んだのも自分で選んだことだから」
「……そうか。君がそう言ってくれるなら本題に入ろうか」
ベッドの脇にある丸椅子に腰を下ろすと、アルトは手帳を開きながら話を始めた。
「ソーンズ卿の書庫で過去を調べてきた。記録された勇者の加護は、超常的な成長能力。見たものを学び取る目。そして……強力な蘇生の力だ」
「蘇生、って……!」
「ああ、魔族の再生と同様のものだろうね。ソーンズ卿の見解も同じだった」
心の底が冷たくなった。世界に逆らうように、不自然に再生する魔族の体を思い出す。
あのおぞましい力が、勇者と同じものだと信じたくはない。近いものはあると思ってはいたけど……。
「でも、私は再生しないよ。今日の怪我だって魔王が治した」
「そう、記録と現実が一致しない。となると、過去の伝承が歪められているか……あるいは、君が従来の勇者とは違う存在なのか、どちらかだ」
頭の中に浮かび上がる、真ならざる勇者という言葉。あいつは私を勇者そのものって言ったのに……無意識に、自分の唇を噛んでいた。
納得していないのはアルトも同じのようで、口元に手を当てたまま考え込んでいた。
「リンちゃん。君の得意な属性は?」
「馴染むのは火と風。一番体に合うのは闇で、光は……今日、少し試して死にかけた」
「光の適性は、私と同じか。……いや、やっぱり変だ」
手帳を捲りながら、アルトは神妙な表情でそう告げる。
「本来、聖剣の勇者なら光との親和性があって然るべきなんだ。少なくとも記録上は、勇者は常に光の象徴として語られている。相反する闇が一番得意、なんてあり得ない」
「でも私、聖剣なんて知らない。見たことも、触ったことも無いよ」
「なら、君が力を得たのはいつだ?」
その問いに、喉が詰まった。
言ったことはない。魔王にも、アルトにも、シュナさんにも。信じてもらえるわけがないと思っていたから、自分の中だけに仕舞い込んでいた。
でも、この状況で今更隠しても意味がない。だから……。
「……夢を、見たんだ」
夢か現実かすら曖昧な、目に焼き付いた景色。声にした瞬間、何年もかけて積もった埃を吹き飛ばすような、妙な感覚があった。
「その日、空を覆うくらいの流星を見た。すごく綺麗で、それで気を失って……」
思い出そうとすると、頭の奥がざらつく。でも、断片だけは夢に見る。
「気が付いたら、見上げるくらい大きな樹の根元にいて……そこに、何かが刺さってた。光ってて、呼んでいるようで、触った瞬間に目が覚めて。そしたら力が宿ってた」
アルトが息を呑んだのが分かった。まさか、というように、その碧眼が驚きの色を帯びていく。
優しかった叔母にも最初は気味悪がられたっけ。その日から、みんなが私に魔族への恨みを浴びせ始めた。その力で魔族を、魔王を殺せ、と。
シーツの皺を指先でなぞるたびに、その時の声が遠くに聞こえるような気がする。
「何度も同じ夢を見たけど、起きると薄れちゃって……細かいところは、覚えてない」
言い終えた後、部屋が不自然なくらい静かになっていた。アルトは肘をついて口元を覆っている。まるで何かを必死に組み立てているように。
「……その夢の中で、刺さっていたのは、剣だったかい?」
「杭、みたいに考えてたけど。剣って、言われてみれば……ちゃんと覚えてるのは、細くて光ってることだけ」
「初めて夢を見たのは?」
「八歳の冬からだけど」
「リンちゃんは、二十歳か……っ、まさか……!」
聞くなり、アルトが弾かれたように立ち上がった。丸椅子の脚が床を擦り、静まり返った医務室に小さな音が響く。
「……そうか。そういう、ことか」
「何か分かったの?」
「君が初めてそれを見たのは、十二年前……恐らく、戴冠式の日だ。君が見た流星は、カリスが解放した光と同じものだろう」
私はその言葉を聞いて、思わず自分の手を見下ろした。
記憶にある流星群と、アルトの語った過去の話。夢か現実かも曖昧だったからか、その二つを結びつけようとも思っていなかった。
魔王の戴冠と、私が力を得た日が同じって……因果は分からない。でも、事実なら出来すぎている。この体には、あいつが自分を捨てた時に生まれた何かが宿っている?
「私の中に、何があるの?」
「まだ、何とも言えない。ひとつだけ確かなのは……君が何者であれ、カリスと君はどこかで繋がっている」
「でもあいつは魔王で、魔族だよ。私は人間で……」
「……今日はここまでにしよう。情報が足りなさすぎるし、君は休むべきだ」
「っ……待って!」
椅子の位置を戻しながら背を向けたアルトを、慌てて呼び止める。今回だけは、悠長なことを言ってられない。
「あまり時間は無いかも。あいつ、明らかに様子が変だよ」
「カリスに何かあったのかい?」
「少し前から、変だけど……今日は全然違った。再生を使わない、殺してみろって、真正面から言われたの」
「……そうか。急がないとね」
アルトは足早に扉へと歩いていく。部屋を出る直前、扉に手をかけて立ち止まった。
「あまり気負い過ぎないでね。私もいるし、真実までもう少しというところには来ているはずだ。……君は自分が正しいと思ったことをすればいい」
扉が静かに閉まる。一人残された医務室で、私はもう一度だけ手を見つめた。
頭の中に残り続ける、あいつの言葉。
体の内にある、あいつと繋がっている力。
あいつは全ての答えを持って、私を待っている。
(……どうしろってのさ)
私は答えの出ない問いを、世界に向けて投げることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
あれから数日が経った。
城の中は慌ただしくて、アルトは情報収集を進めつつ、シュナさんと保護法周りの再整備をしているらしい。
裁判を待つ間、ヒューイは拘束されたまま屋敷に留め置かれ、それを庇ったエヴァン卿は勢力の立て直しに奔走している。エルロン卿は事件のことを受けて、城内の警備を強化したようだ。
その中で、私の周りは特に変化が無かった。
あれだけの大立ち回りをしたのに、私の力や魔王との関係には誰も触れてこない。あいつの様子が変だったこともあってなのか、腫れ物扱いなのかもしれない。
いつも通りに掃除をして、いつも通りにマーサと言葉を交わして、いつも通りに眠る日々。あいつはといえば、特に何事もない様子で公務にあたっている。
「リンちゃん、手が止まってるよー」
「あ、うん……ごめん」
廊下の磨き上げを中断して、モップを握ったままぼんやりとしていた。慌てて動き出すと、マーサが笑って持ち場に戻っていく。
ここ最近、ずっとこんな状態が続いている。目の前の石畳を磨いては、今日も揺れる自分の影を見ていた。
執務室に行けば、書類に目を通している魔王がいる。
それまでは無意識に間合いを測っていたのに、今は見ているだけで時間が過ぎていく。
技術的には……もう、やれるのかもしれない。あいつが嘘を言うとは思えないし、私の中でも不意打ちに必要な手札は揃っていた。
でも、殺したらどうなる?
あの言葉が本当なら、殺せば全部分かる。世界の歪みも、あいつの望みも。あいつが死んだ後で、私は正解を見つけることができる。けど……それで私は納得するの?
訓練場で剣を振っても、剣先が途中で止まる。最短、最速のイメージで振るはずの剣が、何度も何度も、同じ場所で同じように。
世界を変えたい意思は変わってない。守りたいものだって変わっていないはず。それでもあいつを思い浮かべると、攻めに寄った剣は振れなくなっていた。
(……このままじゃ、進めない)
そう思う自分と、ここで諦めたら両親は浮かばれないと詰め寄る自分が、毎晩のように喧嘩をしていた。
◇ ◇ ◇
それから更に一週間。すっかり気持ちは磨耗していた。
アルトも手詰まりのようで核心には近づけず、都合よくあの少女が出てくることもない。そもそも、その気になった魔王から情報を抜くこと自体が無理難題だ。
時間になって、執務室の掃除に入る。
変わらない様子で机に向かう魔王。書類に目を落として、規則正しくページをめくる音だけが部屋に響いている。
朝の陽射しが斜めに入って、暗い銀髪の輪郭をほんの少し縁取っていた。
いつも通りのはずだった。
なのに、今日に限って気付いてしまった。
(……見える)
私と執務机の位置関係。
あいつの視界と、必殺の距離に到達するまでの歩数。
踏み出す足のどこに体重を乗せればいいか。
あいつの歩法を再現できる時間。呼吸の間隔。書類をめくる手が止まる瞬間。
これまでに何度も見てきた動きに、馴染ませ続けてきた技の感覚。それらが今、一つの線として繋がってしまった。
——今なら、殺せる。
モップを握る指先が震えた。確実に、あいつが振り返る前に首を落とせる。
長いスカートの内、太腿に隠した短刀。ここ数日、迷いながらもずっと持ち歩いていた刃に手が触れる。
頭の中で、ぐるぐると巡る過去。迷いながらも進んできたこれまでの日々。その答えを、こいつが持っている。
(あんたが、答えを抱えて待ってるなら……!)
気取られないように、微弱な魔力の膜を纏う。世界の全てを押し退けながら、肺に空気を溜めて一気に踏み出した。
あと、五歩。
これで、全部終わる。両親の無念を晴らせる。
世界を変える方法を、こいつが持っているなら……これで全部変えられるはず。
あと、四歩。
これでいい。これしかない。私はそのためにここまで来た。
八歳の時。あの夢を見てから、ずっとずっとそのために準備してきた。ここで怯んだら、全部無駄になる。
あと、三歩。
そもそも、殺せって言ったのはこいつだ。そのために私を待っていたんでしょ?
私は復讐を終えて、こいつは死んで、望み通りに世界が変わる。それでいいでしょ?
なのに——。
あと、二歩。
剣先が震える。殺意が剣に乗り切らない。
あんたが、真っ直ぐな瞳で正義を語らなければ。
誰にも頼らず、暴君にもならず、一人で世界を背負おうとしなければ。
その手を、私なんかに差し伸べなければ。
(あんたが、救いようのないクズだったら良かったのに……!)
あと、一歩——。
その一歩が、踏み出せなかった。
カシャン、と。乾いた金属音が執務室の静寂を切り裂く。自分の意思で握っていたはずの短刀が、指先から滑り落ちて床に転がっていた。
音は小さいのに、妙に長く響く。耳の中で何度も跳ね返るように。
呼吸が、上手くできない。足が震えて、立っているのも精一杯だった。視界が滲んで、頬に冷たいものが落ちる。これは……涙?
ここに来てからの記憶が、流れるように頭の中を埋めていく。
真っ直ぐに正義を掲げる目。
虫も嫌いな潔癖症のくせに、血に汚れながら傷を治した掌。
頭に置かれた、あの不器用な手の温度。
私の喉は、気付けば勝手に初めての音を鳴らしていた。
「——、……カリス」
一度も呼んだことのなかった、魔王の名前。
自分でも驚くくらいに小さくて、掠れた声。
口にしたことで、何かが終わった。
足に込めた力が抜けて、そのまま崩れる。
沈黙の中、午前の光が差し込む執務室で……振り返らない背中を見たまま、私は動けないでいた。




